第33話 司とアイス
三人は食堂に到着し、朝食を取るためにカウンターの列に並んでいた。
その頃には、周りの異人たちの空気に飲まれて、司の中にあった勇気はすっかり消えていた。
廊下では「行こう」と言えたのに、いまは足の震えが止まらない。
膝がかくかくと揺れて、立っているのもやっとだった。
並んでいる異人たちも、普段とはまるで違う。
誰も話さない。
目も合わせない。
ただ前だけを見て、無言で順番を待っている。
カチャ、カチャ――と、食器がぶつかる音だけがやけに大きく聞こえてくる。
そのたびに、司の心臓がびくっと跳ねた。
司の番になり、トレーにごはん、具なし味噌汁、野菜炒めが用意された。
湯気の立つ味噌汁を見た瞬間、胃の奥がぐっと持ち上がるような、不快な感覚がこみ上げてくる。
さっきまで空腹だったはずなのに、いまは食べ物を前にしているだけで気持ちが悪い。
(食べられるかな……)
そう思った瞬間、後ろにいたタカギが肩を小突いてきた。
振り向くと、いつものように満面の笑みでこちらを見ている。
こんな状況なのに、いつもと同じ顔だった。
司は反射的に前を向く。
(大丈夫……)
小さく息を吐いて、自分に言い聞かせる。
震える手でトレーを持ち直しながら、空いている席へと歩き出した。
席に着くと、対面には見覚えのある三人組がいた。
(あ……あの時の)
初めて食堂に来た日のことが、ふっと蘇った。
司の前には、遠くを見つめるような目に生気のない髭面の男が座っている。
無精ひげが頬いっぱいに広がり、顔つきはやつれているのに、どこか鋭さも残っていた。
首には赤い革製の首輪。
大きな黒い字で「300」と書かれていた。
髭面の男は、司を見ているようで、見ていない。
目は開いているのに、そこに意志は感じられない。
視線の焦点はどこか遠くにあって、そこにあるのが諦めなのか、疲れなのか――司にはわからなかった。
その左隣には、ノームにも劣らない体格の、スキンヘッドの大男が座っていた。
近くで見ると、その存在感はさらに圧倒的だった。
大きい。
とにかく大きい。
肩幅も腕も岩のようで、同じ椅子に座っているはずなのに、
椅子のほうが小さく見えてしまう。
少し腕を動かすだけで、服がきしむように見えるほどだった。
(……こんな人でも、怖いのかな)
そんなことを考えていると、不意にその大男と目が合ってしまい、
司は慌てて視線を逸らした。
視線がぶつかったほんの一瞬だけで、体がびくっと反応してしまう。
さらに左隣には、頭の上に小さなお団子を乗せた髪型をした、白髪で背の低い男性が座って食事をしていた。
背は低いが、動きに無駄がなく、静かに淡々と食事を口へ運んでいる。
他の二人とは違い、落ち着き払った空気をまとっていた。
初めて食堂に来たとき、対面に座っていた三人だ。
思い出した瞬間、司の胸に、ほんの小さな温かさが灯る。
さっきまでの重たい空気の中で、そこだけ少し違って見えた。
知っている顔がある。
それだけなのに、不思議と肩の力が抜ける。
少し……嬉しい。
「嬉しい」なんて言葉が浮かぶことが、自分でも意外だった。
こんな状況なのに。
怖いはずなのに。
それでも――
ほんの少しだけ、安心している自分がいる。
どうして嬉しいのかは、わからない。
それでも司は、口元をほんの少しだけ、緩めていた。
食事を噛みしめている最中、看守が箱を抱えて歩いているのが目に入った。
無言のまま、列の横をゆっくり進んでいく。
箱の中から何かを取り出し、食事中の異人たちに、順番に手渡していく。
(……え? なにかを配ってる?)
こんなことは初めてだった。
司は箸を止めて、看守の動きを目で追う。
異人たちも同じだった。
何かを受け取った異人たちは、顔を見合わせることもなく、
ただ困惑した表情のまま手元を見つめている。
看守が司たちの机に近づくと、机に座る六人全員に手渡しで渡してきた。
司も受け取ると、それは棒付きの真っ白なアイスだった。
(……アイス?)
