第54話 怒りの拳
いったい何度叩いたことだろうか。
キムの手はじんじんと痺れ、感覚が鈍くなっていた。
こん棒を振り下ろすたびに、鈍い音が地面に響く。
腕が重い、息も荒い。
やがて、振り下ろす力が目に見えて弱くなった頃、ハインケルが片手を上げて止めに入った。
「そろそろいいだろう。訓練の時間が短くなってしまった。その異人と組の者は今日は使えまい。休ませてやれ」
低く冷たい声だった。
ハインケルはそれだけ言うと、振り返りもせずその場を後にした。
次の瞬間。
尻を突き出したままだったノームの体が、力を失ったように崩れ落ちた。
どさり、と重い音がする。
ノームのそばに、少年とボサボサ頭の男が慌てて駆け寄った。
「よし、お前らはそいつを連れて部屋に帰れ! あと晩飯は抜きだ!」
ロイスの怒鳴り声が響く。
それだけ言い捨てると、ロイスもまたハインケルの後を追うように去っていった。
残された静けさの中で、少年と男はノームの体を必死に持ち上げる。
ぐったりと力の抜けた体は重く、うまく担げない。
それでも二人は歯を食いしばり、なんとか支えながら歩き出した。
キムはその様子を、ただ見ていることしかできなかった。
震えている自分の両手を見下ろす。
指先がうまく動かない。
そして、三人が遠ざかっていく後ろ姿を、ぼんやりと目で追うだけだった。
周りの異人たちも同じだった。
誰も動けない。
視線だけが宙をさまよっている。
やがて。
全体に響くように、訓練再開の合図が鳴り響いた。
現実に引き戻されるような音だった。
司とタカギは、ノームの体を左右から支えながら部屋へ戻ってきた。
廊下はひんやりとしていて、足音だけがやけに大きく響く。
司は急いで布団を敷いた。
手が震えて、うまく広がらない。
タカギがノームを抱えたまま近づき、ゆっくりと布団の上に寝かせた。
ノームは仰向けになり、小さく呻いた。
呼吸が浅い。
「ノーム、ごめんなさい! 全部ぼくのせいだ!!」
司はその場に崩れるように座り込み、枕元で頭を下げた。
声が震えていた。
「ははっ、気にするな。組員を守るのが組長の仕事だ」
ノームは顔をしかめながらも、無理に笑った。
声は明るいが、息が混じっている。
「司、こっち見ろ!!」
怒鳴り声だった。
司が反射的に振り向いた瞬間。
タカギの拳が、左頬に叩き込まれた。
鈍い衝撃。
視界が揺れる。
何が起きたのか理解できないまま、体が横に吹き飛び、床に倒れた。
遅れて、じん、と痛みが広がる。
「よせ、タカギ……」
ノームが苦しそうに声を絞り出す。
だがタカギは聞いていなかった。
両手を強く握りしめ、鬼のような形相で司を睨みつけている。
肩が上下し、息が荒い。
拳が小さく震えていた。
「ここはいつもの異人街とは違うんだ! 看守や異人兵は仲間意識があり、穏便に済ませてくれる」
タカギが怒鳴る。
声が壁に反響する。
「だが、騎士たちは問答無用で使えないと判断したら命を奪う。簡単に異人を殺すんだ」
一歩、司に近づく。
「俺は何度か教えたよな。まじめにやれ。少しでも変な行動をするなって」
声が少し掠れる。
「いつ、騎士が見ているか。何が原因になるかわからないんだぞ」
その目には涙が浮かんでいた。
怒りと、恐怖と、どうしようもない焦りが混ざっている。
司は何も言えなかった。
ただ思い返していた。
ここバルトラインに来てから。
タカギが何度も、自分の行動を止めていたことを。
異人兵の声がうるさくて耳をふさいだこと。
並んでいるとき、周りをきょろきょろ見てしまったこと。
そのたびに、タカギが制止していたこと。
――全部、思い当たる。
「ごめん……ごめん……」
それしか言えなかった。
声がかすれる。
「二人とももうやめるんだ。終わったことだ」
ノームが小さな声で言った。
痛みをこらえているのがわかる声だった。
「だけどよ。ノーム。下手すりゃ殺されてたんだぞ」
タカギの声が震える。
怒りではなく、怖さの震えだった。
「もういいんだ。それに静かにしてくれ。声が響いてケツが痛いんだ」
ノームがぼそりと言った。
一瞬の沈黙。
そしてタカギが吹き出した。
「なんだよそれ……わかったよ。もういい、俺は寝るぞ」
声が少しだけ軽くなる。
タカギはそのまま背を向け、乱暴に布団に潜り込んだ。
ノームも小さく笑った。
だが、その笑い声にはまだ痛みが混じっていた。
やがて、二人の寝息が聞こえ始める。
部屋に静けさが戻る。
だが司だけは眠れなかった。
頬の痛みよりも、胸の奥の重さの方が強かった。
深く反省しながら、同時に心の奥で思ってしまう。
(どうしても、あの少年の頑張りから目を離せなかったんだ)
――もちろん、そんなことは誰にも言えないが。




