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水野司の世界の声  作者: すずはるな
水野司と世界の声
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第69話 前列大盾隊 死闘

 前列大盾隊――小隊長キシリは、敵の突撃に備えていた。


 彼は上級貴族である。


 貴族は大きく二種類に分かれていた。

 王家の血筋を受け継ぐ家系、もしくは王族の子弟と婚姻関係を結ぶ家が上級貴族と呼ばれ、国の重要な役職を与えられる。


 もちろん、貴族なら誰でも王族と縁を結べるわけではない。


 それなりの功績や実績、家格が重視される。


 そして、王家との血縁が遠くなると下級貴族と呼ばれ、一段低い扱いになる。


 キシリは上級貴族の中でも上位に位置する家の出だった。

 そのため、若くして小隊長の地位を得ている。


 家柄で地位を得た男だ。


 だが、それは王国では珍しくも恥でもない。

 むしろ当然のことだった。


 下位の騎士が地位を得るには、王家に近づくか、武勲を立てるしかない。


 しかし、その武勲を得ることが今では極めて難しかった。


 戦場で戦うのは異人たちだ。

 騎士は後方から命令を下すだけ。


 安全な場所にいる騎士に、武勲など生まれようがなかった。


 小隊長という地位も、騎士なら誰でも就けるものではない。

 限られた上級貴族のみが許される特別な役職だ。


 キシリはいずれ中隊長の座を狙っていた。

 だが今は、この立場だけでも十分満足している。


 馬上の彼は、ゆっくりと視線を前方へ向けた。


 五キロ先の地平線。

 そこには黒く塗り潰したような大軍勢が、横一線に広がっていた。


 乾いた風が平野を吹き抜ける。

 遠すぎて敵陣の細かな動きまでは見えない。


 やがて、一騎の騎士が王国軍の陣を離れた。


 手に掲げているのは使者の旗。

 戦場の掟により、その旗を掲げる者への攻撃は禁止されている。


 騎士は草原を駆け抜け、そのまま敵陣へ消えていった。


 遠目に旗が止まる。

 しばらくして、再びゆっくりと動き始めた。


 敵の指揮官が何を語ったのか、この距離では分からない。


 ただ、使者が無事に戻ってきたことで、両軍の準備が整ったことだけは理解できた。


 静寂が、ほんの数刻だけ戦場を支配する。


 そして――。


 敵陣から低い太鼓の音が響いた瞬間。


 地鳴りのような轟音が平野を震わせた。


「来るぞ」


 誰かが小さく呟く。


 敵が近づくにつれ、キシリの目にもその姿がはっきり映り始めた。


 全身が体毛で覆われた巨体。

 人間とは比べ物にならない速度で、大地を蹴りながら突進してくる。


 それは『亜人』と呼ばれる存在だった。


 亜人とは、反乱軍が使役する獣人である。


 反乱軍は、兵士だけでなく家族や労働者まで含めても、総勢数万程度と言われていた。


 王国とは比較にもならない兵力差。


 その差を埋めるため、反乱軍がどこからか連れてきた存在。

 未開の地から来たという説もあれば、異世界から現れた異人だという噂もある。


 真実を知る者はいない。


 亜人は反乱が始まってすぐ姿を現し、十年間、反乱軍の先兵として戦い続けていた。


 一体ごとの力は人間を遥かに上回る。

 だが、数で押し潰せば問題はない。


 少なくとも、これまではそうだった。


 先頭を走るのはイノシシに似た獣面の兵。


 身長二メートル。

 体重は二百五十キロを超える。


 その巨体が時速四十キロ近い速度で突進してくるのだ。


 武器は持っていない。


 だが、その肉体と速度そのものが、凶器だった。


 ほとんどはイノシシ亜人だが、中には水牛に似た亜人も混じっている。


 全身を覆う黒い体毛。

 頭の左右から伸びる巨大な角。


 アメリカスイギュウ、あるいはアメリカバイソンと呼ばれる動物によく似ていた。


