第67話 初めての戦い
黙々と歩く異人たちの横を、馬に乗った騎士たちが駆け抜けていく。
「これより戦闘準備に入る。中隊長の指示に従え!」
張り上げられた声が隊列の上を走り、異人たちの間に一気に動揺が広がった。
「ついに戦うのか……」
「やっぱり怖い……」
あちこちから不安げな声が漏れる。
もちろん、76組も例外ではなかった。
司が落ち着かなそうに周囲を見回していると、タカギが肩に腕を回して強引に引き寄せる。
「大丈夫さ。こっちは十万っていう大軍団だ。おまけに俺たちは後列長槍隊だぜ? 敵の顔を拝む前に戦いは終わってるって」
軽い調子で笑いながら言うタカギに、ノームも「その通りだ」と言わんばかりに力強く頷いた。
二人の顔を見ているうちに、司の胸の奥に少しだけ勇気が戻ってくる。
司は小さく頷き返した。
しばらく歩き続けると、不意に行軍停止の命令が全体へ響き渡った。
253番街――看守長キムには一つの水晶玉が渡されていた。
後列長槍隊の小隊長と連絡を取るための道具である。
戦闘時は、この水晶玉を通して指示が下される。
また、戦況に応じてキムから小隊長へ253番街の状況を報告する必要もあった。
もっとも、看守長からの報告とは、ほとんどの場合が壊滅報告を意味する。
やがて水晶玉が黄色く淡く光り、小隊長の声が響いた。
「各看守長へ命じる。部隊を訓練通りに展開せよ。そして次の指示があるまで、その場で待機せよ」
キムが返事をする前に、水晶玉の光はすっと消えた。
「総員、戦闘準備! 指定された場所へ移動しろ!」
キムの怒鳴り声が平原に大きく木霊する。
司、ノーム、タカギが予定された位置へ到着するころには、支援部隊が長槍を運び込んできていた。
三人は決められた担当位置につき、その場にしゃがみ込む。
いつでも戦えるようにするためだ。
一番身長の高いノームが槍先側。
タカギが中央付近。
そして司が後方を担当する。
すでに敵は目の前まで来ているのか。
それすら司にはわからなかった。
周囲は異人たちで埋め尽くされ、前方の様子などまるで見えない。
十万の大部隊。
末端の司に戦場全体の情報など伝わってこない。
わかるのは、ここまで歩いてきた広い平原にいるということだけだった。
緊張。
恐怖。
不安。
いくつもの感情が胸の中をぐるぐると回る。
周囲を見れば、自分と同じように青い顔をしてしゃがみ込んでいる異人たちがいた。
その時だった。
ふっと、司の不安が少しだけ薄れた気がした。
気づけば周囲の異人たちからも怯えた表情が消え、皆が真剣な顔へ変わっている。
理由はわからない。
だが司も自然と前を向き、目の前にいるタカギの背中へ視線を固定していた。
どれくらい時間が経ったのだろう。
数時間にも感じた。
だが、もしかすると一分も経っていないのかもしれない。
体内時計がおかしくなるような感覚のまま、司たちはただ黙ってしゃがみ込み、次の命令を待ち続けていた。
すると、先頭の方角から大勢の咆哮のような声と、何かが激しくぶつかり合う音が聞こえてきた。
空気が震える。
司は思わず肩を揺らした。
どうやら戦いが始まったらしい。
だが、司の位置からではまだ敵の姿は見えない。
頭上を無数の矢が唸りを上げながら飛んでいく。
ヒュンヒュンという音が絶え間なく続き、そのたびに司は首をすくめた。
先ほどまでとは空気が違う。
熱気を帯び始めた空気はむっとしていて、喉の奥が焼けるような錯覚を覚える。
腰には小さな水筒がぶら下がっていたが、とても飲む気にはなれなかった。
咆哮と激突音は止まらない。
金属音。
何かが潰れるような音。
そして、その中に混じる断末魔の叫び。
司はぎゅっと目を閉じる。
聞こえないふりをするように、ただ耐えていた。
激しい戦闘音が響く中、司たち後列長槍隊の最前列が一斉に立ち上がった。
長槍が前へ突き出され、槍衾が形成されていく。
それはつまり、最前列にいた前列大盾隊と前列長槍隊を突破した敵がいるということだった。
司は身をもって知っている。
あの大盾隊の壁と長槍隊の突きを突破することなど不可能だと。
先日の模擬戦で、文字通り痛いほど理解させられていた。
そんな鉄壁を敵は抜けてきたのだ。
一人か。
十人か。
百人か。
千人か。
それとも――万か。
考えた瞬間、司の呼吸は一気に浅くなる。
