第45話 訓練一日目 午後
夕陽が赤く地平線を染める頃、ようやく一日目の訓練が終わった。
熱を帯びた空気が、まだ肌にまとわりついている。
号令がかかると同時に、周囲から安堵の息が一斉に漏れる。
その声は、まるで張りつめていた糸が一気に切れたみたいだった。
司、ノーム、タカギの三人は互いに顔を見た。
誰もが同じように、ぐったりとした顔をしている。
肩を落とし、そのまま重い足取りで洗濯場へと向かっていった。
一歩踏み出すたびに、足がじん、と鈍く痛む。
司は脱衣場で服を脱ごうとしたが、汗で肌に張り付いていて、なかなか思うように脱げなかった。
布がべたりと肌に貼りつき、引きはがすたびに不快な感触が残る。
「うわ……脱げない……」
小さくぼやきながら、無理やり引っ張る。
さすがに一か月も人前で着替えていれば慣れたものだ。
最初の頃にあった妙な気恥ずかしさは、いつの間にか薄れていた。
ようやく脱ぎ終えた服を両手で掴み、ぎゅっと絞る。
すると、ぽたぽたと水分が床に落ちた。
「うわ……汗すごい……」
自分でも引くほどだった。
腕で額を拭うと、ぬるい汗がべたつく。
体中が、じんわりと熱を持っている。
「お、どうした? そのアザは」
タカギの声に顔を上げると、彼は不思議そうな顔で司の脇腹を指差していた。
「え?」
司も視線を落とす。
確かに、脇腹のあたりにくっきりと青黒い痕が浮かんでいる。
汗で濡れた肌の上で、その色はやけに目立っていた。
「本当だ……いつの間にできたんだろ」
そう言いながら、指でそっと触れてみる。
次の瞬間――
ずきん、と鋭い痛みが走った。
「いたっ……!」
思わず小さく声が漏れる。
触れた一点から、痛みが一気に広がる。
脇腹から走ったそれは、一瞬で体全体を駆け抜けていった。
息が詰まり、思わず体を引く。
よく見れば、その青あざは一つだけじゃなかった。
腕にも、太ももにも、背中にも、点々と同じような痕がある。
まるで、体中に小さな刻印をつけられたみたいだった。
それは司だけではない。
ノームもタカギも、そして周囲の異人たちも、誰もが似たような青あざを体中に作っていた。
「慣れない長槍の訓練で、知らないうちに打っていたのだろうな」
ノームはそう言って、司を安心させるように穏やかに微笑む。
その声は、どこか低くて、落ち着いていた。
「大丈夫だ。こういうものは、時間が経てば自然と消える」
その言葉を聞いただけで、司の胸の奥がふっと軽くなる。
さっきまであった小さな不安が、すっと引いていく。
不思議だった。
なぜだか、ノームの声には、理由もなく「大丈夫だ」と思わせる力がある。
(なんでだろ……ノームの声、落ち着くんだよな……)
そんなことをぼんやり考えていると、
ノームとタカギがシャワー室の方へ歩き出した。
ぺたぺたと足音が響く。
「ほら、司。早く来い」
「あ、うん!」
慌てて返事をして、司も二人の後を追う。
シャワーを浴びると、熱を持っていた体がじわりとほどけていく。
水が肌を流れるたびに、疲れが少しずつ落ちていく気がした。
全身の汗と汚れを洗い流し、新しい服に着替える。
乾いた布が肌に触れた瞬間、思わず小さく息が漏れる。
さっぱりした体で洗濯場を後にすると、自然と足は食堂へ向かっていた。
さっきまで重かった足が、少しだけ軽くなっている気がした。
食堂に入った瞬間、鼻に飛び込んできたのは――肉が焼ける匂い。
脂の焦げる甘い香りが、空腹の腹をぐっと掴んで離さない。
胃がきゅう、と鳴いた気がした。
「……え、肉……?」
司が思わず大きな声で言った。
さっきまでの疲れ顔が、嘘みたいに消えていた。
鼻がひくひくと動く。
体が勝手に、匂いの方へ引っ張られる。
今晩のメニューはなんとステーキだ。
ごはん、コーンスープ、ステーキの王道メニュー。
それは司の疲労をはるか彼方に吹き飛ばすには十分すぎるほどのごちそうだ。
「落ち着け司。よだれ出てるぞ」
タカギがニヤつきながら肘でつつく。
でも、タカギ自身もソワソワしていて、足が妙に小刻みに動いていた。
「う、うそ……出てないよ……」
慌てて口元をぬぐう司。
でも、ちょっとだけ手が湿っていた。
「今日は……当たりの日だな」
ノームが珍しく、少しだけ口元を緩める。
その表情は、ほんのわずかだ。
だが、それだけで、この食卓が『特別』なのだとわかった。
この食材は、この異人区の隣の区画にある農場地帯で育てられた牛の肉である。
ここの農業地帯は、前線都市バルトライン専用の農場である。
これは籠城戦を想定してあり、数年分は食料の確保がしてある。
