第44話 訓練一日目 三人練習
三人は長槍の前に立ち、しばし無言でそれを見つめていた。
ノームは長槍から視線を外さず、静かに言った。
「まずは持ってみよう」
重さに慣れるため、三人は順番に柄を手に取った。
先頭から、ノーム、タカギ、司の並び。
司が柄に触れた瞬間、想像以上に重心が安定していないことがわかった。
木の柄は思ったより太く、手にしっくり来ない。
ほんの少し手首を動かしただけで、長槍全体がぐらりと揺れ、重さが腕にずしりとのしかかる。
「うわっ……!」
持ち上げようとした拍子にバランスを崩し、長槍は地面に落ちて鈍い音を立てた。
土が軽く跳ね、その乾いた音が耳に残る。
周囲からも、同じような音があちこちで響いている。
他の組も苦戦しているらしい。
ノームが苦笑しながら言った。
「いきなり無理はしなくていい。ゆっくり、この重さに慣れていけばいいさ」
「久しぶりに持ったけど……やっぱ重いな、これ。腰、やっちまうぞ?」
タカギはわざと大げさに腰を曲げ、ぐっと背中を反らせてみせる。
痛そうな声を出しながら、顔を尖らせ、まるで『ひょっとこ』のように見えた。
司はその顔を見て思わず笑ってしまった。
さっきまで感じていた緊張が、少しだけほどける。
「……せーのっ!」
三人が息を合わせ、もう一度長槍を持ち上げる。
今度は落とさずに済んだ。
だが、まっすぐに構えたままの姿勢を維持するのは、せいぜい数分が限界だった。
腕が痺れ、肩がじわじわと熱を持ち始める。
司の手のひらは、すでにじっとりと汗ばんでいた。
滑りそうになるのを、必死に握り直す。
「よし、次は正しい構え方での訓練に移る」
ノームが額の汗をぬぐいながら言った。
この長槍は、突き刺すためだけのものではない。
敵の突進を受け止める用途でも使える。
むしろ、そちらの用途の方が多いと言える。
司が担当する長槍の後端には、穂先とは異なる、三十センチほどの鋭い鉄製スパイクが装着されている。
地面に向けられたその先端は、まるで杭のようだった。
それを地面に突き刺すことで、槍の重さと敵の衝撃を大地へ逃がす仕組みだ。
「司、力を入れすぎるな。ゆっくりと地面に突き刺せばいいんだ。自重で深く刺さるはずだ」
ノームの声に従い、司は恐る恐るスパイクを地面に当てる。
金属が土に触れる鈍い感触が、手を通して伝わってくる。
そのまま少し押し込むと、スパイクが地面に吸い込まれていく。
「よし、次は腰を落として体重をかけてみろ」
さらにノームが続けた。
ぐっと体重をかけると、確かに先ほどよりも腕が楽になった。
槍の重さが、腕から足へ逃げていく感覚がある。
「お……ほんとだ」
だが、楽なのは最初だけだった。
時間が経つにつれ、足の裏から、腰、背中へと疲労がじわじわと広がっていく。
踏みしめた地面が重く感じる。
司の呼吸は荒くなり、ついに音を上げた。
「もう無理……持てない。ちょっと休憩しようよ……」
弱々しい声でそう訴えた。
しかし、ノームもタカギも額に汗を流し、真剣な表情で長槍を支え続けていた。
わずかに震える腕が、それでも下がらない。
それを見て、司はぐっと唇を噛みしめる。
(僕だけ、泣き言を言ってる場合じゃない)
司は弱音を飲み込み、再び両手に力を込めた。
どうすれば重さを分散できるか。
どう構えれば、少しでも長く耐えられるか。
三人は言葉を交わすこともなく、手探りで工夫を重ねる。
足の位置をずらし、握る位置を変え、わずかな楽な形を探していく。
三人は無言で汗を流し続けた。
その場に響くのは、荒い呼吸と、わずかに軋む槍の音だけだった。
ふと気がつけば、もう昼食の時間になっていた。
太陽はまだ高く、じりじりと肌を焼いている。
だが、腕や肩の感覚はすでに鈍く、時間の感覚も曖昧になっていた。
複数人の看守が、いつものように肩にかけたショルダーバッグから昼食を取り出し、配っていく。
袋の中で、竹筒や包みが触れ合う音がかすかに聞こえた。
一人の看守が、司、ノーム、タカギの元へやってきた。
三人とも疲労困憊の姿を見て、にこりと微笑んだ。
「おつかれさん。これでも食べて休憩しろよ」
