第30話 日常の終わり
左頬に、じんわりとした鈍い痛みを感じて、司はゆっくり目を覚ました。
ゆっくりと体を起こし、大きくあくびをしながら両腕を伸ばす。
固まっていた体が、ぎし、と小さく音を立てた気がした。
まだ寝ぼけたまま、視界がはっきりしてくる。
すると、目の前に人影があることに気づく。
焦点が合った瞬間――
ノームが、すぐ目の前に座っていた。
「うわぁ! ノームどうしたの?」
思わず声が裏返る。
心臓がどくんと跳ねた。
近すぎる距離に、司は思わず体を引いた。
「司。やっと起きたか」
ノームが静かに言う。
――その声に、違和感があった。
いつもよりも、少しだけ弱い。
落ち着いているのに、どこか力が抜けているような声だった。
何事かと思い、司は慌てて正座した。
だが、ノームは笑わない。
じっと司を見つめたまま、動かなかった。
ノームは一度だけ深く息を吸い込み、わずかに声を震わせて続けた。
「司、今日は仕事には行かない。……いや、しばらくは働かなくてよくなった」
「え?」
一瞬、言葉の意味が頭に入ってこなかった。
『仕事に行かない』――それがどういうことなのか、すぐには結びつかない。
(働かなくていいの?)
思わずそんな考えが浮かび、司は内心で喜びかける。
朝から重い作業をしなくていい。怒鳴られることもない。
そんな都合のいい想像が、ふっと頭をよぎった。
だが、すぐにその考えは消えた。
目の前のノームの様子が、あまりにもおかしかったからだ。
いつものノームとは明らかに違っていた。
何かを言おうとしては口を閉じ、また開きかけてやめる。
言葉を選んでいるようで、それでも決めきれない様子だった。
その姿を見て、司の中に小さな不安が芽生え始めた。
タカギに目を向けると、彼は珍しく険しい顔をして、腕を組んだまま壁にもたれている。
普段なら軽口のひとつでも飛ばしてきそうなのに、今日は一言も話さない。
視線だけが、じっと司を見ていた。
(……なんだろう。変だ)
部屋の空気が、妙に重い。
さっきまでの眠気が、一気に引いていくのがわかった。
長い沈黙が続く。
誰も何も言わないせいで、衣擦れの音や呼吸の音だけがやけに大きく聞こえた。
やがてノームが、覚悟を決めたように顔を上げる。
その表情は、さっきまでよりもずっと固く、迷いが消えていた。
「……今から、戦場へ向かう」
一瞬、司はその言葉を理解できなかった。
聞き慣れない単語が、そのまま頭の中を通り過ぎていく。
「……せん、じょう?」
首を傾げて、司は頭をフル回転させて考える。
聞き覚えのある音なのに、意味がうまくつながらない。
そして――ぱん、と両手を叩いた。
「あっ、洗浄!」
思いついた答えに、自分で納得する。
さっきまでの重たい空気も忘れて、ぱっと顔が明るくなる。
「前に言ってたでしょ? 月ごとに仕事が変わるって。今日から洗濯場! ……ってことだよね?」
そう言いながら、自分の服をつまんで見下ろす。
汚れた袖を軽く引っ張り、少しだけ苦笑する。
「まあ……大変そうだけど、仕方ないよね。大丈夫、僕がんばる。ね、またやり方教えてよ」
無理やりでも、前向きに考えようとする。
それでも、そう思い込もうとしていた。
笑顔で話す司の顔を見て、ノームは言葉を失う。
「……違う」
絞るような声で、ノームが言う。
「司。洗浄じゃない。『戦争』だ」
司がぴたりと止まる。
今まで動いていた時間が、一瞬で止まったみたいに。
「……え?」
「これから、戦地へ行く。命を賭けて――殺し合う場所だ」
一拍。ノームは司の目をまっすぐ見た。
逃げ場を与えないように、はっきりと。
「戦争……わかるか?」
司の顔から、みるみる血の気が引いていく。
さっきまで浮かべていた笑顔が、形を失って崩れ落ちる。
「……せん、そう……?」
言葉をなぞるように、かすれた声が出る。
意味は知っているはずなのに、現実として受け止めきれない。
喉が急激に乾いていくようだった。
「え、待って。戦争って……人、殺すの……?」
声が裏返りそうになる。
「や、だって……そんなの……」
司は助けを求めるように視線を投げた。
「タカギ……冗談だって言ってよ」
――タカギは動かない。
ただ、真剣な目で司を見返す。
いつもの軽さは、どこにもなかった。
「……っ」
頭の中がぐるぐると回転するような錯覚を覚えた。
考えようとしても、何もまとまらない。
「……すまない」
混乱する司に、ノームは小さく頭を下げた。
「司には、異人として生きるためのルールだけは伝えていた。だが、この世界が置かれている情勢までは、まだ話していなかった」
ノームは静かに、語り始める。
「我々異人は、王国の奴隷として働いている。ここまではいいな?」
司は口を開けたまま、小さく頷いた。
「その王国に、先日――敵が攻め込んできた。」
ノームは一度、言葉を切る。
「なんとか敵は退けた。今度はこちらから打って出るらしい」
低く、しかしはっきりと続ける。
「だから、人手を補う必要がある。……そこで、我々だ。異人街にいる者すべてが、戦力として駆り出されることになった」
司は、その言葉の意味をすぐには飲み込めなかった。
「援軍、という名目だが……」
ノームの声が、わずかに重くなる。
ノームは必要最低限の説明だけを行い、余計なことは省いていた。
それが司を不安にさせないためだと気づき、苦笑した。
――昨日のキムと、同じだということを。
「司、戦争に参加したことはあるか?」
放心状態の司に、ノームがゆっくりと質問した。
司はすぐには答えられなかった。
頭の中で、さっき聞いた言葉がぐるぐると回り続けている。
戦場。戦争。殺し合い。
どれも、現実のこととは思えなかった。
やっとのことで、司が小さく口を開く。
「戦争に行ったことない……。ずいぶん昔に戦争はあったらしいけど」
それは、教科書の中の話だ。
白黒の写真や、年号と一緒に覚えた出来事。
遠い国の、遠い時代の出来事で――
自分がそこに立つなんて、考えたこともなかった。
司の体は、わずかに震えていた。
戦争とは司にとって、歴史の授業で習う、自分とは関係のない遠い存在だったはずなのに。
今はそれが、すぐ目の前にある。




