45❊嫌だ……
ガツンと頭が割れる感覚に襲われ、レヴィンは眉間に皺を寄せた。
あれから、どのくらい微睡んでいたのだろう。ぼんやりとした視界がくっきりと色を取り戻した瞬間、女の喚く声が聞こえてきた。
「私のやることに指図しないで!」
「君は、どうしてそこまでするんだ」
男が説教のような言葉を吐くと、今度は女が短く息を吐き出すのが分かった。
「十二歳からずっと王妃になるための教育を死ぬ気で頑張ってきたのよ。彼だけを見てきたの、パトリック王子に愛されるためにどれだけ我慢したか……」
泣き声が交じった声は、話の内容からしてカトリーヌなのだと思う。
「君が努力してきたことは分かってる。けれど、レヴィン様には関係のないことだ」
自分の名が出たことで、ようやく男の素姓が分かった。
その人物がライナーだと知り、自分は死ぬのだろうかと不安が過ぎるより、セルジュの顔が浮かんだ。
――嫌だ……。
今までだって死ぬのは嫌だったが、こんなにも嫌だと心から思ったことはなかった。
もし、今回も死んでしまったら……? また〝誓の間〟に戻されてしまったら? 今度は自分のことを忘れているかもしれない。
必死に手繰り寄せても、一緒に過ごした幸せだった記憶が彼の中に存在しない可能性を考えると、胸の中に岩が蓄積していくように鈍く重い痛みが走った。
そう思ったら自然と身体に力が入り、縛られている手に力が入った。
何とかして拘束されている手を解こうと手首を動かしていると、じゃりっと地面を踏む音が聞こえてくる。こちらに誰かが近づいてくる気配を感じたレヴィンは、咄嗟に目をぎゅっと瞑った。
「教皇閣下に手渡せばいいだけのことよ、あとは閣下がオメガを浄化してくれるわ」
「馬鹿なことをするのはやめよう。いいか、ベンディーク国王陛下は大概のことは把握しているみたいだった。おそらく君のことだって――」
ダンと大きな音が床を振動させてレヴィンの元まで伝わってきた。
「だから何?」
「君は恨む相手を間違えている」
「いいえ、このオメガがパトリック王子を誘惑したのよ、私が属性を持たないからって馬鹿にして」
ハァ、とライナーから吐き出された深い溜息は、ほとほと困り果てたという感情が込められている気がした。
――いったい……、何の話だ……。
カトリーヌのいうオメガとは恐らくレヴィンのことを言っているのだと分かったが、そこに兄の名前が出てくることが不可解で、耳の鼓膜がキンと痛くなった。
考えてはいけないことだと本能が告げてくる。それ以上は耳を塞いで死んだように眠る方がいいと、きっと良くないことが起きると、けれどレヴィンは目を開けてしまった。
「あら、起きたの……」
「カトリーヌ嬢……」
顔を見上げれば、腕組をしたカトリーヌの苛立った目がレヴィンの視界を襲う。
「あなた、いつパトリック様を誘惑したの?」
「カトリーヌ、やめないか」
止めに入ったライナーが沈んだ声で、レヴィンに向かって申し訳ありませんと謝罪してくる。その態度を見て、今世では彼に殺されないのではないかと思った。
「ライナー卿、私はどうしてこんな目に遭っているか説明してくれないか」
殺されないかもしれないと思いつつも、レヴィンは声が震えており、多少は気が動転していた。
聞いてはいけない話なのだとライナーの顔を見れば分かるのに、説明を求めた自分を見てカトリーヌが、「説明ですって?」と怒りを滲ませた声を発した。
おそらく、レヴィンの質問が、彼女の最後の理性をもぎ取ったのだろう。
「オメガ、オメガ、オメガ、本当に憎たらしい! しかも実の兄を誑し込むなんて、その上品な顔の裏には低俗なオメガの卑しい情欲が溢れているのよ、いやらしい!」
そう言ってこちらへと歩み寄って来ると、片足を上げてレヴィンの顔めがけてその足を振り落とそうとしたが、ライナーがカトリーヌを抑え込んだ。