一瞬、司の頭が追いつかない。
今まで食後のデザートなど出たこともない。
甘いものなんて、ここに来てから一度も口にしていない。
タカギも受け取ったそれを見て、眉を上げた。
「おいおい、最後の晩餐みたいなノリやめろよ?」
冗談っぽく言うのに、目だけ笑っていない。
ノームは何も言わない。
ただ、アイスを見て、静かに息を吐いた。
このアイスは王国中で、特に若者から絶賛されている、行列が絶えない人気店のものだ。
牧場で飼われている牛の乳から作られた、ミルク味のアイス。
濃厚で、甘くて、普通なら簡単には手に入らない。
ましてや――
普通であれば、異人が口にすることはできない。
異人が食べられないもの。
つまりこれは――『特別』だ。
司が一口食べると、見た目とは違いとても柔らかく、口の中でふわっと溶けていく。
ひんやりとした冷たさが舌に広がって、すぐに甘さが追いかけてきた。
口全体に濃厚なミルクの味が広がり、思わず唾があふれる。
「うまい!!」
大声で叫んだ司の声に、前に座る男が驚いて大きく目を開いて司を凝視した。
(あ、しまった)と一瞬だけ思う。
でも次の瞬間、もう口が次を求めている。
ひと口、またひと口と、止まらない。
恥ずかしさも、恐怖も、甘さに塗りつぶされていく。
冷たさが喉を通るたびに、頭の奥がじんわりとしびれる。
この味を五感全てで味わいたい。
一か月ぶりの甘味に、脳が「もっと食べさせろ」と騒いでくる。
あっという間に全てを食べてしまった司は、名残惜しそうに、アイスに刺さっていた木の棒をなめ回す。
味がなくなり、棒を奥歯で噛んでいると、司の前に座る組の組長が、アイスを差し出してきた。
「甘いの苦手だから、食べていいよ」
ぶっきらぼうで、そっけない言い方だった。
けれど、その手はしっかりと司のほうへ向けられている。
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
(……え? くれるの?)
司は目をぱちぱちさせる。
次の瞬間、その意味を理解して――
胸の奥が、じわっと熱くなった。
ぶっきらぼうで話す男の姿が、司には神様のように思え、後光すら見えていた。
司は涙が出そうになるのを、必死にこらえる。
「いいの? ありがとう」
満面の笑みで感謝を告げた司は、すぐに受け取ったアイスを食べ始める。
男の隣に座るスキンヘッドの大男が、にんまりと口元を緩めて、想像よりも優しい声で、
「なかさん、優しい」
と自分の組長を茶化すように言った。
その声には、どこか誇らしさが混じっていた。
すると、なかさんと呼ばれた300組の組長が、大男の脇に肘鉄を食らわせる。
「うるせぇ」
短い一言。
でも、その声はさっきより少しだけ柔らかく、どこか照れくさそうだった。
男の対角に座るノームが『すまん』と片手でジェスチャーをして、感謝を告げた。
タカギが、司の手元の棒アイスをじっと見た。
その視線がやけに真剣で、司は思わずアイスを少し引き寄せる。
「なぁ司。それ……少しくんね? ひと口でいいから」
まるで宝物を狙うみたいな顔で言ってくる。
「だめ」
即答だった。
食い気味に返したその声に、タカギが一瞬止まる。
「え、即答!?」
「だって……これ、僕がもらったんだもん」
司はアイスを両手で持ち直し、守るように胸の前に引き寄せた。
「いいじゃないか、ケチ!」
タカギが身を乗り出す。
司は一歩引いて、真顔のまま言う。
「ダメ!」
その必死さに、タカギは一瞬固まって――
次の瞬間、ぶっと吹き出した。
「お前、そういうとこマジでケチだわ!」
「ケチじゃない!」
司は本気で言い返す。
その顔があまりにも真剣で、タカギは余計に笑ってしまう。
そのやり取りを見ていたノーム、そして300組の三人も、つられるように笑っていた。
さっきまでの重たい空気が、少しだけやわらぐ。
司は、さっきまで怖そうだと思っていた300組の三人が、
自分たちと同じ人間なんだと感じて、胸が軽くなる。
普段なら、こんなふうに騒げばすぐに看守が飛んでくる。
けれど今日は、遠くからこちらを見ているだけだった。
食事を終えると、三人はそのまま立ち上がった。
これから戦場へ行く。
さっきまで笑っていたはずなのに、その事実を思い出した瞬間、胸の奥がきゅっと締まる。
それでも――
先ほどの笑い声が、司にほんの小さな勇気を与えてくれた。
「笑顔がいちばん、か……」
タカギのいつもの口癖を小さく司はつぶやくと、
その小さな勇気が、少しだけ大きくなった気がした。
「お?どうした司? なんだか嬉しそうだな?」
タカギが司の顔を覗き込みながら、いつもの調子で陽気に言った。
「やっぱりタカギは適当だなって思ってさ」
司はわざとらしく、少しだけ嫌味っぽく答えた。
「なんだそりゃ! こりゃ一度先輩の威厳を教え込まないとな」
タカギがニヤッと笑って司に手を伸ばす。
「やなこった」
司は軽く笑いながら、その手をするりと避けて走り出した。
「あ、おい。待て」
タカギが慌てて追いかける。
そのやり取りは、いつもと変わらない。
けれど――
その先に待っているものは、いつもとは違う。
それでも三人は、並んで前へ進んでいく。
それを見ていたノームは、静かに、そしてどこか嬉しそうに笑っていた。




