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水野司の世界の声  作者: すずはるな
水野司と世界の声
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28/71

第28話 偽りの希望

 その時――

 ノームが、ゆっくりと手を上げた。


 その動きは静かだったが、それだけで場の空気が一変した。


 ぴん、と糸が張るように、食堂の空気が凍りついた。


 キムは露骨に不快そうな顔をし、ノームを指差す。


「……まだ話の途中だぞ」


 キムが怒りを露わにした口調で言った。


「七十六組の組長だ」


 ノームの声は低く、抑えられていた。


 だが、その場の誰よりもはっきりと響いた。


「幸運と言われたが……我々を、『死に隊』として送り出すつもりはないのでしょうな?」


 食堂のあちこちでざわつきが広がる。


「噂では、すでに万単位の異人が戦で倒れたと聞く。これは、真実ですかな?」


 一拍置き、さらに踏み込む。


「もしそれが事実なら――敵が本腰を入れてきたからこそ、今回の増員なのでは?」


 静かな問いかけだったが、その一言一言が、場の核心を突いていた。


 それ以上続けさせまいとして、キムが声を荒げた。


「貴様ッ、その口を慎め! 勝手な憶測で場を乱すな!」


 その怒声は強かったが、どこか焦りが混じっているようにも聞こえた。


「憶測、ですか」


 ノームは一歩も引かずに、静かに言葉を返す。


「であれば、お答え願いたい。『多少の犠牲』とは、具体的に何人ですかな?」


 二人の視線が、正面からぶつかり合う。


 逃げ場のない沈黙が、場を支配する。


 空気が軋み、今にも弾けそうになった、その瞬間――


「やめい。二人とも。ここは、おまえたちだけの部屋ではないぞ」


 爆音のような一喝が、場を支配した。


 その声の主は、総白髪のオールバックの初老の男だった。


 年齢は八十歳に近いはずだが、背筋はまっすぐに伸びている。


 その立ち姿からは老人らしさは微塵も感じられない。


 細められた眼光は鋭く、長い年月を生き抜いてきた者だけが持つ重みを宿していた。


「も、申し訳ありません、リュウさん。ですがね、ノームのやつが、あまりにしつこく食い下がるもので」


 キムが慌てたように謝罪する。


 肩をすくめ、額の汗を手の甲で乱暴に拭いながら、早口で言い訳を続けた。


 先ほどまでの威圧的な態度は、どこにもない。


「言い訳はよい」


 リュウは短く言い放つ。


 それだけで、キムの言葉はぴたりと止まった。


「おまえたちは昔から、顔を合わせれば喧嘩しおって」


 ふう、とわずかに息を吐き、眉間のしわを指で押さえる。


 呆れたような口調だが、その声にはわずかな苛立ちが混じっていた。


「しかし、今はそういう時ではないと、わかるはずだろう、ノームよ」


 自分の名を呼ばれた瞬間、ノームはビクリと肩を揺らした。


 リュウの視線が、まっすぐに突き刺さる。


 まるで胸ぐらを掴まれ、引き寄せられているかのような圧。


「……申し訳ない」


 ノームは素直に頭を下げる。


「ですが、別に看守長殿を困らせるために言ったわけではありません」


 顔を上げたノームの目は、さっきとは違い、静かに燃えていた。


「これは、この場にいる皆が疑問に思っていることです。我々は、『死に隊』にはなりたくない」


 『死に隊』という言葉が、重く部屋に落ちる。


 数人の喉が、ごくりと鳴った。


「だからこそ、納得したいのです。『これから死ににいく』と、部屋に帰って仲間に告げるわけにはいかない」


 その言葉に、黙って座っていた他の組長たちも、堰を切ったように反応した。


 顔を見合わせ、小さくうなずき合う。


 やがて、一人、また一人と首を縦に振る者が増えていく。


 声には出さない。


 だが、その視線ははっきりと語っていた。


 ――自分も同じ気持ちだ、と。


 リュウはしばらく目を閉じ、顎に手を当てて考え込む。


 ざわめきも消え、その場の全員が、ただ黙って次の言葉を待っていた。


 皺だらけの手の甲が、積み重ねてきた年月を物語っている。


「……よかろう」


 やがて、静かに口を開く。


 その一言だけで、場の空気が引き締まった。


「我々が知りうる限りの情報を、包み隠さず伝えよう」


 その言葉に、誰もがわずかに身を乗り出す。


