第26話 不穏な予感
青く澄んだ空の下、看守の鋭い笛が鳴り響く。
合図と同時に、畑に並ぶ異人たちが一斉に鍬を振り下ろした。
乾いた土が跳ね、陽光を受けて細かく砕け、舞い上がる。
その列の中に、76組のメンバーもいる。
司がこの世界に迷い込んで、まもなく一か月が経つ。
半月前までは、鍬を握る手が震え、
数分動くだけで肺が焼けるように苦しくなっていた。
だが、今は違う。
老人看守の『地獄特訓』が、司の身体を強く鍛えていた。
振り下ろす腕に、無駄な力みはない。
踏みしめた足はぶれず、一振りごとに、土が正確に割れていく。
昼休憩に入り、三人はいつものように輪になり、地面に座り込んで食事をしていた。
さっきまで鍬を振るっていた畑には、まだ乾いた土の匂いが残っている。
汗ばんだ体に、昼の風が少しだけ心地よかった。
「さすがに一か月も鍛えていると、見違えるようだな」
ノームが穏やかに声をかける。
司は少し気恥ずかしそうに笑い、
右手に持っていたおにぎりを一口かじってから答えた。
「うん……正直、最初はダメかと思ったけどさ。でも、体が慣れてきたよ。奥村さんには感謝しないと」
「奥村って、あの老人看守だろ? よく名前を教えてくれたな」
司の隣に座っていたタカギが、竹筒の水を飲みながら聞いた。
「本当は『師匠』って呼びたかったんだけど、ダメだって言われて……だったらせめて名前だけでも、って頼んだら教えてくれたんだ」
司はそう言って、少しうれしそうに空を見上げた。
「そりゃあ、師匠呼びは避けたいだろうな。周りの目もある。仮にも『看守長』が一人の異人を特別扱いしていると思われるのは、よくないからな」
ノームが顎髭をなぞりながら言う。
「そうなの? ていうか、看守長ってなに?」
司が不思議そうな顔でノームにたずねた。
「なんだ、看守長の説明はまだしていなかったか?」
ノームが首をかしげながら質問すると、司が小さく頷く。
「そうか……看守長とは、看守たちのまとめ役で、この『異人街』全体の管理を任されている。誰でもなれるわけじゃない。この街には今、二人しかいないからな」
「けどよ、最近もう一人増えたんだろ?」
タカギが、おにぎりを頬張りながら口を挟んだ。
「その通りだ。よく知っているな。情報源はどこからだ?」
ノームが不思議そうに顔を向けると、
タカギはウィンクしながら口元に指を当て、お茶目にごまかそうとした。
ノームは「なんだこいつ」という顔をしたが、あえて無視することにした。
一度咳払いをしてから、話を続ける。
「まあ、要するにだ。看守長とは、異人の頂点に立つ者だ。あの監督官にすら意見を言える、特別な存在なんだ」
司は『監督官』という言葉を聞いた瞬間、少しだけ体がこわばるのを感じた。
「監督官に意見できるの?」
司が目と口を大きく開いて、驚いた声を上げる。
「ああ、そうだ。看守なら誰でもなれるわけじゃないぞ。看守全員の同意と、監督官の許可があって、初めてなれるんだ」
ノームは、司の反応を見て少しうれしそうで、
どこか誇らしげにも見えた。
「へぇ、あのじいさんがね……たしかに、ただもんじゃねえとは思ってたけどよ」
タカギはおにぎりを食べ終えると、そのまま地面に仰向けになり、両腕を枕にして言った。
「うん、初めはあの人が怖くて、ずっと怯えてたけど……でも、だんだん優しいところもあるんだって気づいたんだ」
司が手の中のおにぎりを見つめながら言う。
「ほう? どういうところだ?」
ノームが興味を持ったように身を少し乗り出した。
「うーん……厳しいんだけど、なんて言えばいいのかな。たまに、すごく優しい目をしてたんだ。それに気づいてから、奥村さんのこと、少しずつ好きになっていったんだ」
