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水野司の世界の声  作者: すずはるな
水野司と世界の声
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第35話 最悪の船旅

 司が馬車を降りて、まず目に飛び込んできたのは、大きな川だった。


 その水面には、木造船が何艘も静かに係留されている。


 ゆったりと流れる川は、山脈から続いてきたものらしい。


 異人街は、その川に沿うようにして広がっていた。


 上流から流れてきた水は、居住区を抜け、工場地帯をかすめ、さらに農業地帯へと続いていく。


 進むにつれて川幅は少しずつ広がり、水の色もどこか深くなっていくように見えた。


 並んでいる木造船は、どれも細長い形をしている。


 全長は二十メートルほど。横幅は三メートルほどしかない。


(思ったよりぼろい……これ、乗って大丈夫なのかな)


 司は思わず、そんなことを考える。


 船底は浅く、水面にすっと浮かんでいるように見える。


 川や沿岸を行き来するために作られた、運搬用の船だ。


 近くで見ると、木の板には無数の擦り傷が残っていた。


 これまで何度も荷を運び、川を行き来してきた証のようだった。


 普段であれば、異人街と街、王都、砦のあいだを往復し、資材や食料を運ぶ役目を担っている。


 だが今回は、積み荷の代わりに、異人たちが乗せられていた。


 狭い船内に二十人ほどが肩を寄せるように床に座らされている。


 足の踏み場もほとんどなく、少し体を動かすだけで、誰かの腕や肩にぶつかってしまう。


 木の板はところどころ軋み、低い軋み音が伝わってくる。


 船頭役の看守が無言でロープを外した。


 濡れた縄がほどけ、水面に軽く叩きつけられる。


 次の瞬間、船がすっと動き出す。


 押されたような感覚に、司の体がわずかに揺れた。


 船は川の流れに身を任せ、静かに岸を離れていく。


 気づけば、さっきまで立っていた場所がゆっくり遠ざかっていた。


 流れは思ったより速い。


 水面は穏やかに見えて、その下で強く引っ張られているようだった。


 時折、他の船や岸にぶつかりそうになる。


 そのたびに、看守がオールを鋭く入れる。


 水をかく音が強く響き、船体がぎゅっと向きを変えた。


 ぐらり、と大きく揺れる。


「ひっ……!」


 生まれて初めて船に乗った司は、ぶつかりそうになるたび、か細い悲鳴を上げていた。


 自分の体が、自分のものじゃないみたいに揺れる。


 川の流れは急で、船酔いをする者がちらほらと現れ始めた。


 船は左右に大きく揺れ、時折、川面を叩く水しぶきが足元に跳ねた。


 船酔い第一号は、司だった。

 

 喉の奥がひりつくように熱く、胃の中がぐるぐるとかき回されている。


 体の芯がふわふわと浮いているようで、まっすぐ座っていることすら難しい。


 ノームが背中をさすってくれているが、一向に気分がよくならない。


 その手は優しく、一定のリズムで上下していたが、それでも不快感は引いてくれなかった。


(うぅ……最悪……)


 司は必死に口を押さえ、揺れる船底に視線を落とす。


 見ているだけで、さらに気分が悪くなる気がした。


 隣に座っているタカギは、普段であれば司を茶化しているが、今日は真剣な顔つきで前を見ていた。


 妙に静かだ、と司はぼんやりと思う。


 珍しいこともあるもんな、と考えかけたそのとき、タカギの顔が青いことに気づいた。


 額にはうっすらと汗がにじみ、口元は引きつっている。


 どうやら余裕がないのは、自分だけではないらしい。


 船は相変わらず揺れ続け、視界がぐにゃりと歪む。


 何度も込み上げてくる吐き気に耐えきれず、司は何度もえずいた。


 意識が遠のきかける中で、周囲の音だけがやけに大きく響く。


 水の音。軋む木の音。そして――


 「船は、これから丸一日かけて、目的地へ向かう」


 残酷な宣告だった。


 今の状態が、まだ始まったばかりだと言われたようなものだ。


 そうノームに告げられた、その瞬間。


(むり……)