百万人いる異人のうち、二十万人は非戦闘員だ。
有事の際には籠城戦を強いられるが、基本はここで騎士、異人たちの世話係として働いている。
配膳、洗濯、掃除、農場の仕事、修繕――仕事は山ほどある。
戦場へ出ない代わりに、都市の歯車として回り続ける。
もちろん、世話係の異人と徴兵された異人とでは待遇がかなり違う。
世話係の異人たちはステーキなど口にすることは決してできない。
あくまでも異人街で生活する異人と同等の扱いを受ける。
三人はいつも通りに席についた。
皿の上で、肉はじゅうじゅう音を立てていた……と言いたいところだが、実際はもう音が止まっていた。
湯気も少ない。
ほんのり温かい程度だ。
茶色い塊がそこにあるだけで、司は心底がっかりした。
さっきまで頭の中で鳴っていた“じゅうじゅう”という音が、すっと消える。
ステーキは適当に切られており、大きさは個体差があるが、握りこぶしぐらいの大きさだ。
よく焼けており、ウェルダンを超えて焼き過ぎなくらいだ。
表面はカチカチで、フォークが少し弾かれる。
ナイフを入れると、ぎし、と嫌な手応えが返ってくる。
8等分された異人区の各区画には10万人が生活している。
10万人分の肉を焼くのは、時間と人手が足りない。
鉄板の上に大量の肉を並べて焼いていくが、厚みも長さもバラバラなため、焼き時間は適当になる。
食中毒の危険性を考慮して、「肉はよく焼け」と指示が出ているため、焼き過ぎたステーキが大半であった。
「……これ、たべられる?」
司がぼそっと言うと、タカギが吹き出す。
「噛み切れないだけで、ちゃんと食いもんだ。顎が鍛えられてよかったな」
タカギが満面の笑顔で言った。
「よくないよ……」
司はぶつぶつと文句を言った。
フォークでつつくと、コツ、と固い音がした。
「お、司。タカギの真似か? まるでひょっとこみたいな顔してるぞ」
ノームの一言で、司は思わず「え?」と答えた。
無意識のうちにいつもタカギがやっているように唇を突き出していたのだ。
司は恥ずかしくなり、顔を真っ赤にして唇を戻した。
「なにも照れることはないぞ。憧れの人を真似たくなるのはよくあることだ」
タカギは腕を組みながら、うんうんと頷いた。
「え?」
司が間の抜けた声で言うと、タカギも「え?」とオウム返しした。
互いに顔を見合わせて、二人は噴き出した。
さっきまでのがっかりした空気が、ふっと軽くなる。
三人はそのまま、食事を始めた。
タカギと司は硬めの肉を歯で噛み切る。
たとえ焼き過ぎでもステーキはステーキだ。
最初のひと噛み。
顎が痛い。
歯がきしむ。
でも、次の瞬間――
口の中にじわっと『肉の味』が広がった。
「……う、うまい……」
司の声は震えていた。
肉汁は出てこない。
ただ、塩を適当にふりかけただけの肉の塊だ。
肉は硬く、なかなか飲み込むのも難しい。
だが、うまい。
噛めば、少しずつ味がにじむ。
そのわずかな旨味が、やけに体に染みた。
「うまい」という言葉しか出てこない。
その一言のために、今日一日、長槍を支えた気さえしてくる。
司とタカギの二人は泣いていた。
涙を流し、鼻水を垂れ流しながら、肉の味の衝撃と幸福を噛みしめていた。
二人を横目で見ているノームがあきれた声で話す。
その顔は引きつっている。
「お前ら見てると、なんだか食欲がなくなるな」
ノームの言葉にタカギがすぐさま言い返す。
「いいから食えって、ノーム。こんなの涙が止まらないに決まってるだろ」
タカギの声は感動のあまり震えている。
「肉が噛めば噛むほど味と塩味が染み出てきてさ。うますぎるんだ」
タカギの下手くそな食レポを聞きながらノームは気がついた。
口の中の塩味の正体は、タカギの鼻から流れ出た鼻水だ。
鼻水はそのままタカギの口の中に流れ込んでいたのだ。
それを知ったノームは、ますます食欲がなくなっていく。
フォークを持つ手が、ゆっくり止まる。
もう一人、感動の涙を流す司を眺めてみる。
司は動かなかった。
あまりの感動で思考が止まり、フリーズしていた。
口は半開き、目はうるうる。
手だけが肉を持ったまま固まっている。
そんな二人を横目に見ながら、ノームはステーキを口にする。
数秒後――
ノームは「うますぎる!」と叫んだ。
その声をきっかけに、食堂のあちこちで歓声と笑いが起きる。
誰かが笑い、誰かが泣きながら肉をかじっていた。
明日にはまた地獄みたいな訓練が待っている。
それでも今だけは、硬い肉一切れが、全員の心を少しだけ軽くしていた。




