第31話 それでも、前へ
ノームは小さく息を吐き、話し出した。
「そうか……やはりそうだと思った。だから司には今まで話すことができなかった」
「え?」
司は眉をひそめる。
どういうことか、すぐには理解できない。
「司を見ていればわかる。そうとう恵まれた環境で育ってきたんだろう?」
ノームが言った。
「多くの世界は、戦争、飢饉、疫病と隣り合わせで生きている。生きるだけで精一杯の場所も珍しくない」
一度、言葉を区切った。
「例えば、朝起きても食べるものがあるとは限らない。次の日、生きている保証もない。家族と別れることが当たり前のように起きる世界もある」
淡々とした口調だったが、その一つ一つが重く響いた。
「だが司のいた世界は違う。少なくとも、お前はそういう環境とは無縁だったはずだ」
静かで、否定を許さない声だった。
「毎日、当たり前に食事があって、家に帰る場所があって、誰かに守られて生きてきた……そういう世界だ」
「だから――この現実を突きつけるのは、早すぎると思ったのだ」
(……そんなの、知らなかった)
司は俯き、自分の指先を見つめたまま動けなくなっていた。
自分がいた世界が『当たり前』だと思っていた。
朝になれば学校に行く。
帰ればご飯がある。
何も考えずに眠れる。
そんな毎日が続くものだと、疑ったことすらなかった。
それが、特別だったなんて考えたこともない。
「補給とか……そういうのだよね?」
司が、恐る恐る問いかける。
せめて、そうであってほしい。
前に出て戦うんじゃなくて、荷物を運ぶ。
食事を作る。
けが人の世話をする。
そういう役目なら、まだなんとかなるかもしれない。
剣を持って敵と戦うなんて、自分にできるわけがない。
自分でも、都合のいい考えだとわかっている。
それでも――そこにしがみつくしかなかった。
しかし、その小さな期待を、ノームは静かに打ち消す。
「前線だ。詳しいことはわからないが、私たちは戦うことになる」
その言葉は、あまりにもあっさりしていた。
それゆえに、重くのしかかった。
前線。
その短い言葉の意味が、じわじわと頭の中に広がっていく。
敵がいて、自分たちがいて、どちらかが死ぬ。
司の中で、何かが音を立てて崩れる。
沈黙が続く。
誰も、言葉を発しない。
司は唇を噛みしめ、視線を床に落とした。
頭の中が真っ白なのに、心臓の音だけがやけに大きく聞こえる。
息もうまく吸えない。
何か言わなければならない気がするのに、喉の奥が詰まったようで、声が出ない。
そのとき、ドアの鍵が開く音が響いた。
ガチャリ、と乾いた音。
静まり返った部屋の中で、その音だけがやけに大きく聞こえた。
びくり、と司の肩が小さく揺れる。
続いて、廊下から複数人の足音が近づいてくる。
長い沈黙のあと、ノームが低い声で言う。
「……行こうか」
促されても、司は返事をしなかった。
ただ、俯いたまま動かない。
頭の中がぐちゃぐちゃだった。
さっき聞いた言葉が、何度も繰り返される。
何を考えればいいのかすら、わからない。
怖い、嫌だ、行きたくない。
その言葉だけが、ぐるぐると頭の中を回り続けていた。
でも――それでも、何かを言わなければいけない気がした。
「……このまま、出ていかなければどうなるの?」
小さな声だった。
自分でも驚くほど、弱々しい。
ノームは一瞬だけ目を伏せ、それから、はっきりと答えた。
「敵前逃亡、命令無視……都合のいい罪状をいくつも並べられ、私たち76組は、全員処刑される」
淡々とした言い方だった。
だからこそ、その内容は重くのしかかる。
処刑。
その言葉の意味が、遅れて頭の中に落ちてくる。
逃げたら終わり。
司の背筋が、凍り付いた。
監督官の命令は絶対。
以前、ノームが教えてくれた言葉が、頭の中で蘇る。
それが今、ただのルールじゃなく――現実として突きつけられていた。
逃げることはできない。
選ぶこともできない。
進むか、死ぬか。
それだけだ。
ノームの言葉を聞いても、司の胸にはまだ勇気が湧いてこない。
いきなり「戦争に行け」と言われて、「はい、わかりました」などと言えるはずがない。
頭では理解している。
でも、体がついてこない。
立ち上がろうと足に力を入れようとしても、膝が、わずかに震えてうまく立ち上がれない。
行きたくない。死にたくない。
その気持ちが、何度も胸の中で反響する。
そんな司の様子を見て、今まで黙っていたタカギが、ようやく口を開いた。
「司。こっち見ろ」
いつもの軽口じゃない。
低く落ち着いた声だった。
司は、ゆっくりと顔を上げる。
タカギの目は、まっすぐだった。
「俺らは何回も前線に出てる。……で、こうやって帰ってきてる」
短い言葉だったが、その中に重みがあった。
「他の連中もだ。なんだかんだ帰ってきてる。守ってみせる。俺とノームで、お前を守る」
タカギが司の肩に手を置く。
その手は、強くて、温かかった。
ぐらついていた体が、少しだけ支えられる。
「誰にも触らせねぇ。指一本な」
「司……俺たちを信じてくれ。大丈夫だ。今までだって、三人で越えてきた」
タカギが続ける。
「戦場も同じだ。ひとりで行くんじゃねぇ。俺やノームがついてる」
「それに……同じ境遇のやつが、山ほどいる。お前だけじゃねぇ」
一拍。タカギは司の目を真正面から捉える。
「だからさ。――信じろ。俺らを。仲間を。……な?」
その声は、さっきまでよりも少しだけ柔らかかった。
その声を聞いていると、司の胸に詰まっていた固い塊が、少しずつほどけていった。
うまく吸えなかった空気が、ちゃんと肺に入ってくる気がした。
「……この世界に来て、一人きりで、ほんと怖かった」
ぽろっと、素直に言葉が落ちた。
言葉にした途端、胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ外に出た気がした。
「でも……二人に会えてよかった」
司は小さく笑って、でも目は潤んでいる。
泣きそうなのに、少しだけ安心しているような、そんな表情だった。
「ノームの優しさと、タカギの……えっと、適当さ? ……のおかげで、ここまで来れた」
自分でも変な言い方だと思ったのか、少しだけ苦笑する。
「ありがとう。僕、二人を信じる。……頑張る」
そう言って、司はゆっくり立ち上がった。
足はまだ少し震えている。
力を入れるたびに、不安がぶり返しそうになる。
それでも、さっきよりはしっかりと地面を踏めていた。
逃げたい気持ちは、消えていない。
それでも――前を向こうとしている。
――必ず、みんなで帰ろう。
「……でさぁ」
空気を切り替えるみたいに、タカギがわざとらしく明るく言う。
さっきまでの真剣な顔が嘘みたいに、口元にいつもの調子が戻っていた。
「ノームが『優しい』のは分かる。分かるよ? でもなんで俺が『適当』なんだよ。そこは『頼れる兄貴』だろ?」
「え、でもいつも適当なことばっかり……」
司が正直に言うと、タカギはすぐに顔をしかめた。
「うるせぇ!」
タカギは司の肩を引き寄せて、拳で軽くぐりぐりする。
「痛っ、ちょ、やめてって!」
「誰が適当だ、誰が!」
「ほんとに痛いって!」
さっきまで震えていたはずなのに、そんなふうに言い返せるくらいには、司の声にいつもの調子が戻っていた。
そのやり取りを見て、ノームは小さく微笑んだ。
重たく沈んでいた空気が、ほんの少しだけ和らいでいた。