「わかるようで、わからん話だな」
タカギが頭をぽりぽりとかきながら言った。
「うん、そうだね。うまく説明できないや。ごめんね」
司が申し訳なさそうに、少しだけ頭を下げる。
「なにも謝る必要はないぞ。人との関わりっていうのは、他人にうまく説明できるものばかりじゃないからな」
ノームがうんうんと頷きながら言った。
「でた、ノームのうんちく話」
タカギがいつもの調子で茶化すと、ノームが横目で睨む。
だが、その目は少しだけ笑っていた。
「あ、今のノームの目みたいな感じだよ。優しい目をしてる」
司がそう言うと、ノームは少し驚いたように目を瞬かせた。
タカギも面白そうにノームの顔を覗き込む。
「なるほど。たしかに、可愛い目をしてるな」
タカギがにやりと笑いながら言うと、
ノームは少し顔を赤らめ、ふいっと視線をそらした。
今日の仕事が終わり、
三人は洗濯場と食堂を後にして、異人棟の自室へ戻った。
部屋に戻ると、いつものように布団を整え、
明日の作業の話をしたり、さっき食べた晩飯の話をしたりしていた。
味が薄かっただの、いやあれはあれで悪くなかっただのと、
他愛もないことを言い合う。
そんな、いつも通りの時間だった。
そのとき――
突然、箪笥の上に置かれていた水晶玉が、ぼうっと黄色く光り出した。
「組長に連絡をする。これより組長会議を行うため、至急食堂へ集まるように」
看守の声が、部屋中に響く。
突然の呼び出しに、三人は思わず顔を見合わせた。
「なんだ? こんな時間に呼び出しだなんて。急すぎるだろ」
タカギは軽く言ったが、その声には隠しきれない焦りが混じっていた。
ノームも短くうなずく。
「ああ……何か、あったのかもしれないな。ドアの鍵が開いたら、すぐに行かないと」
ノームの声は落ち着いていたが、その目つきはわずかに険しい。
司は二人の顔を交互に見た。
部屋の空気が急に重くなった気がして、なんとなく落ち着かない。
司はあえていつもの調子で口を開いた。
「組長会議って何?」
今の放送についての疑問を、そのまま二人にぶつける。
「そうか。司は初めてだったな。組長会議っていうのは、食堂に集まって、看守から命令を受け取る場のことだ」
ノームが、いつもの優しい口調でゆっくり説明する。
「組長会議と呼ばれてはいるが、我々組長に発言権はほとんどない」
「監督官から下りてきた命令を看守が我々に伝え、それを組長が各組員に伝える。そういう流れだ」
腕を組みながら、ノームは続けた。
「普段なら月の終わりに、来月の労働業務の割り振りを伝えるために開かれる。だが、こんなふうに急に呼ばれることは、普通はない」
その言葉に、タカギも腕を組んだまま落ち着きなく体を揺らす。
「……なんかさ、嫌な予感しかしねえな。こんなの初めてだぜ」
三人がそれぞれ不安そうに顔を見合わせていると、
扉の向こうからガチャリと鍵の開く音がした。
続いて、看守がドアを開け、
無表情のまま顔だけを覗かせる。
「76組、組長。食堂へ」
短くそれだけ告げると、看守はすぐに廊下へ戻っていった。
ノームは何も言わずに立ち上がり、そのままドアへ向かった。
その背中はいつも通り大きくて頼もしい。
だが、どこかいつもより硬く見えた。
「ノーム……」
思わず司が呼びかけると、ノームは振り返らないまま、低い声で言った。
「すぐ戻る。鍵が閉まったら、あとは静かにしていなさい」
それだけ告げて、ノームは静かに扉を閉めた。
残された司は、布団の端をぎゅっと握りしめる。
胸の奥がざわついていたが、今はただ、小さく息を呑むことしかできなかった。




