第52話 訓練四日目 午後
午後からは、より本格的な訓練に入る。
騎士たちは昨日とは違い、顔つきが明らかに引き締まっていた。
空気がぴりついている。
そして、異人への態度もさらに厳しくなっていた。
「いいか、今までの訓練の成果を、ハインケル中隊長が査閲される。一切の失態は許されん」
騎士の一人が厳しい口調で言った。
声は相変わらず、どこからともなく響いてくる。
まるで拡声器のように広がる。
(なんでマイクも持ってないのに、こんなに遠くまで聞こえるんだろ……)
司は不思議に思う。
だが、考えても答えは出ない。
(あとでノームに聞けばいいか……まあ、忘れる気もするけど)
そう思って、考えるのをやめた。
大盾隊の前方には、三人一組で『破城槌』を持った異人たちが整列している。
丸みを帯びた先端が、鈍く光っていた。
「――突撃!」
号令と同時に、彼らが一斉に走り出す。
重い足音が地面を打ち、距離が一気に詰まる。
ドンッ、と鈍い衝撃音が響いた。
大盾がぶつかり、わずかに押し込まれる。
その衝撃で、司の前にいた大盾隊の一人が尻餅をついた。
小さな体だった。
司よりも年下、小学生くらいに見える。
だが、周りの組員は手を貸さない。
視線すら向けず、ただ盾を支え続けている。
これは実戦を想定した訓練だ。
手を差し伸べた一瞬の隙が、命取りになる。
少年もそれを分かっているのか、歯を食いしばり、すぐに立ち上がった。
そして再び、大盾に体を押し付ける。
後方では、前列長槍隊がしゃがんで待機していた。
司たちも槍を軽く握り、合図を待つ。
空気が張り詰める。
いつ動いてもおかしくない。
だが――
司は、ぼんやりと少年の背中を見ていた。
小さな背中が、必死に盾を支えている。
(すごいな……)
その瞬間――
「――突撃!」
小隊長の号令が飛ぶ。
だが、司の耳には届かなかった。
ノームとタカギが一気に立ち上がり、長槍を構えて前へ出る。
周囲も一斉に動き出す。
しかし司だけが、わずかに遅れた。
「あっ――」
慌てて長槍を掴もうとする。
だが、間に合わなかった。
長槍の後端が地面に落ち、ズルズルと音を立てて引きずられた。
バランスを崩したことで、ノームとタカギも思わず長槍を離してしまう。
その瞬間、隊列に小さな乱れが生まれた。
後方の別の組がそれに気づき、慌てて止まろうとする。
だが、勢いは止まらない。
人と人がぶつかる鈍い衝突音が連続した。
体が揺れ、足元が乱れる。
かろうじてドミノ倒しにはならなかった。
隊列は完全に止まった。
253番街の長槍隊の動きが、ぴたりと途切れる。
さっきまでの流れが、嘘のように。
静まり返った。
全体の動きを高台から見ていた中隊長ハインケルは、わずかに眉をひそめた。
ほんの一瞬の変化だったが、それだけで場の空気が冷えた気がした。
すぐにハインケルは、左腕に装着している腕時計に似た装置へ口を寄せる。
「全軍に告げる。行動を止めよ」
低く、よく通る声だった。
その声はまるでスピーカーのように、訓練場の隅々まで一斉に響き渡る。
ざわついていた空気が、一瞬で凍りついた。
全軍がぴたりと動きを止める。
それを確認すると、ハインケルはもう一度、装置へと話しかけた。
「ハインケルだ。ロイス小隊長、なにが起きた? すぐに原因を突き止めよ」
腕時計のレンズ部分が、淡い黄色に光り出す。
わずかな間を置いて、声が返ってきた。
「こちら前列長槍隊、小隊長ロイスです。ただちに調べます」
ロイスの声は、わずかに震えていた。
通信が切れると、光はすっと消え、レンズは元の透明に戻る。
ハインケルは無言で眼下を見下ろす。
乱れた隊列。止まった動き。
すべてを一瞥するだけで状況を把握していた。
「……ついてこい」
短く告げると、護衛の騎士に合図を送り、そのまま高台を降り始めた。
前列長槍隊、小隊長ロイスの顔色は真っ青だった。
額からは冷や汗が流れ、首筋を伝っていく。
(まずい……まずい……)
先ほどのハインケルの声。
穏やかだった。
だが、その奥にある冷たさを、ロイスはよく知っている。
ハインケルという男は、失敗を許さない。
どんなに小さなミスでも、見逃さない。
小さなミスで辺境の砦へ飛ばされた騎士の噂は耳に新しい。
この件で自身にも、なんらかの罰が与えられるのではないかと身震いする。
(俺も……ああなるのか……?)
