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水野司の世界の声  作者: すずはるな
水野司と世界の声
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第36話 前線都市 バルトライン

 世界を囲むように巨大な山脈、『ソバルト』がそびえ立っている。


 人の手では越えられぬと言われるその山脈から、無数の川が蜘蛛の巣のように流れ落ちる。


 細く分かれた水はやがてひとつに集まり、絶え間なく続いていく。


 その終着点こそが、巨大湖『バルト』。


 澄んだ水面は空を映し、晴れた日にはどこまでも続く青が広がる。


 風が吹けば、鏡のような水面がゆらぎ、空の色が細かく砕けるように揺れた。


 その巨大湖の遥か南には、王国を守るために築かれた要塞都市がある。


 『前線都市バルトライン』


 バルトラインの造りは、王国の他の都市と同様、中心から同心円状に広がる三層構造。


 外へ行くほど円は大きくなり、層ごとに役割がはっきりと分かれている。


 空から見れば、何層にも重なったバームクーヘンのようにも見える。


 最も中心に位置するのは、都市の象徴でもある司令塔と貴族区。


 高くそびえる塔は、都市のどこからでも見える。


 その外側を、都市の食を支える農業区が取り囲む。


 畑が整然と並び、風に揺れる作物が緩やかな波を作っていた。


 そして一番外周には、異人たちが押し込められる異人区が広がっている。


 外壁に沿うように広がるその区域は、他の層とは明らかに空気が違っていた。


 都市の中央に立つ司令塔の最上階に、二人の姿があった。


 壁一面の大窓からは淡い光が差し込み、室内は静かな緊張に包まれている。


「将軍。異人たちの移動は、概ね予定どおり進行しております。明日中には、すべて完了する見込みです」


 軍服を着た黒髪の女性が、姿勢を正したまま報告する。


 声は落ち着いているが、どこか張り詰めた硬さが残っていた。


「……そうか」


 カールは短く頷き、彼女へと視線を向けた。


 ほんの一瞬だけ、その顔を見つめた。


 表情はいつも通りだ。


 だが、その瞳の奥に、わずかな疲労の色が滲んでいるのを見逃さなかった。


「よくまとめてくれた。この規模だ、神経もすり減っただろう」


 カールは机から一歩離れ、静かに言葉をかける。


 声音には、部下を気遣う色がはっきりと滲んでいた。


「今日はもう下がれ。休むのも、仕事のうちだ」


 一拍置いて告げられたその言葉は、命令というより配慮に近い。


「はっ……ありがとうございます」


 女性はわずかに目を見開いたあと、深く頭を下げた。


 その動きには、張りつめていたものが少しだけ緩んだ気配があった。


 踵を返し、足音を抑えながら部屋を出ていく。


 扉が静かに閉まると、室内には再び、重たい静寂が戻った。


 カールは一人になると、自然と足が窓へ向かっていた。


 そのまま、大窓の前に立つ。


 冷たいガラス越しに、外の空気が伝わってくるようだった。


 眼下には、この一帯を埋め尽くすように、異人たちの列が続いている。


 途切れることなく、地平の先へと伸びていた。


 まるで蟻の大群のように、黙々と、ただ前へ進んでいる。


 ――二万人。


 カールは小さく息を吐いた。


 これほどの増員は、彼自身も初めての経験だった。


 大きな混乱もなく無事に終わりそうなのは、各異人街の看守長たちが、必死に調整してくれたおかげだ。


 彼らにとっても、前例のない規模だったはずだ。


 問題が起きることを想定し、最悪の事態も覚悟して準備を進めてきた。


 だが、今のところ大きな混乱は起きていない。


「これほどの増員を敵は見落としているのか? いや、見逃されている……?」


 誰に聞かせるでもない呟きが、静かな部屋に溶けていく。


 返ってくるのは、沈黙だけだった。


 前線都市バルトラインは、百万の軍勢を擁する要塞都市だ。


 それは、誰もが疑わない絶対の防壁だった。


 それでも――。


 先日、この要塞都市に、千人にも満たない数で正面から攻め込んできた敵がいた。


 正気とは思えない戦力差。


 だが、あれは確かに現実だった。


 要塞都市に踏み込まれる前に追い返すことはできた。


 結果だけ見れば、勝利だ。


 だが、その代償はあまりにも大きかった。


 異人の死者、一万人。


 窓の外に続く列と、その数字が重なる。


 今歩いている者たちの半分に相当する数だ。


 異人を消耗品と扱う王国であっても、これは多すぎる犠牲だ。


「……わかってはいるが」


 唇を噛みしめ、カールは目を伏せる。


 視界から列を外しても、焼き付いた光景は消えない。


「やはり、自分は無能だな」


 自嘲は、驚くほど静かだった。


 カールはゆっくりと目を閉じ、胸の前で手を組む。


 指先に、わずかな震えがあった。


 愚かな将軍の判断で命を失った英雄たちへ。


 せめてもの謝罪と、感謝を込めて。


「――来世では、幸せになってくれ」


 その祈りに、答える声はなかった。


 風すら、止まっているように感じられた。


 カールは目を開ける。


 再び、眼下の列を見つめながら、カールは静かに息を吐いた。


 ――先日の王城での出来事を思い返していた。