がたいのいい長髪の看守が、爽やかな声で笹の葉で包まれた昼食と、水が入った竹筒を渡してくれた。
受け取った瞬間、ほんのりと笹の香りが鼻をくすぐる。
司は感謝を伝えてから、包まれた笹の葉をそっとほどいてみた。
指先に残るのは、かすかな湿り気と葉の冷たさ。
出てきたのは、どう見てもサンドイッチだった。
ベーコン、レタス、トマトのオーソドックスなサンドイッチである。
食パンを切り分けた簡素な作りで、パンの生地は少し硬く、ぱさぱさしている。
だが、それでも司の手に渡った瞬間、思わず目を見開いてしまった。
(……パンだ)
それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
疲れていた身体に、小さなご褒美をもらったような気がした。
司にとっては、十分すぎるほどの高級食品だった。
ひと口かじる。
乾いたパンが口の中でモソモソと主張してくる。
だが、すぐにレタスのシャキシャキとした歯ごたえと、トマトの瑞々しい果汁が広がり、そのぱさつきをやわらかく包み込んでくれた。
噛むたびに、ベーコンの塩気と脂がじわっとにじみ出る。
喉の奥に、じんわりと旨味が落ちていく。
(……うまい)
声には出さなかったが、司は心の中で何度もそう繰り返していた。
この世界にもパンはある。
だが、基本的に異人に出されるのは米が中心で、パンが出ることは滅多にない。
司がこの世界に来てから一か月が過ぎたが、パンが出たのは、これで三度目だった。
兵役中は、食事の内容が普段よりも明らかに良くなる。
体力をつけるためか、肉料理が増え、夜にはなんと酒まで用意される。
大量生産の安酒をコップ一杯分だけ。
それでも、それを楽しみに訓練を耐え抜く者は多い。
昼食を終えると、三人は再び訓練に戻った。
腹は満たされたが、身体は正直だった。
司が立ち上がった瞬間、足に力が入らず、ぐらりと視界が揺れる。
どっと疲れが押し寄せてくる。
それでもまわりに遅れまいと、弱音は吐かなかった。
長槍の重さや持ち方にも、少しずつ慣れてきたようだ。
まっすぐ構えたままの姿勢を、二十分近く維持できるようになっていた。
とはいえ、腕は小刻みに震え、足の裏はじんじんと熱を持っている。
地面を踏みしめるたびに、じわりと痛みが返ってくる。
手を離せば楽になると分かっていても、離すわけにはいかなかった。
次は『突く』『引く』の動作に入る。
ただ静止しているだけとは訳が違う。
前へ突き出すたび、槍の先がわずかに遅れて揺れる。
引き戻すと、その重さが今度は腕に跳ね返る。
槍の重さが、容赦なく腕と肩にのしかかる。
遠心力が加わることで、最初に持った時よりも、はるかに重く感じられた。
「……っ、重っ……!」
思わず声が漏れそうになるのを、司はぐっと飲み込んだ。
歯を食いしばり、息を整える。
ここで弱音を吐けば、三人の動きが乱れる。
それだけは、どうしても避けたかった。
司は一言の泣き言も漏らさなかった。
額から流れる汗が目に入り、視界がにじむ。
だが、それを拭う余裕はない。
いつからだったろうか。
訓練が始まってから、三人はろくに会話をしていない。
言葉を出さなくても、互いの言いたいことが自然と伝わってくる。
呼吸のタイミング、動きのリズム、それだけで十分だった。
司はそれを当たり前のように受け入れ、二人も何も言葉にしなかった。
ただ黙々と、槍を突き、引き、また突く。
沈黙の中、長槍が空を切る音が、乾いた風のように響いていた。
不器用ながらも必死なその姿に、ふとノームが声をかける。
「……よく頑張ってるな、司」
その一言に、司の顔がぱっと明るくなる。
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
疲労は確かにある。
腕は限界に近いし、足も鉛のように重い。
それでも、心に小さな火が灯ったような感覚が、彼の身体を支えていた。
「……うん。ありがとう、ノーム。まだまだいけるよ」
自分でも驚くほど、声は前向きだった。
三人は黙々と長槍を振り続けた。