背筋が震える。
だが、その恐怖はやがて形を変えた。
瞳の奥に、じわりと憎悪が灯る。
(誰だ……こんなことをやったのは……)
自分の顔に泥を塗った存在。
その責任を、どう取らせるか。
ロイスは歯を食いしばり、部下に命じた。
「行くぞ!」
馬を蹴り、現場へと急ぐ。
目的地は253番街。
現場にはすでに数名の看守が待機していた。
ロイスたちが近づくと、看守たちは慌ててその場に膝をつき、服従の礼を取る。
だが、ロイスの苛立ちは抑えきれなかった。
「看守長は誰だ? 顔を上げよ。此度の原因はなんであるか?」
怒声が飛ぶ。
一人の男が、おそるおそる顔を上げた。
後頭部まで禿げ上がり、顔には青あざが広がっていた。
腫れた頬。
滝のような汗。
体は小刻みに震えていた。
「も、申し訳ありません……これから調査に向かおうとしていたところで……」
声はかすれ、最後まで言い切れない。
男はそのまま地面に額を擦りつけた。
「また、貴様か!」
ロイスの怒声が叩きつけられる。
「馬鹿者が! なにをやっていた! すぐに調べないか!」
「は、はいっ!」
看守長は飛び上がるように立ち上がり、転びそうになりながら走り出した。
その背中を、ロイスは無言で見送る。
そして――わざとらしく舌打ちをした。
チッ、と乾いた音が響く。
周囲の異人たちが、びくりと肩を震わせる。
その様子を見て、ロイスはわずかに溜飲を下げた。
キムの心中は、穏やかではなかった。
三人の異人兵を引き連れ、人ごみを押し分けるように進む。
(なぜ、こんなことになった……)
(どう処理すればいい……)
思考がまとまらないまま歩を進める。
やがて、見覚えのある顔が目に入った。
ノームだ。
キムは一度息を整える。
できるだけ冷静に。できるだけ穏やかに。
そう意識して口を開いた。
「なにがあった?」
だが、声にはわずかに力がこもっていた。
「申し訳ありません。私が気を抜いて小隊長の号令を聞き逃してしまい、このような事態を招きました」
ノームは腰を曲げ、静かに答える。
「みなさまには誠にご迷惑をおかけして申し訳ありません」
さらに深く頭を下げた。
キムはその様子を見つめたまま、周囲に視線を向ける。
誰も何も言わない。
異人たちはただ黙り込み、目を逸らしていた。
その中で――
一人の少年が目に入る。
全身を震わせ、なにかを言おうとしている。
口をパクパクと動かす。
しかし、隣にいたボサボサ頭の男が、すぐにその口を塞いだ。
キムは目を細め、ゆっくりと目を閉じた。
そして、ノームを睨みつけた。
「貴様、組長でありながらなぜ気を抜いていた! 厳罰だ!!」
キムの言葉に、異人兵たちがノームへと近づいた。
だがノームは手を軽く上げ、それを制する。
「……自分で歩いて行ける」
静かな声だった。
異人兵たちは一瞬迷い、キムへと視線を送る。
キムは黙って頷いた。
それで十分だった。
キムが歩き出すと、ノームもその後に続いて歩き出した。
異人兵三人が、少し遅れて後ろについた。
そのとき――
「待って! ノーム!」
背後から、か細い少年の声が聞こえた。
キムは足を止め、振り返る。
そして、ノームの顔を見る。
その目は、澄んでいた。
迷いはない。
すべてを受け入れた者の目だった。
覚悟を決めた男の顔をしていた。