 だが、どんな種類であろうと問題はない。


 この最前列には、亜人の突撃を止めるための大盾隊と長槍隊が配置されている。


 これまで何度もそうしてきた。


 今回も同じだ。

 キシリは無駄なことだと鼻で笑った。


 だが次の瞬間、彼は小さく眉をひそめた。


「なんだ……あれは?」


 周囲の騎士たちも異変を感じ取ったのか、ざわつき始める。


「速くないか?」


「おい、あんな速度だったか……?」


 突撃してくる亜人たちの速度が、いつもより明らかに速く見えた。


 地面を蹴るたび、大地が震える。

 土煙が激しく巻き上がり、イノシシ亜人たちが一直線に迫ってくる。


 そして彼らは、いつものようにタックルの姿勢を取った。


 大盾隊へ激突する。


 ――だが。


 次の瞬間、聞こえた音はいつもと違っていた。


 バキィッ。


 ドゴッ。


 木材が無理やりへし折られるような凄まじい破砕音が平野に響く。


「なっ――」


 キシリが目を見開く。


 大盾隊の異人たちが、盾ごと空高く吹き飛ばされていた。


 高さ一メートル五十センチ。

 横幅三メートル。

 厚さ十五ミリ。


 総重量五十キロを超える木製の横長大盾。


 その巨大な盾が、まるで木の葉のように宙を舞っている。


 なんとか耐えた組もあった。

 だが、大盾は大きく曲がり、とても使い物にはならない。


 盾の裏側では、一人の異人が血を吐きながら倒れていた。


 顔面は潰れ、鼻から大量の血が流れている。

 先ほどの衝突で全身の骨が砕けたのだろう。

 痙攣するだけで立ち上がれない。


 その異人へ、一体のイノシシ亜人がゆっくり近づいていく。


 大盾を軽々と放り捨てながら。


 異人は亜人の姿に気づき、潰れた顔を両手で隠した。


「いやだ……死にたくな――」


 ぐしゃり。


 イノシシ亜人の右足が、その頭を踏み潰した。


 赤黒い血と肉片が周囲に飛び散る。


 キシリの鼻に、生臭い血の匂いが流れ込んできた。


 周囲を見れば、吹き飛ばされた異人たちの内臓が地面に散乱している。

 腕が千切れ、胴体が潰れ、そこかしこに血肉が飛び散っていた。


 キシリは呆然と呟く。


「なんだこれは……いつもと違うぞ……」


 いつもなら、亜人は大盾とぶつかった直後に長槍で上半身を貫かれる。


 たまに突破してくる個体もいる。

 だが、それでも前列長槍隊がすぐに仕留めていた。


 大盾が一撃で大破することなど、これまで一度もなかった。


 では何が違うのか。


 見た目は変わらない。

 だが、目の前で起きている現実だけが、異常だと告げていた。


 長槍隊が、一体の亜人へ槍を突き出す。


 だが次の瞬間。


 亜人は腕の体毛だけで槍先を弾いた。


 キン、と金属音が響く。


「は……?」


 異人が呆けた声を漏らす。


 本来なら前脚にあるはずの蹄。

 だが、亜人の腕には人間のような五本指があった。


 拳を握れば、蹄のようにも見える。


 その拳が、信じられない速度で突き出される。


 長槍を持つ先頭の異人の腹へ、右ストレートがめり込む。


 拳は腹を突き破り、そのまま後ろの二人目まで貫いていた。


 二人は目を見開いたまま動かない。

 すでに絶命していた。


 後方にいた三人目の異人は、飛び散った血と肉片を必死に払いながら後ずさる。


 全身にまとわりつく臓物。

 温かい血が顔を流れる。


 だが、すぐに理解した。


 そんなことをしている場合ではない。


 逃げなくては。


 目の前の化け物から、一秒でも早く。


 しかし。


 彼の判断は遅すぎた。


 イノシシ亜人の拳が、すでに頭上まで振り上げられている。


 次の瞬間、拳が顔面へ振り下ろされた。


 まるでスイカが潰れたように頭部が砕け、血肉が周囲へ飛び散る。


 そんな地獄のような光景が、戦場のあちこちで起きていた。


 亜人の突進で圧死する者。


