第40話 片目の将と拳の将
ここは前線都市バルトライン中央にある、司令塔の作戦会議室。
厚い石壁に囲まれたその部屋は、外の喧騒が嘘のように静まり返っている。
中央には大理石で作られた円卓が据えられ、四人の男性が向かい合っていた。
窓から差し込む光が、机の白い表面に鈍く反射する。
その光の中で、一人の男が静かに存在感を放っていた。
オールバックに撫でつけられた完全な白髪。
右目は黒い眼帯に覆われ、残された片目は透き通る紫。
その視線は、まるで相手の内側まで見透かすようだった。
顔には細かい傷が無数に走っている。
どれも浅くはない。
積み重ねてきた戦場の数を、そのまま刻みつけたような傷だ。
男は黒の軍服に身を包んでいる。
胸元には、王家の証――『向かい合う番の馬』の刺繍。
金糸が光を受けて、わずかにきらめいた。
やがて、その男が口を開く。
声は低く抑えられている。
だが、部屋の隅までよく通る。
「これまで前例のない異人たちの大移動は、無事に終わった。これから十万人ほどを引き連れ、最前線基地を設営する予定だ。敵の妨害はあるとみて間違いないだろう」
言葉の端々に、揺らぎはない。
すでに覚悟を決めた者の声だった。
彼こそが、現国王の兄。
そしてカールの剣術の師でもある――ロビン大隊長。
「異人街まるごとの大移動は問題が起きるかと思っていたが、スムーズに進んだ」
ロビンは両手を組み、片目を閉じながらゆっくりと息を吐く。
すると、別の男が口を開いた。
椅子に深く腰掛けたまま、肩を揺らす。
「これからはより戦いが激化する。今後も異人街総出の大移動が主になるだろうな」
言い終えた直後――
ガハハ、と腹の底から響くような笑い声が会議室に転がった。
重く張りつめていた空気が、その一瞬だけ揺れる。
声の主は、筋肉隆々の男――ジョセフ。
国王の弟であり、ロビンの実弟でもある。
背もたれに寄りかかるその姿勢は、どこか無造作だ。
だが、その体はまるで鎧のように硬い。
盛り上がった肩と腕。
厚い胸板。
軍服の上からでも、筋肉の量がはっきりとわかる。
短く切り揃えられた黒髪は、光を受けてわずかに紫を帯びる。
整えすぎていないその髪型が、彼の気質をそのまま表していた。
鋭いが、どこか豪放な紫の瞳。
先ほどまでの笑いの余韻が、まだわずかに残っている。
彼の軍服の胸にも、王家の証が刺繍されている。
将軍であるカールにとっては、この二人は部下である。
しかし、実父より親しみを感じていた。
だからこそ――
ジョセフの気楽な笑い声が響くと、胸の奥にあった緊張がわずかにほどける。
無意識に、肩の力が抜けかけた。
――だが、それは今じゃない。
ここは前線だ。
しかも、作戦会議の最中。
ほんの一瞬の気の緩みが、命を落とす判断に繋がる。
いつまでも明るい空気に流されるわけにはいかない。
カールは小さく息を吸い、ゆっくりと吐いた。
背筋をわずかに伸ばし、視線を円卓へ戻す。
場の空気を引き戻すように、口を開いた。
「だが、いい話だけではない。キラーが砦に入ったようだが、アレックスどうだ?」
カールは隣に座る若い男へと視線を向ける。
男の透き通った青い髪は、まるで湖のようだった。
光を受けるたびに、揺れる水面のようにわずかに色が変わる。
青い瞳は宝石のように澄んでいた。
だが、その奥には感情の揺れがほとんど見えない。
彼はとても整った顔立ちをしている。
同性であっても、思わず目を引かれるほどの美貌だった。
彼が着る軍服の胸には何も刺繍されていない。
王家でもなく、貴族でもない。
この場にいる誰とも違う。
彼は、この世界の人間ではない。
異人である。
その事実だけで、本来ならここにいるはずのない存在だ。
だが、彼はここにいる。
理由は一つ。
彼が特別だからだ。
もっとも、その特別扱いは容姿のためではない。
確かに、希に容姿によって特別扱いされる異人もいる。
だがそれは、人としてではない。
ただの『所有物』として扱われているに過ぎない。
しかし、彼は違う。
人として扱われている。
対等に、だ。
貴族が住むような屋敷まで与えられているのが、その証だった。
「ええ、間違いなくキラーは近くに来ています」
声は静かで淡々としていた。
先ほどまでの明るい雰囲気は、アレックスの一言で一気に消えた。
まるで火が消えるように、静かに。
笑い声の余韻が、すっと引いていくのをカールは感じた。
「キラーか。やつが出てきた場合は、十万でも足りんだろうな。役人共がまた騒ぐぞ」
ロビンの声は低い。
「王都にいる役人共はやつの恐ろしさがわかっていない」
