第59話 ノームとキム
夢と現実の狭間で、司の意識はゆらゆらとしていた。
目の前には、人間とも動物ともつかない化け物が立っている。
黒く鋭い目をこちらへ向けながら、低くうなるその姿に、司は剣を握りしめた。
じりじりと床を踏みしめながら、ゆっくり近づいていく。
そのとき――。
コンコン、と部屋の扉が数度ノックされ、ゆっくりと扉が開いた。
だが、まだ夢の中で化け物と対峙していた司は、部屋に入ってきた人物を気にすることなく眠り続けていた。
「貴様ら! まだ寝ているのか!! 起きないか」
腹の底から響くような怒鳴り声が部屋に響いた。
司はびくりと肩を震わせ、現実へと引き戻される。
「いっっでぇ!?」
飛び起きたタカギは、すぐに全身の痛みを思い出したらしく、顔をしかめながら体中を押さえた。
「……ぐ、腰が……」
ノームは布団の上で顔をしかめたまま、すぐには起き上がれない。
そんな三人を見下ろしていたのは、台車に三人分の食事を乗せた看守長のキムだった。
「なぜおまえが?」
ノームが今日一番と言っていいほど驚いた顔で聞く。
「一度、お前たちとゆっくり話がしたくてな」
キムは、にやりと笑いながら、ちゃぶ台へ食事を並べていく。
「お前ひとりか? 三人行動は?」
「忘れたのか? 俺は看守長だ。看守長は特別に一人行動が許されている」
キムが鼻で笑いながら答えた。
「そもそも看守長になれる人間が少ないのだ。三人組にしていたら人数が足りん」
「そうだったな……」
司の肩を借りながら、ノームがゆっくりと布団から体を起こす。
その姿を見たキムは、わざとらしく口元をゆがめた。
「老いたな、ノーム。若い頃は俺より力も体力もあると散々自慢していたくせに、今じゃただのじじいだ」
「ぬかせ。看守長のお前は、ろくに体を使わんだろう。酷使することもない」
ノームは腰を押さえながら、ゆっくりちゃぶ台の前へ座った。
「馬鹿たれ。俺だって異人だ。普通に働いたりもするぞ」
キムも向かい側へどっかり座る。
「だが、末端の俺たちよりはマシだろう」
ノームが少し前のめりになる。
「いいや。看守の大変さをお前は理解していない」
キムも負けじと身を乗り出した。
「何が看守の大変さだ。それを言ったら組長だって――」
その一言で、二人の顔がぐっと近づく。
額には青筋。
互いの鼻先がぶつかりそうな距離で、にらみ合っていた。
今にも掴みかかりそうな空気だ。
「ストップ、ストップ、ストップ! あんたら何やってんだよ。喧嘩するなら外でやってくれ」
二人の会話が完全にヒートアップする前に、タカギが慌てて割って入った。
ノームとキムは同時に動きを止める。
そして、気まずそうに顔を見合わせたあと、ほとんど同じタイミングでタカギへ頭を下げた。
「……すまん」
「悪かった」
その妙に息の合った様子に、司は思わず吹き出しそうになる。
この二人、本当はかなり仲がいいんじゃないか――。
そんなことを思うと、自然と笑みがこぼれていた。
「看守長さんよ。あんた俺らと話がしたいって言ってたけど、ノームと口喧嘩したいだけだったら悪いけど帰ってくれない?」
タカギはじろりとキムを睨みながら、少し身を乗り出した。
先日のことは忘れていない――そんな空気が態度ににじんでいる。
キムは何も言わず、大きな竹筒から水をコップへ注いだ。
そして、それを一息に飲み干す。
ごくり、と喉を鳴らしたあと、キムは三人の顔を順番に見回した。
次の瞬間、深々と頭を下げる。
「先日の一件、申し訳なかった」
一気に部屋が静かになった。
タカギは目を丸くし、ノームは口をぱくぱくさせている。
司だけは事情がわからず、きょとんとしていた。
あまりの反応に、キムが顔を上げながら眉をひそめる。
「……なんだその顔は」
すると、ノームが信じられないものを見るような顔で口を開いた。
「お前が格下の相手に頭を下げるだと? しかも先日の一件? 意味がわかっているのか?」
隣でタカギも、うんうんと何度も首を縦に振る。
キムはそんな二人を見て、困ったように苦笑した。
「どうせお前は、俺のことを人の気持ちが理解できない唐変木だとか思っていたのだろうな」
「まあ、それは否定しづらいな」
ノームが即答する。
タカギまで「それはそう」と小さくつぶやいていた。
キムの眉がぴくりと動いた。
「……確かに、俺は他人の気持ちを汲み取ることは苦手だ」
そう言いながら、もう一度竹筒から水を注ぐ。
「だが、この世界で長年組長や看守をしてきたのだぞ。多少は人付き合いも覚える」
キムはコップを指先で回しながら、ノームへ視線を向けた。
「ノーム。お前がその少年をかばったことくらいは、最初からわかっていた」
司は思わずノームを見る。
ノームは少しだけ視線を逸らした。
「優しいお前のことだ。その子を守ったのだろう?」
キムは小さく鼻を鳴らす。
「だがおかげで、俺はお前のしりぬぐいをする羽目になったがな。文字通りにな」
