第62話 巨大湖への行軍
行軍 一日目
十万の軍勢は巨大湖バルトへ向かう。
目的は、敵の山城の眼前に野営基地を造り上げることだ。
十万もの大軍を収容できる野営地は、広大な平野でなければ成立しない。
しかし、バルトラインから巨大湖にかけては、見渡す限り平野が続いている。
そのため、場所に困ることはなかった。
さらに、この平野は視界が広い。
敵が地中からでも現れない限り、どこから来てもすぐ発見できる。
大軍の陣形は以下のとおりである。
先頭を進むのは、大隊長ロビン率いる騎馬隊七千。
そのうち何割かは斥候としてさらに前方へ出ている。
全員が馬にまたがり、全身をフルプレートで固めて進軍する姿は、まさに威風堂々だった。
鎧が擦れ合う重い音が、平野に絶えず響いている。
騎馬隊の後方には、中隊長ハインケルが率いる赤軍が続く。
赤軍の周囲には騎士たちが展開し、異人たちを監視するように囲みながら行進していた。
さらにその後方では、中隊長マイティ率いる青軍が進軍している。
こちらも赤軍同様、騎士に囲まれながら歩かされていた。
その後ろには支援部隊九千人。
いくつもの集団に分かれ、食料や物資、武器などを馬車や人力車で運搬している。
最後尾には騎士二千人が配置され、支援部隊を守る形で追随していた。
司たち七十六組も、赤軍として歩き続ける。
長槍は支援部隊の馬車に積まれている。
だが、完全に手ぶらというわけではない。
ひとりずつ革製の背負いかばんを渡され、それを背負っていた。
中には水入りの竹筒が二本。昼食と夕飯。そして寝るための簡易的な布が二枚入っている。
総重量は五キロほど。
肩には常にずっしりとした重みがかかっていた。
しかも、ゆっくり歩き続ける行軍は想像以上に疲れる。
足よりも先に、じわじわと腰と肩に疲労が溜まっていく。
さらに、普段の異人街での移動とは違い、私語は徹底的に禁止されていた。
少しでも声を出した者がいれば、騎士にどこかへ連れて行かれる。
司は実際にその場面を見ていた。
そのため、怖くて一言も話せないまま歩き続けていた。
平野であるにもかかわらず、十万もの軍勢がほとんど警戒もせず進軍している。
その光景は、異様としか言いようがなかった。
だが、それも無理はない。
彼らには――奇襲という概念そのものが存在しなかったのだ。
これまで経験してきた戦は、すべて敵との正面衝突のみ。
側面を突き、背後から襲いかかる戦法は、騎士の誇りを汚す卑劣な行為として、最初から選択肢にすら入っていない。
騎士である彼らは、正々堂々と剣を交える戦い方しか知らなかった。
そして――それこそが、反乱軍の狙いだった。
反乱軍はこれまで、あえて真正面からの戦いしかしてこなかった。
王国に『戦争とはこういうものだ』と思い込ませるために。
王国には、まともな戦争経験がない。
戦を知らぬ無垢な王国に合わせ続けた結果、王国軍はいつしか、自分たちこそ絶対の強者であると錯覚していた。
機は熟した。
王国軍は、自ら罠へ向かっていることに気づいていない。
いや、自分たちがすでに敵の掌の上で踊らされていることすら、想像していなかった。
昼食はかばんに入っているコッペパンを歩きながら食べることになっている。
一度動き出した十万もの大軍の足を止めるのは容易ではない。
目的地までは、まだ何日もかかる。
休んでいる暇などないのだ。
食べ歩きに慣れていない司は、それだけでも一苦労だった。
パンを落とさないように気をつけるので精一杯である。
その隣では、タカギが慣れた手つきでコッペパンを頬張っていた。
「うめぇな」
わざとらしく小声で言いながら食べる姿が妙に腹立たしい。
司は恨めしそうにタカギを見ながら歩いていたが、不意に石へ躓いた。
「うわっ!?」
前のめりに転び、手に持っていたコッペパンが地面へ落ちる。
すぐにノームが司の腕を掴み、引き起こしてくれた。
「大丈夫か、司」
「う、うん……」
だが、落ちたコッペパンは次々と異人たちの足に踏まれ、後方へ流れていってしまう。
司はその様子を見送りながら、がっくりとうなだれた。
「僕のパン……」
タカギは吹き出しそうになるのを堪えているようだった。
太陽が沈み始めたころ、この場所で野営を行うことが伝令の騎士によって知らされた。
騎士は馬に乗ったまま隊列の横を駆け抜け、大声で指示を飛ばしていく。
司は重たい足を止め、歩いてきた方向を振り返った。
遥か後方には、針先ほどに小さくなったバルトラインの司令塔らしきものがまだ見えている。
「あんなに歩いたのに、まだ見えるんだ……」
司は疲れ切った声で呟いた。
「ああ。本当に馬鹿みたいにでかい塔だな」
タカギが乾いた声で笑う。
そして次の瞬間、二人は同時に表情を凍り付かせた。
――私語厳禁。
そのルールを、つい忘れていたのだ。
二人は恐る恐る周囲を見渡した。
だが、周囲の異人たちは気にする様子もなく、野営の準備を始めている。
まるで、「何も聞こえていませんよ」と言わんばかりだった。
ただ一人、ノームだけは疲れ切った顔で二人を見つめ、ゆっくりと首を横に振る。
司とタカギは、気まずそうに肩をすくめた。
背負いかばんの中には、まだ水の入った竹筒が一本と、空になった竹筒が一本。
それに夕飯と、寝るための布が二枚入っている。
夕飯も昼と同じコッペパンだった。
司は固いパンをかじりながら、異人街で食べていた食事を思い出す。
温かいスープ。
焼き過ぎの肉。
香ばしい匂い。
思い出せば思い出すほど空しくなるだけだった。
司は諦めて、昼に食べ損ねた分の空腹を埋めるようにパンを口へ押し込む。
(だれか、おいしい料理作ってくれないかな……)
だが、その願いが叶うことはなかった。
これはあくまで簡易的な野宿である。
隊列を崩さず休憩しているため、支援部隊が調理をすることはない。
ノームから「水は明日まで支給されない。残しておけよ」と事前に忠告されたため、司は喉の渇きを我慢して半分だけ残した。
行軍の疲れは想像以上だったのだろう。
横になると、ほとんどの者が瞬く間に眠りへ落ちていった。