 そう思ったのを最後に、船酔いで限界だった司の意識は、ぷつりと、途切れた。


 司は歩いていた。


 コツ、コツと、靴音が静かな廊下に響く。


 見覚えのない、とても広い石造りの廊下。


 磨き上げられた床はうっすらと光を反射し、どこまでも続いているように見えた。


 空のように高い天井には、大きなシャンデリアがいくつも吊るされている。


 白い光が静かに降り注ぎ、ここが高貴な場所だと、司は理由もなく理解していた。


「司、準備はいいか? 今から全軍に檄を飛ばしてもらう」


 気が付けば、隣に見知らぬ男性が並んで歩いていた。


 声は落ち着いていて、よく通る。


 だが、顔だけが――黒く塗りつぶされたように、はっきりと見えなかった。


 「ああ、任しておいて」


 司は自信満々に答えた。


 やがて、目の前に大きな木製の両開きの扉が現れた。


 人の何倍もあるその扉は、重厚で、近づくだけで圧を感じる。


 司は自然な動きで手を伸ばし、取っ手に触れた。


 ひんやりとした感触。


 次の瞬間――


 扉の向こうから、目が眩むほどの光があふれ出した。


 思わず目を細める。


 まぶしすぎる光は、輪郭も、色も、すべてを飲み込んでいく。


 世界が、白に塗りつぶされる。


 何も見えない。


 何も分からない。


 ただ、光だけがそこにあった。




 光の正体は朝日だった。




 閉じていたまぶたの裏に、じんわりと赤い光がにじむ。


 意識がゆっくりと浮かび上がり、司は顔をしかめた。


 眩しさに耐えきれず、手のひらで光を遮る。


 指の隙間から差し込む光はまだ強く、目を開けるのに少し時間がかかった。


 ――ここは、どこだっけ。


 ぼんやりとした頭でそう考えながら、司はようやく目を開けた。


 視界に入ってきたのは、見覚えのある木の船縁と、揺れのない静かな水面だった。


 船はすでに目的地へ到着しているようで、出発時と同じように岸へ係留されていた。


 周囲では、他の異人たちが次々と船を降りている。


 地面に足をつけると、安堵したように大きく息を吐き、屈伸や伸びをして固まった体をほぐしていた。


 中には、まだ顔色の悪いまま、ふらついている者もいる。


 その様子をぼんやり眺めていた司の耳に、聞き慣れた声が落ちてきた。


「船酔いでよく眠れたな。えらいぞ」


 ノームが、いつもの穏やかな笑みを浮かべながら船を降りていく。


 その背中を目で追いながら、司は乾いた喉で小さく笑った。


「はは……」


 声は思ったよりもかすれていた。


 喉の奥がひりついて、少し気持ち悪い。


(ただ、気を失っていただけなんだけどね……)


 内心でそうつぶやきながら、司はゆっくりと体を起こした。


 頭がまだ少し重く、視界がわずかに揺れる。


 けれど、船が止まっているだけで、それだけでもずいぶん楽だった。


 船を降りて、周りを見渡す。


 足元の地面は乾いていて、踏みしめるたびにざり、と軽い音がした。


 風が頬をなでていく。


 けれど、その風に潮の匂いは混じっていなかった。


 まだ海には近づいていないようだ。


 見渡すかぎり、景色はひらけている。


 背の低い草がまばらに生えているだけで、足首よりも高いものはほとんどない。


 身を隠せそうな岩も、木も見当たらない。


 司は思ったよりも静かな場所に、逆に落ち着かなかった。


(なんか……見られてるみたいだ)


 胸の奥が、じわりとざわつく。


 隠れる場所がない。


 逃げ道も、なさそうだ。


 風の音だけがやけに耳につき、余計に不安を煽ってくる。


 寂しい風景に、不安がよぎる。


 けれど――


 すぐ横で、タカギが大きく伸びをした。


 骨が鳴るような音が、やけに現実的に響く。


 ノームは少し前を、変わらない足取りで歩いている。


 その背中は広くて、どこか安心できた。


 その二人が視界に入るだけで、司の中の不安の波は、ゆっくりと引いていった。


 ここには千人もの仲間がいる。


 馬車の中で、一緒に笑って、歌って、騒いだ仲間たちだ。


 昨日の歌が、ふと頭の中に浮かぶ。


 少し外れた音程と、やたら大きな声。


 それを思い出すと、胸の奥がじんわりと熱くなった。


 何も不安がる必要はない。


 ……そう言い聞かせる。


 遠くの方で、異人たちを集めるために呼びかけている男がいた。


 乾いた大地に、よく通る声が響いている。


 その声に引き寄せられるように、司の視線が自然とそちらへ向く。


 司はその声量に驚き、思わず背筋を伸ばした。


 距離があるはずなのに、すぐ近くで叫ばれているように聞こえる。


 声の主は、小柄な体の男だった。


 人の波の中にいても、不思議と目に入ってくる。


 頭頂部がやけに光って見えるのは、朝日をまともに反射しているせいかもしれない。


 彼は胸を張り、腹の底から声を張り上げていた。


 その声に押されるように、千人近い異人たちが、次々と列を整えていく。


 迷いのない動きだった。


 ここからでもはっきり分かるほど、その声はまっすぐで、力強かった。


「ふふっ、キムめ。張り切っているな」


 ノームが楽しげに独り言を言う。


 その声には、わずかに懐かしさが混じっていた。


 司はそれを聞いて、少しだけ意外に思う。


 ノームにも『昔』があって、そこで誰かと笑っていたんだ、と。


「知ってるの?」


 司が尋ねると、


「昔からの腐れ縁だ」


 ノームは目を細め、穏やかに答えた。


 その視線の先には、声を張り上げ続ける男――キムの姿がある。


 キムの背後には、大きな都市が見えていた。


 司は、思わず息をのむ。


 城壁が高い。


 高すぎる。


 見上げるほどの高さで、空を遮るようにそびえている。


 まるで巨大な柱の壁だ。


 圧迫感すら感じるほどの存在だった。


 あそこが、目的地だ。

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