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水野司の世界の声  作者: すずはるな
水野司と世界の声
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第34話 声を重ねて

 工場地帯にある馬車乗り場へ向かう道は、普段よりも静かであった。


 異人たちの足音が重なり、その響きはひどく重く感じられた。


 馬車乗り場に着くと、幌馬車が何台も並び、すでに多くの組が押し込まれている。


 馬が鼻を鳴らし、車輪が石畳を噛む。


 次の瞬間、列になった馬車が、ゆっくりと動き出す。


 隣の馬車がぴたりと並び、その向こうにも同じ列が続く。


 まるで、一つの大きな塊になって運ばれていくようだった。


 今日の工場地帯は、とても静かだ。


 いつもの喧騒は聞こえてこず、耳に入ってくるのは鳥のさえずりと、車輪の軋む音だけ。


 風が抜けるたび、油と金属の匂いが薄く漂う。


 加工場には炉が置かれており、昼間は室内の温度が四十度を軽く超える。


 全身から汗が吹き出し、服が肌に張り付き、とても暑苦しい。


 少し気を抜けば視界が白くなり、意識を失いかける――ここは、とても人が仕事をする場所ではない。


 そんな過酷な労働環境を、嫌だと思いながらも耐えてきた。


 それなのに、今日は炉の火が消えている。


 真っ黒な炉口は口を閉ざし、炭の匂いだけが残っていた。


「……静かだな」


 誰ともなく漏れた声は、蚊が鳴いたような小ささであった。


 静まり返った工場地帯には、人の気配がまったくない。


 まるでゴーストタウンのようだ。


 木箱も道具も置きっぱなしで、そこだけ時間が止まっているように見える。


 また別の異世界に迷い込んだような、そんな錯覚すら覚える者もいた。


 いつもの光景のはずなのに。


 あんなに大嫌いだった作業場が、今日はとても恋しく思えてしまう。


 馬車の車内では、そんな思いがヒソヒソと交わされる。


 工場地帯を抜けて、農業地帯へ入る。


 ここは普段から静かな場所だが、今日はなぜか騒がしく感じられた。


 牛の低い声、山羊、羊、豚――家畜の声が重なっている。


 水車小屋の近くを通ると、水の勢いで回る車輪が大きな音を立てている。


 ぎゅる、ぎゅる、と湿った木が擦れる音に、「こんなにうるさかったか」とそんな声も聞こえた。


 毎日聞いていたはずの音なのに、今日は別物のようだった。


 田に植えられた作物が、風になびいて静かに揺れる。


 空は遠く、澄み切っている。


 毎日、嫌というほど感じてきた匂い、音、風景のはずなのに、と気づくことが、いくつもあった。


 寂しさを抱え、目に小さな涙を浮かべる者もいる。


「どうして今日も仕事ができないのか……」


「どうして汗だくになって、みんなと協力して働けないのか……」


 あれほど嫌だった仕事が、今日は恋しくてたまらなかった。


 毎日が、同じ変わらない日々を繰り返せれば――


 そんな願いが、誰の胸にも浮かんでいた。


 車内の空気は、次第に重くなっていく。


 嗚咽を堪える者もいれば、遠くの景色に昨日までの日常を重ねる者もいる。


 神に祈る者、すべてを諦め自暴自棄になる者もいた。


 誰もが、もう戻れないかもしれない昨日までの日常に、想いを馳せていた。


 いつもの兵役であれば、ここまではなかった。


 だが、今回はいつもと違う。


 そんな空気で押しつぶされそうな時に、三人の呑気な声が聞こえてきた。


 異人たちは声の主に見当をつけた。


 こんな空気の中で、笑っているやつがいるとしたら。


 それは、あいつらしかいない。


 ここ一ヶ月の間にトラブルメーカーとして有名になった組だ。


 声のする方を見ると、やはり彼らだった。


 司、ノーム、タカギは呑気に馬車の一番後ろに座り、風景を楽しんでいた。


「ねえ、見てよあれ。豚がくっついて寝てるよ。気持ちよさそうだな」


 司が能天気そうに言った。


「一緒に寝てみたいな。お、見てみろ。羊のオス同士が喧嘩してるぜ。迫力あるな」


 タカギは指をさしながら、笑顔で言った。


「おいおい、二人ともはしゃぎ過ぎだ。しかし、風が心地よいな」


 ノームは低い声で返事した。


 せっかく自分の世界に引き籠もっていたのに、それを台無しにされた。


 怒りが込み上げてくるが、三人の会話に違和感を感じる。


 三人とも楽しそうに話をしているが、会話が噛み合っていないのだ。


 無理やり話題を作ろうとして、目に映る風景をただ口に出しているだけだった。


「ねえ、空に大きな鳥がいるよ? なんて種類かな?」


「さあな? でも焼き鳥にするか」


 タカギの冗談に、司が「ひどい!」と笑う。


 笑い声が、車輪の音に混ざって転がった。


 それまでの76組とは違う声が聞こえ始める。


 最初は、小さな相槌だった。


「ほんとだな」「見えた、見えた」


 それが、馬車の揺れに合わせて少しずつ増えていく。


 次第に人数が増え、気がつけばほとんどの者が声を出していた。


 一人で不安を抱えて思い出に避難するよりも、声を出して誰かと会話するほうが、気が楽なのだと――


 皆が、無意識に気づいていく。


 揺れる馬車の中で黙っていると、悪いことばかり考えてしまう。


 次第に声も大きくなり、笑い声すら聞こえ出す。


「見ろよ。あそこの肥溜めに落ちたことがあってよ。あれは臭かった」


「実は黙って作物を盗み食いしたことがある。まあ看守に見つかってこってり絞られたけどな」


 そんなやりとりが、あちこちで起きる。


 さっきまで絶望した顔をしていた彼らは、いつの間にか笑いあっていた。


 思い出を一人で繰り返すより、周りと共有することで不安がどこかに飛んでいくように思えた。


 思い出、風景、雑談、なんでもいい。


 今は声を出して誰かと一緒に共感したい。


 少しでも沈黙があると津波のように不安と恐怖が押し寄せてくる。


 思考の渦に囚われて心が壊れてしまいそうだ。


 だから話すのだ。


 隣に不安げな顔をしている者がいれば、肩を抱きしめ、一緒に語り合う者もいる。


 無理やりにでも会話に参加する者。


 次第に歌を歌う者もあらわれる。


 最初は小さな鼻歌だった。


 それが、だんだん形になって、リズムが生まれる。


 声は大きくなり、全員が合わせて歌い出す。


 知らない歌であっても歌詞が間違っていても構わない。


 この場にいる全員が団結して一体になり、共感し合うのだ。


 歌の波が馬車の中を満たして、外へ漏れていく。


 風に乗って、歌声は隣の馬車へ届いた。


 声は並走する他の馬車にも広がり、大合唱が始まった。


 馬車の列が、まるでひとつの大きな生き物みたいにうねって進む。


 馬車の手綱を握る御者は何も言わない。


 彼は看守である。


 普段なら怒鳴り声が飛んでくるはずだ。


 異人たちの勝手な行動など本来は許されない。


 しかし、彼は前を向いたまま、一緒に歌を歌っていた。


 楽しい気持ちでいっぱいになった頃には、異人たちを乗せた馬車の一団が目的地へ到着した。

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