全身から汗が噴き出し、服が肌に張りついて気持ち悪い。
続いて二列目の長槍隊が立ち上がった。
こちらへ近づいてくる咆哮が聞こえる。
間違いなく敵だ。
しかも一人ではない。
最低でも数十人はいる。
三列目、四列目が次々と立ち上がる。
咆哮の聞こえる方角から、大勢の足音が迫ってきた。
ドドドドドド――。
地面そのものが揺れているような重い足音だった。
五列目、六列目、七列目が立ち上がる。
司は自分の全身が震えていることに気づく。
だが、その震えを止めることはできなかった。
「帰りたい……」
思わず漏れた小さな声は、敵の咆哮と地鳴りのような足音に飲み込まれて消える。
八列目、九列目。
立ち上がっていく気配がすぐ近くまで迫ってきていた。
「253番街! 総員立ち上がり敵を迎え撃て!」
キムの怒号が響く。
周囲の異人たちが一斉に立ち上がった。
司も遅れまいと長槍を掴んだ。
震える手で後方のスパイクを地面へ突き刺し、必死に態勢を固定した。
槍衾は、ただ待つだけの防衛陣形ではない。
敵の接近に合わせ、自ら長槍を突き刺して迎え撃つ迎撃型戦術である。
最前列が敵を突く。
引いた瞬間、後列が前へ突き出す。
そして後列が引けば、再び前列が突き出す。
その動きが絶え間なく繰り返される。
この陣形は長槍のみで構成されているにもかかわらず、重装歩兵であっても突破は困難とされていた。
異人街総出の異人が、三人一組で横並びとなって並ぶ。
それが十列。
総数、およそ一万人。
長槍隊は三列ごとに一つのグループとして編成されていた。
一、二、三列目が第一グループ。
四、五、六列目が第二グループ。
七、八、九列目が第三グループ。
三つのグループが交互に槍を突き出し続けることで、敵に近づく隙を与えない。
そして十列目――司たち253番街の役目は、最後尾で槍を固定し、陣形を維持することだった。
もちろん、万が一の際には前列の補充要員でもある。
だが253番街は、訓練中の件もあり、半ばお荷物扱いされていた。
そのため、基本は待機命令が出されている。
それでも敵側から見れば、この十列の長槍陣は突破不可能な要塞のように見えるだろう。
「1、2! 1、2!」
後列長槍隊全体から声が響く。
規則正しい声が、まるで波のように平原へ広がっていった。
最後方の司たちも負けじと声を張る。
実際に戦ってはいない。
だが、ベンチ入りの補欠でも応援だけは全力でやるような感覚だった。
「1、2! 1、2!」
何度も声を出しているうちに、司の中で何かが変わり始めていた。
最初は恐怖しかなかった。
だが次第に、以前の訓練で感じた感覚が広がっていく。
全員の動きと声が一つに揃っていくような、不思議な高揚感。
心地よかった。
恐怖が少しずつ薄れていく。
代わりに、自分という感覚が周囲へ溶けていくような気配が広がっていた。
それなのに、不快ではない。
むしろ司は、その統一感へもっと深く沈み込みたいとすら思っていた。
司の位置からでは、タカギの背中しか見えない。
敵の姿も見えない。
本来なら、その見えない恐怖に怯えていたはずだった。
だが今は、そんなことすらどうでもよくなっている。
「1、2! 1、2!」
無心で声を出す。
意識が溶けていくような感覚に、ただ身を任せていた。
そして次第に、体がふわりと浮き上がるような感覚を覚え始めた、その時だった。
「手を放せ司!!」
ノームの怒鳴り声が耳元で響く。
気がつけば、司はノームの太い腕に抱き寄せられていた。
手から長槍は消えている。
そして前列は、すでに崩壊していた。
横を見る。
隣の組が、一心不乱に長槍を構えたまま叫び続けていた。
だが、その顔には生気がない。
目は虚ろで、まるで人形のようだった。
次の瞬間、敵と思われる太い腕が長槍を掴む。
隣の組は槍を放さない。
そのまま前方へ引きずり込まれていった。
直後――。
三人分の悲鳴が重なり、肉体が潰れるような音が響く。
司は震えながら周囲を見回した。
すでに戦線は崩れ始めている。
あちこちで血煙が舞い上がっていた。
濃い血の臭いが辺りに充満している。
まるで地獄のような光景だった。
近くではタカギも立っていた。
額から血が流れている。
ノームは司を庇うように強く抱き寄せていた。
その肩越しに、司はついに敵の姿を見る。
それは、二メートルを超える化け物だった。