 聞き逃すまいとする意識が、一斉に前へ向いた。


「おそらくおまえたちが知りたいのは――」


 リュウは周囲をゆっくり見渡す。


「なぜこのような招集がなされたのか。作戦の内容は何か。前線なのか、それとも後方なのか」


 一つずつ、区切るように言葉を並べていく。


「敵の数はどれほどか。兵役の期間はどのくらいか」


 さらに続ける。


「そして――先の戦いの話は、本当なのか」


 最後の言葉を、わずかに重く落とした。


 どれも、この場にいる全員が抱いている疑問だった。


 リュウは一つ一つ数えるように、淡々と読み上げる。


 その口調は落ち着いているが、聞く者の思考を整理していくような力があった。


 組長たちは、思わず顔を見合わせる。


 そして次の瞬間、無言で首を縦に振っていた。


 ――その通りだ。


 誰も口には出さない。


 だが、全員の考えは一致していた。


「ふむ、なるほど。なら答えは簡単だ……それは、『わからない』だ」


 リュウは、はっきりと言い切った。


 一瞬、場の空気が止まる。


 組長たちは、理解が追いつかないといった顔で固まった。


 だがリュウは、その反応など気にも留めず、淡々と続ける。


「我々が監督官から聞いている内容は、たったの三つだけだ」


 そう言って、ゆっくりと三本の指を立てた。


「一つ。前線基地で戦闘があり、多くの被害が出た。その補充として、今回は異人街総出で動くことになった」


 一本、指を折る。


「二つ。敵は一度は退けたが、また攻めてくる可能性が高い」


 さらに一本、折る。


「三つ。全軍で反撃に出る。それだけだ」


 最後の指が折られる。


 組長たちは顔を見合わせる。


 誰一人、頷こうとはしなかった。


 すべての指を折り終えたリュウは、さらに続ける。


「さらに言えば、今回の招集はここだけではない。他の異人街も同様に、総出で動く」


 その言葉に、思わず声が漏れる。


 だがリュウは構わず話を進めた。


「知っての通り、異人街はここ以外にも何百とある。兵役で他と合流することはあっても――総出は初めてだ」


 一呼吸置く。


「つまり、それだけの被害が出ているということだ。万単位という噂も、あながち外れではないだろう」


 その一言で、場の空気がさらに重く沈む。


「私がこの世界に来て、七十年以上になる」


 静かな口調だが、その言葉には確かな重みがあった。


「何度も同胞を戦地へ見送ってきたが、このような総力戦は、今日まで一度もない。諸君らの不安も、よくわかる」


 リュウは一人ひとりの顔を見ていく。


 視線を受けた者は、思わず背筋を伸ばした。


「しかしだ」


 その声が、少しだけ強くなる。


「今ここで我々に問いただしたところで、同じ異人同士だ。これ以上の情報は持っておらん」


「であれば――」


 リュウは腕を組み、ゆっくりと場を見渡す。


「不安に飲まれるよりも、キムの言う通り、前向きに捉えるべきではないか」


 誰も答えない。


 だが、否定もできない。


「これは反攻の第一歩だ。奪われた土地を取り戻す戦い――そう考えるしかあるまい」


 静かに、言葉を置く。


「同じ戦場に向かうのであれば、絶望よりも、わずかでも希望を持って進むべきだ」


 その言葉は強くはない。だが、確かに胸の奥に残った。


 場にいた者たちは、ゆっくりとうなずく。


 不安が消えたわけではない。


 ただ、それでも――そう考えるしかなかった。


 リュウの話を聞き、ノームはタカギの口癖である「笑顔が一番」を思い出し、


「……確かにな」


 と、小さく呟いた。


 無理にでも、笑っていなければ心が折れる。


 それほどまでに、状況は厳しい。


「どうかね、ノームよ。どうかね、各組長諸君」


 リュウが改めて問いかける。


 少しの間を置いて――


「……了解いたしました、看守長。納得いたしました」


 ノームは代表するように答えた。


 もちろん、本当の意味で納得などしていない。


 結局、何も解決していないのだから。


 何もわからないまま、不安だけを抱えて戦地へ向かうよりはマシだ――その程度の「納得」だ。


 決して安心したわけではない。


 ただ、何も知らされないまま送り出されるよりは、まだいいというだけだ。

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