ジョセフが吐き捨てる。
その言葉と同時に、拳が振り下ろされた。
鈍い音が、円卓に響く。
叩きつけられた衝撃が、わずかに空気を震わせた。
カールには、机に小さなひびが入ったかのように感じられた。
「ジョセフよ。やつらは戦いを知らない。我らとて十年前は戦い方を知らずに苦戦したものだ」
ロビンが静かに言う。
だが、その言葉には苦味が混じっていた。
顔がわずかに歪む。
眼帯の奥が疼くのか。
無意識に、指先が頬の古い傷へと伸びる。
触れる寸前で、止まった。
思い出すこと自体を、拒むように。
カールは、その様子を見ていた。
ロビンとジョセフ。
二人とも、辛い過去を思い出している。
そう感じていた。
カールがまだ少年であった十年前のことだ。
まだ軍人になる前のことだ。
だが、何度も聞かされた話として知っている。
突如――
ある都市で、異人たちが一斉に反旗を翻した。
異人が歯向かうなど、誰も想像していなかったのだ。
だからこそ、対応は遅れてしまった。
気づいたときには、すでに遅かった。
瞬く間に、都市は制圧されていた。
門が落ちる。
重い音が、街に響いた。
見張り台に火が上がる。
黒い煙が空へ伸びていく。
鐘が鳴り続ける。
止める者はいない。
逃げ惑う人々が、石畳を埋め尽くす。
叫び声と足音が、混ざり合っていた。
反乱は、そこで止まらなかった。
周辺の街、村、そして異人街へと広がっていく。
まるで火が燃え移るように。
王都から見て、巨大湖バルトの反対側。
そのほとんどが、奪われた。
これが――
王国建国以来、初の戦争の始まりであった。
だが、その時、誰もそれを『戦争』とは呼べなかった。
戦争という言葉すら、知らなかったからだ。
だから最初は、誰もまともな戦い方を理解していなかった。
ロビンは五百人ほどの騎士を引き連れて、都市奪還に向かった。
馬に跨る騎士たち。
鎧が鳴り、旗がはためく。
誰もが、自分たちの勝利を疑っていなかった。
――だが。
結果は違った。
人生初の戦いは、想像していたものとはまるで別物だった。
騎士たちは、対決の儀礼に従い、一対一で戦おうとした。
だが、敵は複数で襲ってきたのだ。
もちろん、彼らとて剣術や弓術といった技術はあったが、殺しの技術や実戦経験はまったくなかった。
大勢の騎士が敵に囲まれ、孤立していく。
気づいたときには、退路しか残っていなかった。
ロビンは多くの騎士を失い、片目を失った。
数名の部下を引き連れて逃げ帰るしかできなかった。
当初、王国には軍隊と呼べるものは存在しなかった。
あるのは、誇り高い騎士団だけ。
だが、その誇りは、戦場では通用しなかった。
初めての殺し合いは、圧倒的な力と経験の差を突きつけてきた。
当初は、騎士対異人という構図で戦っていた。
実戦経験のないまま戦い続けた結果、王国の騎士たちは甚大な被害を受けた。
どうすればいいのか。
王国は、考えに考え抜いた。
どうすれば数が多い異人たちを押さえ込めるのか。
その末に出た考えが――
これは異人の責任だ。
ならば、異人の相手は異人にやらせればいい。
あまりにも乱暴で、あまりにも冷たい理屈だった。
だが、王国はそれを選んだ。
異人たちを戦場へ徴兵するようになったのだ。
結果は、功を奏した。
異人対異人。
それは反乱分子にとって、最悪の形だった。
彼らが反乱を起こした理由は二つある。
一つは、異人が奴隷として扱われている現状からの脱却。
そして、未だ囚われている同胞の解放だ。
彼らは異人を助けるために剣を取った。
しかし、戦う相手が、助けるべき異人になってしまった。
その結果、反乱軍の勢いを確かに鈍らせた。
進軍の速さは落ち、
戦線は次第に膠着していく。
そうして今の、睨み合う形になったのだ。
そんな状況にもかかわらず、王都の役人たちは騎士に対して強く当たっていた。
「いつ異人を鎮圧できるのか?」
「所詮、騎士は役人になれなかった無能ばかりだ」
だが――
それは、実戦を知らない愚か者の台詞だ。
重い沈黙が続いた。
会議室の空気が、さらに沈んでいく。
まるで部屋そのものが、昔の記憶を抱え込んだようだった。
ロビンはそれ以上、何も言わない。
言えば言うほど、思い出してしまうのだろう。
ジョセフもまた、珍しく口を閉ざしていた。
カールは二人を見た。
どちらも、今は過去の中にいるように見えた。
だからこそ、ここで止めるべきだと判断する。
「さて、そろそろ本題を話そうか」
カールは重くなった空気を断ち切るように、今後の作戦について話し出した。