彼はカトリーヌの気が変になっていると説明をしてくるが、確かに彼女の言っていることも、今の行動もとても正気ではないとレヴィンは思った。
「変な話だ。私が兄上を誑し込むなど……、ライナー卿、これを外してもらえないだろうか……」
手足を縛られて床に転がされたままでは話しにくい。レヴィンはとにかく一度話し合いを求めた。
きっと話せば分かってくれる。彼女がさっきから言っていることも、気が変になってしまったから、そんなおかしな話をしているのだ。
そう、自分が兄を誘惑などするわけがないのだから――。
けれど、レヴィンの考えとは裏腹に、ライナーは硬く閉じていた口を開き、切なげに微笑むと言葉を紡いだ。
「レヴィン様、申し訳ありません。今は解放することは出来ません。それと、パトリック様があなたを異性としてお慕いしているのは本当です」
さっきからおかしなことばかり言う。きっとライナーもまともではないのだと思った。大きく溜息を吐いた彼は、厳しい目をレヴィンに向ける。
「あなたが初めて発情期を迎えた日、パトリック様に何とおっしゃいましたか……」
「私が発情期を迎えた日……?」
そんなものは、もう遠い過去の出来事でレヴィンの記憶にはなかった。十歳より前の記憶は殆ど薄れてしまっている。
「覚えていない……」
「パトリック様は、その時のあなたのことが忘れられないそうですよ」
レヴィンはパチパチと瞬きを繰り返した。弟の自分が兄の前で発情し、何かを言ったのだとしても、兄が自分を愛しているのは兄弟だからだ。
いくら兄がアルファだからと言って、兄弟以上の愛心を持つはずがない、「馬鹿なことを……」と失笑するかのようにその言葉を吐き、レヴィンは話を続けた。
「だって私は弟じゃないか、いくら発情したからといって……、そうだ兄上はオメガの誘惑にも耐えられる訓練をしたと言っていた。だから……」
ライナーは首を大きく横へ振った。
口を押えられ、羽交い絞めにされていたカトリーヌがバタバタと暴れる。
彼女はライナーの手を押しのけると、大きな声で叫ぶ、「あなたはオメガの中で特に淫らなオメガなのよ!」と憎しみの籠った恨めしそうな顔を向けてくる。
「どういう……」
まるで理解出来ないレヴィンは説明を求めるようにライナーを見た。
「稀有な誘惑香をお持ちだそうですね」
「私が……?」
「王妃様から説明ありませんでしたか?」
そんな説明を受けた記憶はなかった。けれど、初めて発情期がきたのが十歳前ならば、その時に受けたのだろう。
自分の中で十歳より前の記憶が消えかけている話をライナーにしたところで信じない。だから、レヴィンは素直に、「記憶がない」と答えた。
仕方がないとでも言うかのように、大きな息を吐き出した彼は、レヴィンが属性のない人間にも有効な稀有な誘惑香を持っていると説明した。
「レヴィン様、私もカトリーヌもこのままでは断罪しか道は残っておりません」
彼の覚悟の顔を見て、レヴィンは血の気が引くのを感じた。
カトリーヌは泣きながら、「あんたが、あんたのせいで……っ」とレヴィンを今にも絞め殺しにきそうなくらいの憎しみが彼女から伝わってくる。
「妹の結婚の日取りが決まったのよ……、どうして私じゃないの……」
「カトリーヌ……」
レヴィンのせいで自分は婚約破棄され、代わりに妹がパトリックと婚約し、しかも成婚の日取りが決まったのだと彼女は訴えてくる。
自分が知る限り、カトリーヌが兄の婚約者だった時は、王城での立ち居振る舞いも完璧で、兄に相応しい妃になると思った。
けれど、今の荒んだ彼女を見れば、その時とはあまりにも違い過ぎて、どう言葉をかけていいのか分からない。
しばらく放心状態のまま、レヴィンは二人の姿を見つめた――――。