 吹き飛ばされ、地面に叩きつけられて死ぬ者。


 バイソン亜人の角に胴体を貫かれる者。


 奪われた長槍で逆に刺し殺される者。


 殺され方は様々だった。


 だが共通していることが一つだけある。


 異人たちが、あまりにも簡単に殺されていることだった。


 ふと、キシリの目が一人の異人を捉えた。


 腹から下を踏み潰されながらも、なお必死に地面を這っている。


「た、助け――」


 血に濡れた指が土を掻く。

 だが、その背後から一体のイノシシ亜人がゆっくりと歩み寄ってきた。


 異人は震えながら振り返る。


 次の瞬間。


 イノシシ亜人は右足を持ち上げ、その頭へゆっくりと全体重を乗せた。


 ぐしゃり。


 頭蓋が潰れ、血と脳漿が地面に広がる。


 イノシシ亜人の口元は、大きく歪んでいた。


 まるで笑っているようだった。


 人間を踏み潰す感触を楽しんでいる――

 そうとしか思えない笑みだった。


 周囲の亜人たちも同じだった。


 誰もが笑っている。


 楽しそうに。


 まるで遊んでいるかのように。


 キシリの背筋を冷たいものが走った。


 たしかに亜人は人間より数倍の力を持っている。


 個人で戦えば勝つことは困難だ。

 だが、異人を使って数で押せば倒せる存在だった。


 少なくとも、今までは。


 ここまで怪物じみた強さではなかったはずだ。


 だが現実は違う。


 目の前で起きている光景が、この異常こそ真実なのだと突きつけていた。


 その時だった。


 キシリは股間に妙な熱を感じる。


 視線を落とし、自分が失禁していることに気づいた。


「っ……」


 喉が引きつる。


 周囲の騎士たちも顔面を青ざめさせていた。


 ゴクリ。


 誰かが唾を飲み込む音がやけに大きく響く。


「無理だ……」


「助けてくれ……」


「こんなの間違ってる……」


 騎士たちの間から、弱々しい声が漏れ始める。


 そんな中、一人の騎士が怒鳴った。


「馬鹿を言うな!」


 震える声だった。

 だが、それでも必死に声を張り上げる。


「異人が戦っているのに、俺たち騎士が逃げられるものか!」


 彼はロングソードを抜き放った。


「俺たちは十分に訓練している! 戦ってあいつらを倒すんだ!」


 その言葉に、周囲の騎士たちもわずかに顔を上げる。


 そうだ。


 決して勝てない相手ではないはずだ。


 今までだって長槍で殺してきた。


 前列長槍隊の異人たちは、一週間ほどの訓練しか受けていない素人だ。

 武器に慣れていなかったから傷を負わせられなかっただけかもしれない。


 騎士は違う。


 日々、剣術を鍛えてきた。

 騎士同士で剣を交え、訓練を欠かした日は一日たりともない。


 異人など、所詮は徴兵された素人だ。


 自分たちの剣術が通じないはずがない。


 そう信じた騎士たちは、一斉にロングソードを抜き、亜人へ斬りかかった。


 だが。


 騎士たちの太刀筋は、あまりにも簡単に見切られた。


 亜人は両腕の体毛だけで剣を弾く。


 キィン、と甲高い金属音が響いた。


「なっ……!?」


 騎士が目を見開く。


 次の瞬間、亜人の拳が振り下ろされた。


 騎士の体が吹き飛ぶ。


 フルプレートの胸部が大きく陥没していた。


 鎧ごと肉体を破壊されたのだ。


 地面に転がった騎士は、血を吐きながら痙攣している。


 即死できなかったせいで、苦しそうに喉を鳴らしていた。


 だが、その中で一人の騎士の剣がイノシシ亜人の腹を捉える。


「やれるぞ!」


 騎士のロングソードが腹を切り裂いた。


 ――はずだった。


 ガギィンッ。


 ありえない金属音が鳴り響く。


 ロングソードは腹の体毛に弾かれていた。


「は……?」


 騎士が呆けた声を漏らした瞬間。


 亜人の拳が彼の胴体へ叩き込まれる。


 騎士は数メートル吹き飛び、そのまま地面を転がった。


