第42話 服従の礼
しばらくして、水晶玉が黄色く光った。
淡い光がじわりと広がり、部屋の空気をゆっくり塗り替えていく。
看守の声が室内に響く。
「全組へ、集合場所に集まれ。あとは組長の指示に従うように」
司、ノーム、タカギの三人は互いに顔を見合わせた。
わずかな沈黙のあと、三人は小さく頷く。
そして同時に立ち上がった。
異人棟を出て、正門に向かって大通りを歩く。
周りの異人棟の扉も次々に開き、他の異人も外へと流れ出していた。
外に出た瞬間、ひやりとした朝の風が頬を撫でる。
空はやけに澄んでいて、雲ひとつない青が広がっていた。
晴天の下、多くの異人たちが歩いている。
タカギが小さく舌打ちした。
「こんだけ天気がいいのに、気分は最悪だな」
空はどこまでも青く、風も心地いい。
それでも、その言葉だけが妙に重く残った。
「そうかな? いつものように気持ちのいい朝だよ?」
司は首をかしげながら、のんびりと答えた。
空を見上げて、少し目を細める。
「いいよな。まだ何にもわかってないやつはのんきでさ」
タカギが下唇を突き出して、横目でちらりと司を見る。
口元には、いつもの意地の悪い笑みが浮かんでいた。
それを見た司は、ほんの一瞬だけムッとする。
けれど、すぐに肩の力を抜いた。
(まあ、いいか)
考えても仕方がない。
そう思うと、さっきの苛立ちはあっさり消えた。
城壁の正門を抜けると、先には何千もの人だかりができていた。
いや、何千どころじゃない。
人、人、人――視界の端まで異人が並んでいた。
人の熱気が、むっと押し寄せてくる。
ざわめきが重なり合い、低くうねるように響いていた。
さらに、大勢の人間が番号を大声で叫んでいるのが聞こえてきた。
あちこちから飛び交う声がぶつかり合い、何を言っているのか一瞬わからなくなる。
「……うわ。すごい人」
司が思わず漏らす。
足がわずかに止まりかける。
ノームはそれを横目で確認すると、静かに言った。
「いいか、司。ここから先は常に気を張っておくんだ。私語も絶対にするな」
声は低いが、はっきりしていた。
ノームはいつもの優しい態度とは違う。
緊張と警戒を宿したまなざしで、まっすぐ司を見る。
司は背筋を伸ばした。
空気の重さに押されるように、強く頷く。
その言葉を、決して忘れないように心にとどめた。
大勢の異人は、一人一列に並び、長蛇の列を作っていた。
その最後尾と思われる場所に、木板の番号がいくつも立っていた。
どれも人の背丈ほどあり、荒く削られた木肌が朝日に照らされている。
その中のひとつ――
『253番』と書かれた木製の大きな板が立てられた列へ向かう。
列の最後尾には、看守三人と異人兵が六人待機していた。
看守は、真剣な顔つきで各組長たちから組番号を確認していた。
その前で、各組長たちが順に組番号を伝えていた。
異人兵は、とても大きな声で『253番』を何度も叫んでいる。
声は空気を震わせ、耳の奥にまで響いた。
叫びすぎたのか、ところどころ声がかすれている。
三人が近づくにつれ、その声はさらに膨れ上がっていく。
司は思わず、両手で耳をふさごうとした。
――その瞬間だった。
隣にいたタカギが、司の腕を強く掴んで制した。
驚いて振り向いた司は、息を呑む。
そこにあったのは、いつものおどけた表情ではない。
鋭く研ぎ澄まされた視線と、張りつめた真剣な顔。
周囲の喧騒が遠のいた気がした。
タカギの目だけが、やけにはっきり見える。
逃げ場のない圧に、司の胸が強く締めつけられる。
息が浅くなり、喉がきゅっと狭くなる。
思わず涙がにじみ、今にもこぼれそうになった。
――だが。
その変化に気づいたのか、タカギはほんの一瞬だけ、片目を細めてみせた。
それは、短いウィンクだった。
張りつめていた空気が、ほんのわずかにほどける。
肩の力が抜け、司は小さく息をついた。
胸の奥にあった恐怖が、少しだけ和らいだ気がした。
ノームが組番号を伝えると、看守が頷いて言った。
「最後尾に並んで待機していろ」
その言葉に従い、三人は列の最後尾に立った。
待機していると、あとから来た組が次々と並んでいく。
列はどんどん伸びていき、後ろを振り返ると、いつの間にか人の壁ができていた。
しばらくして、異人兵たちの大きな呼び声が少しずつ減っていく。
さっきまで耳を打っていた怒鳴り声が、遠くに引いていくみたいに小さくなった。
全員が揃ったのだろうか。
周囲のざわめきも、どこか落ち着きを帯びてきた。
列の前の方で、何かが動いた気がした。
人の流れが、ゆっくりと揺れる。
司は思わず背伸びをした。
けれど――
前には、身長が二メートルほどあるノームが立っている。