言い終わると同時に、キムはコップの水をまた一気に飲み干した。
「驚いた。キム、お前が気づいていたとはな」
ノームが感心したように目を細める。
「どうやら私は、お前のことを相当見くびっていたようだ」
「お互い年を取ったということだ」
キムは小さく肩をすくめた。
「長い異人生活も、少しくらいはいいことがあるらしい」
その言葉に、ノームもふっと口元をゆるめる。
二人はしばらく黙ったまま、昔を思い出すように目を閉じていた。
「ノーム、俺はお前のことを高く評価したぞ」
「なんのことだ?」
ノームが聞き返す。
キムは少し真面目な顔になった。
「ミスをした新人をかばって、全部自分の責任にしたことだ」
「だが、中隊長には全部お見通しだったろうな。ケツバットで済んでよかったな」
「ああ……」
キムが遠い目をする。
「だが、あれは二度とやりたくない。未だに尻が痛い気がする」
そう言って苦笑した。
「話の腰を折るようで悪いが、看守長さんよ。あんた、そのことが言いたくてここに来たのか?」
タカギが腕を組みながら話に割って入った。
「ノームのことばかり言ってるけどよ、あんただって訓練中の態度、正直褒められたもんじゃなかったぜ」
その言葉に、ノームが「余計なことを言うな」と言いたげにタカギをにらみつける。
だが、キムは怒る様子もなく、小さく息を吐いた。
「たしかに、君の言う通りだ。私の態度は高圧的だっただろうな」
キムはまっすぐタカギの目を見ながら答えた。
「ただ、与えられた職務を全うしてここまで来た。異例の看守長など、よく思わない者がいて当然だ」
そう言って、キムはコップを指先で軽く回す。
「知っているか? 私を看守長に強く推したのは、リュウさんだ」
タカギと司は顔を見合わせる。
だれだっけ――と考えていると、ノームがゆっくり口を開いた。
「あのリュウさんがお前を推した? どうしてだ?」
「簡単さ。今回の徴兵の指揮を私に押し付けるためだ。自分は異人街に残るためにな」
キムが鼻で笑う。
その笑い方には、あきらめのようなものが混じっていた。
「ノーム、あの人はお前が考えているほど善人じゃない」
キムは少し声を低くした。
「自分さえよければいい。そういう考えの恐ろしい人だ」
部屋の空気が少しだけ静かになる。
「あの人が、今の地位に就くまでにどれだけのライバルや敵を蹴落としてきたか……知っているか?」
ノームはゆっくり首を横に振った。
「だろうな。お前は組を移動してから、あの人と関わる機会がほとんどなかったからな」
キムは数度首を振りながら続ける。
「俺はそのあとも、あの人の組員として動いていた。だからよくわかる」
キムの視線が少し下がった。
「あの人は他人を道具として使うことに長けている。そして、使い捨てることにも何も感じていない」
司は思わず黙り込む。
キムがここまで誰かを悪く言うのは、少し意外だった。
「一時は俺も、あの人に憧れて真似していた」
キムが苦笑する。
「だが、凡人に真似できるものじゃないとすぐ理解したよ」
そう言って、窓の外へ視線を向けた。
遠い昔を思い出しているような目だった。
「じゃあ、リュウさんは自分が徴兵を嫌だったから、お前を看守長にして役目を押し付けたのか?」
ノームが顎髭をさすりながら尋ねる。
「看守長だとしても、そこまで好き勝手できるものなのか?」
その質問に、キムはあきれたように肩をすくめた。
「あの人は監督官とずぶずぶさ。だから逆らえる者なんて誰もいない」
「ずぶずぶって?」
司が思わず口を挟んだ。
難しい言葉だった。
突然会話に入ってきた司を見て、キムは少しだけ目を丸くする。
だがすぐに、どこか微笑ましそうな顔になった。
「素直ないい子だ」
キムは小さく笑う。
「お前が必死に守ろうとする理由が、よくわかるよ」
ノームは何も答えなかったが、少しだけ気まずそうに鼻を鳴らした。
「だがな」
キムがゆっくり立ち上がる。
「他人のために自分を犠牲にするのは、あまり感心しない。どうせ俺たちは使い捨てなんだ」
そう言って、ノームのほうを見る。
「自分をもっと大事にしろよ」
「だったら、俺たちは明日からどうなるのか教えてもらえないか?」
ノームが低い声で聞く。
キムは鼻で笑った。
「知るわけないだろう。俺だって、ただの異人なんだぞ」
その言葉を残し、キムは部屋を出て行った。
扉が閉まり、部屋に静けさが戻る。
しばらくしてから、タカギがノームの顔を見た。
「結局、何が言いたかったんだ? あいつ」
タカギは閉まった扉を眺めたまま、小さく息を吐いた。
「あいつは昔から、話の要点をまとめるのも下手だし、何が言いたいのかもわからん男なんだ」
そう言いながらも、その声はどこか柔らかかった。
「ただ……」
ノームは小さくつぶやく。
「普通の人間として、意味のない雑談がしたかっただけなのかもな……」