 ピクピクと痙攣するだけで、それ以上動かない。


 その姿を見た他の騎士たちの顔から血の気が引いていく。


「どうしてだ……」


「こいつらの体毛、硬すぎる……」


 一人の騎士が震える声で呟く。


「ありえないだろ……これじゃまるで鎧じゃないか……」


 気付くべきだった。


 異人が長槍で亜人を突き刺そうとした時に。


 刃先を弾いた瞬間、金属音が鳴っていたことに。


 亜人たちの体毛は、太陽の光を反射して鈍い光沢を放っていた。


 まるで本当に金属の鎧でも纏っているかのように。


 この場の誰も予想していなかった。


 今日、自分たちが命を懸けて戦うことになるなど。


 異人が戦うだけ。

 自分たちは後方で見ているだけ。


 そんな十年を過ごしてきた。


 十年前の騎士なら違っただろう。


 最後まで剣を握り、命を賭けて戦ったはずだ。


 だが今の彼らは違う。


 戦いを異人へ押し付け、安全な場所から眺めることに慣れきっていた。


 十年間に及ぶ反乱軍との戦いは、騎士たちの誇りすら鈍らせていたのだ。


 騎士たちの瞳から、完全に戦意が消えていく。


 逃げようとする者すらいない。


 いや、逃げられないのだ。


 本気のイノシシ亜人は時速五十キロ近い速度で走る。


 二十キロ近いフルプレートを着込んだ歩兵騎士では、死に物狂いで走っても時速十キロ程度が限界だった。


 馬もない。


 どう足掻いても、逃げ切れるはずがなかった。


 だが、キシリは諦めることができなかった。


 彼には婚約者がいる。


 長年アプローチを続け、ようやく婚約を認めてもらえた相手だ。

 しかも王家の親族にあたる女性だった。


 この大遠征から帰還すれば結婚する予定になっている。


 幸せな未来が待っている。


 それなのに、こんな場所で死ねるはずがなかった。


 さらに彼女を娶ることは、自身の家の繁栄にも繋がる。


 だからこそ。


 絶対に死ぬわけにはいかなかった。


 キシリは周囲を素早く見回す。


 亜人たちは前線の虐殺に夢中になっている。


 今なら逃げられる。


 彼は馬の手綱を静かに引き、できるだけ目立たぬようその場から離れ始めた。


 ガチャ、と鎧が鳴る。


 その音に反応したのか、近くにいた騎士たちが振り向いた。


 彼らは目を見開き、信じられないものを見る顔をしている。


 指揮官が逃げる。


 その事実に気付いたのだ。


 だが、キシリは気にしなかった。


 彼らは下級騎士だ。

 自分とは価値が違うのだ。


 キシリの脳裏には、その考えしかなかった。


 異人たちと共に時間稼ぎをしてくれればそれでいい。


 自分さえ助かればいいのだ。


 十分に距離が離れたことを確認すると、キシリは震える手で腕時計へ触れた。


 連絡先は中隊長ハインケル。


 レンズが黄色く発光し、通話可能を示す。


「ハインケル中隊長。こちら大盾隊指揮官、小隊長キシリです」


 自分でも驚くほど声が震えていた。


「ただいま亜人により最前列はほぼ壊滅。やつらは今までとは違い――」


 その時だった。


 ガシリ。


 突然、後頭部を巨大な何かが掴んだ。


「っ!?」


 キシリの体が宙へ持ち上がる。


 馬から引き剥がされ、無理やり後ろへ向かされた。


 そこにいたのは、黒い毛に覆われた巨大な亜人だった。


 イノシシでもない。

 バイソンでもない。


 見たことのない種類。


 亜人は口元をニヤリと歪める。


 その笑みを見た瞬間、キシリの背筋が凍った。


 目だけを動かす。

 一緒に逃げていた部下たちは、すでに地面へ転がっていた。


 誰も動かない。


「は……?」


 喉が震える。


「お、おまえは……」


 ぐしゃり。


 それが、キシリが最後に聞いた音だった。

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