視界は、分厚い背中にきれいにふさがれていた。
(うーん、全然見えない……)
しかし、司は好奇心に負けて、少しだけ体をずらして前を見てみることにした。
異人たちの列の前には、木材を組み立てた簡易的な演台が置いてあった。
その前に、複数の騎士が並んでいるのが見える。
全員がフルプレートを着ている。
太陽の光を受けて、金属の表面がぎらりと光った。
ただ並んでいるだけの異人たちとは違う。
甲冑は一糸乱れず整っていて、立ち姿もまっすぐだ。
司は美しく整列した騎士たちの姿に見惚れて小さく息を飲んだ。
「傾聴せよ」
騎士の一人が、全体に聞こえるように声を張った。
だが、その声は前方から飛んできたものではなかった。
まるで空気そのものが震えているみたいに、周囲から一斉に響いてくる。
司は思わず肩をすくめた。
大声というより、司には、スピーカー越しに聞こえているように思えた。
「異人たちよ。これより、赤軍の総指揮を取られるハインケル中隊長が参られる。全員、服従の礼をとれ」
その言葉が終わるや否や、空気がぴたりと張り詰める。
最前列にいる看守たちが一斉に土下座の姿勢をとり始める。
続いて、後ろに並ぶ異人たちも次々と土下座していく。
衣擦れの音と、地面に手をつく鈍い音が、あちこちで重なった。
ざざっ、と波のように広がるその動きに、司は一瞬遅れそうになる。
前に立つノームが静かに膝をつき始める。
その背中を見て、司も慌てて同じように膝をついた。
冷たい地面に手をついた瞬間、ひやりとした感触が伝わってくる。
指先にわずかな砂のざらつきが残った。
視界は一気に低くなる。
周囲から聞こえていたざわめきも、すぐに消えた。
まるで音そのものが吸い込まれたみたいに、しん、と静まり返る。
息をする音さえ、やけに大きく感じる。
司はぼんやりと地面を見つめた。
目の前には、自分の手と、乾いた土しかない。
しばらくして、全員の動きが完全に止まった。
異人たちは、誰一人として動かない。
その静けさの中で、司はようやく、周りが完全に沈黙したことを実感した。
すると、先程の騎士がもう一度声を出した。
「これより、中隊長殿より話がある。総員、顔を上げて拝聴せよ」
(不思議だな。本当にスピーカーから聞こえているみたいだ)
司はそう思いながら、地面に伏せたまま耳を澄ませた。
周囲の空気が、ぴたりと止まった気がする。
次の瞬間――
一斉に顔を上げる気配が、波のように広がった。
衣擦れと、砂を踏む音が重なる。
司はワンテンポ遅れて顔を上げた。
演台の上には、一人の男が立っていた。
周りの騎士と違い、フルプレートの上から、深紅のロングマントをまとっている。
そのマントは風もないのに、ゆっくりと揺れていた。
深紅の色は、やけに鮮やかだった。
まるで血のように濃く、目に刺さる。
黒紫の長髪。年は三十代ほど。
細身で背が高く、冷たい雰囲気を醸し出している。
視線が合った気がして、司は思わず息を止める。
「私は赤軍を指揮する中隊長のハインケルだ」
声は大きくない。
だが、はっきりと耳に届いた。
まるで、すぐ後ろから囁かれているみたいだった。
「この場には総勢二万一千人の異人がいる。諸君らにはこれから大槍の訓練を行ってもらう。既に聞いているとは思うが、一週間後にはここを発つ。その後は大隊長殿の指示に従う。以上だ」
淡々とした口調だった。
感情の色は、ほとんど感じられない。
それでも、その一言一言が妙に重く、胸に沈んでいく。
短い。あまりにも短い話だった。
なのに、場の空気は誰も動けないほど張りつめていた。
ハインケルはそれ以上何も言わず、静かに踵を返した。
演台を降りる足音が、やけに大きく響く。
司の視界から、その姿はすぐに消えた。
それでも、しばらく誰も動かなかった。
「総員、訓練を開始しろ」
騎士の言葉が聞こえた瞬間――
異人たちが一斉に立ち上がる。
砂を踏む音と、衣擦れがあちこちで重なった。
司も遅れて立ち上がる。
足に力が入りきらず、少しだけふらついた。
気づけば、周りの異人の流れが動き出していた。
異人たちは、それぞれの異人街ごとに集まり始める。
呼び声に応じて、群れがゆっくりと形を変えていく。
二万一千人。
その数が動くと、地面そのものがうねっているみたいだった。
さっきまで一つの塊だったものが、いくつもの流れに分かれていく。
押されるように、司たちもその流れに乗る。
司は小さく息を吸った。
胸の奥が、じわっと重くなる。
さっきの中隊長の声が、まだ耳に残っていた。
――一週間後にはここを発つ。
その言葉だけが、妙にはっきりと引っかかっている。
司は歩きながら、心の中で小さくつぶやいた。
(これからなにが始まるんだろう)