 王妃の誕生日パーティーで、国王から新たな命令が下された。


 煌びやかな装飾に包まれた大広間。


 笑い声と音楽が満ちる中、その一言はあまりにも場違いだった。


「異人をどれだけ消費しても構わないから、奪われた土地を取り戻してこい」


 酒杯を傾けていた貴族たちの手が、一瞬だけ止まった。


 だが次の瞬間には、何事もなかったかのように笑い声が戻る。


 国王の突然の命令に、カールは言葉を失った。


 なぜ、今なのか。


 視線を上げると、王座に座る国王はいつも通りの豪快な笑みを浮かべている。


 まるで重大な決断を下したとは思えない顔だった。


 奪われた土地――それは、街や異人街ごと失われた場所。


 今は敵の勢力圏となっている。


 王国はこれまで、防戦一方だった。


 それを――。


 攻めろ、と言っているのだ。


 しかも、異人を消耗品として。


 胸の奥に、鈍い違和感が残った。


 国王の隣に立つ王妃マスカレが、ゆるやかに口元をほころばせた。


 その笑みは柔らかい。


 だが、どこか温度を感じさせない。


「将軍、困惑した顔をされていますね? ではわたくしがご説明いたしますわ」


 静まり返った広間に、澄んだ声がよく通る。


 カールの目に、小さな炎が灯る。


 胸の奥で、何かがかすかに軋んだ。


 だが、それは一瞬のことだった。


 次の瞬間には、何事もなかったかのように表情を整える。


 口元に、わずかな笑みを浮かべた。


「ありがとうございます。前線におりますゆえ、王城の安全な御座所から時勢を見渡されるマスカレ様ほど、世の流れを深く理解することができず……」


 丁寧な言葉。だが、その奥にはかすかな棘が混じる。


 一拍の間。


 マスカレの片方の眉が、ぴくりと小さく動いた。


 その反応を見逃さず、カールは内心で小さく笑う。


 ほんのわずかに、勝ち誇った色が瞳に浮かんだ。


「いいでしょう。将軍殿。あなたでも理解できるようにお話いたします」


 マスカレの声は変わらず穏やかだった。


 だが、言葉の端にだけ、鋭い棘が滲む。


 それでもカールには響かない。


 むしろ、その程度かと冷静に受け流していた。


「ここ数ヶ月、迷い込んでくる異人の数が桁違いに多いのです」


 マスカレは軽く指先を揃え、ゆっくりと言葉を続ける。


「去年までは一日に多くて数百人程でしたが、今年は一日で千人以上に達することもあり、現状の異人街では管理できなくなりつつあります。そこで……」


 広間の空気が、わずかに張り詰める。


 そのときだった。


「だからといって新たに異人街を作るにも、費用がかかる」


 低く太い声が、言葉を割った。


 国王だった。


 唐突に遮られたマスカレの視線が、一瞬だけ鋭くなる。


 しかし、その視線は国王には届かない。


 彼は正面を見たまま、どこか気楽そうに腕を組んでいる。


 わずかな沈黙。


 マスカレは小さく咳払いをひとつ落とした。


「おお、すまんすまん。話を遮ってしまったな。マスカレ」


 国王は気にも留めず、軽く笑いながら謝る。


 その様子に、マスカレの唇がほんのわずかに歪んだ。


 だが、それもすぐに消える。


 再び、優雅な微笑みを貼り付けた。


 もう一度、軽く咳払いをする。


「陛下のおっしゃられる通り、新たに異人街を作るには費用がかかります」


 声音は穏やか。先ほどまでと変わらない。


「ですので、奪われた土地にある異人街や、都市を取り戻すことが必要になりましたの」


 言い終えたあと、マスカレは静かにカールへ視線を向けた。


 

 マスカレが話を終えると、カールは今の説明の意味を考えていた。


 たしかに、理は通っている。


 奪われた土地を取り戻す。


 異人の収容先も確保できる。


 表向きは、無駄のない合理的な策だ。


 だが――それだけではない。


 カールはすぐに、その裏にあるものに気づいていた。


 王国は貴族たちの間で二つの勢力に分かれている。


 第一王子か、第二王子のどちらが次期国王に相応しいのか。


 多くの貴族、特に役人は第二王子、トーマを支持している。


 まだ幼く、気弱な性格もあって、なにかとコントロールしやすいと判断されている。


 第一王子であるカールは人望はある。


 しかし、カールでは自分たちに都合が悪い政策を打ち出す危険性もある。


 ただでさえ、貴族が多すぎると普段から言っているカールを支持するものは少ない。


 さらに王妃マスカレの存在もある。


 彼女は実の息子であるトーマを次期国王へと考えている。


 そのために秘密裏に貴族と繋がり支持者を増やしている。


 貴族たちも優秀で生真面目なカールより、マスカレの方が利害が一致しているのでそちらを選ぶ。


 今回の奪還作戦は第二王子派の提案であり、マスカレからの嫌がらせでもある。


 失敗すれば、カールの株は下がり、ますますトーマに王位が近づくからだ。


 カールは、このような情勢で『次期国王争い』などと小さく失笑した。


 先日の王城での出来事を思い出し、カールは、もっとうまくできたはずだと、静かに自分を責めた。


 そして、もう一度呟く。


「やはり、私は無能だな」


 カールの呟きは空しく部屋の中で消えていった。

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