第2話 理不尽な暴力
司が家の玄関を開けて、中に入ると――
ふわっと、あたたかい匂いが鼻をくすぐった。
油の香り。しょうゆの香り。
それに、ちょっとだけにんにく。
(あ……)
その正体はすぐにわかった。
「からあげだ」
思わず声に出してしまうくらい、うれしかった。
司は靴もろくにそろえず、ぱたぱたとキッチンへ向かう。
そこには母親がいて、いつものエプロン姿で、からあげを揚げていた。
鍋の中で、じゅわっと音がして、湯気が立っている。
「おかえり、司。今ごはんの用意をしてるの。もう少ししたらお父さんも帰ってくるから、ごはんの用意を手伝って」
「うん、わかったよ。おかあさん」
司はこくんとうなずいて、鞄を近くの椅子に置いた。
それから、テーブルに並んでいるおかずの皿を取ろうとして――
――その瞬間。
全身に、水をかぶせられた。
「ぶっ……!?」
冷たさが皮膚に突き刺さって、息が止まる。
頭の中が真っ白になって、次に出た声は情けないくらい裏返った。
「え? な、なに? え? からあげは!?」
からあげの匂いも、母の声も、台所のあたたかさも。
全部、消えていた。
司はわけがわからなくて、目をぱちぱちさせる。
水が頬を伝って落ちていくのがわかる。
……そのとき、ようやく思い出した。
見知らぬ田園に迷い込んだこと。
知らない男たちに捕まったこと。
司がいた場所は、暗い部屋だった。
光は、正面にある大きな窓から差し込む月の光だけ。
冷たい空気が肌を刺して、夢のあたたかさが嘘みたいだった。
その窓の前に、一人の人物が立っている。
逆光のせいで、ほとんどシルエットにしか見えない。
暗い部屋は、それ以外ほとんど見えなかった。
床も壁も、どこか湿っているような気がした。
「どうやらまだ寝ぼけているようだな。もう一度水を浴びせてやれ」
低い声。男だ。
次の瞬間、もう一度かぶせられた。
冷たさに、司は思わず身体を縮める。
「う、うぅ……!」
水のおかげで少し正気が戻り、
司は自分が横たわっていることに気づく。
冷たい石畳の感触。
そして、自分が裸であることも。
(え……なんで……?)
両手は後ろで縛られていて、身動きが取れない。
腕がじんじんして、指先の感覚が少しおかしい。
寒いのか、それとも恐怖なのか。
全身の震えが止まらなかった。
「答えろ異人。名前と年齢は? それと何か特別な力などあるか?」
司の正面に立つ男が、イラついた声で質問してくる。
でも司は、頭が追いつかない。
異人って何? ここどこ? なんで裸?
聞きたいことばかりなのに、口が動かない。
「……」
それを無視されたと思ったのか、男が近づいてきて――
腹に蹴りを入れた。
「ぐっ……!」
痛みで視界が歪んで、司は顔をゆがめてせき込んだ。
「答えろ異人! 名前、年齢、特技は!?」
さっきより怒りが混じった声。
司は涙目になりながら、必死に言葉を絞り出す。
「み、水野……司。十五歳。特技は……ありません……」
声が震えて、情けない。
それでも言わないと、また蹴られる気がした。
男は小さく息を吐き、冷たく言った。
「お前はこれから異人としてここで働いてもらう。あとは組長に聞け」
「異人? 組長って……?」
司が震える声で聞いても、男は答えない。
話は終わりだというように、
司の後ろ側からドアが開く音がして、足音が聞こえた。
司は無理やり立たされ、また頭に袋をかぶせられた。
さっきまで見えていた月明かりさえ消えて、世界が真っ黒になる。
「え、ちょ……!」
声を上げる間もなく、両脇にぐいっと腕を入れられる。
抵抗しようとしても、身体に力が入らない。
そして――
司の足は、地面に届かなかった。
「う、うわっ……!」
ぶらん、と宙に浮いた瞬間、抵抗しようと足をばたつかせても、空を切るだけだった。
袋の中は息がこもって苦しい。
布のにおいが鼻につく。
どこを歩いているのかも、どっちに進んでいるのかもわからない。
途中、外に出たのか、冷たい風が全身に当たった。
その瞬間、司は思い出してしまう。
自分が――裸だということを。
鳥肌が立ち、歯がかちかち鳴る。
寒さと恥ずかしさで、頭がぐるぐるした。
「ちょ、ぼく裸……まって……おねがい……!」
情けない声しか出ない。
必死なのに、言葉がかすれていく。
「うるさい。静かにしてろ。すぐに着く」
左隣の男と思われる声が、氷みたいに冷たかった。
司は諦めるしかなかった。
ぶらぶらと揺れる身体が、ただただ屈辱的だった。
足が空を切るたびに、自分が『物』みたいに扱われている気がして、涙が出そうになる。
どれくらい運ばれたのか、わからない。
やがて――
空気が少しだけ温かくなった。
(……建物の中……?)
そして、二人が立ち止まった。
がちゃがちゃ、と鍵を開けるような音。
次に、重たいものが動くような音がして、空気がふっと流れた。
両脇に入れられていた腕が外される。
次に後ろ手に縛っていた縄も外され、司はそのまま前に投げ出された。
同時に、頭の袋も乱暴に引きはがされる。
視界が一気に戻り、眩しさに目が痛い。
「……っ!」
司は床に放り込まれて、うつぶせに倒れた。
司がそのまま動けずにいると、声が聞こえてきた。
「組長、新入りだ。これからのことを教えてやれ」
「わかりました。ごくろうさまです」
二人の男の会話が終わるとまた、重厚な音をさせながら何かが動く音が聞こえた。
そして、しばらくの沈黙が続いた。




