第17話 運命のめぐり合わせ
全員が着替えを終え、洗濯場を出て食堂へ向かった。
夕方の冷たい空気の中、
湯気のように立ちのぼる香りが鼻をくすぐる。
食堂の方から食欲をそそる匂いが漂ってくる。
司はその正体を確かめるように大きく深呼吸をした。
胸いっぱいに吸い込み、目を閉じる。
(やっぱりカレーだ)
思わず口の中にじわっと唾が広がる。
匂いにつられて鼻をひくひくさせながら歩く司の様子を、
ノームとタカギは見逃さなかった。
「司……何してるんだ?」
ノームは目を細め、半ば呆れたように呟いた。
司ははっと我に返り、
顔を真っ赤にして「えへへ」と笑ってごまかす。
「大好きなカレーの匂いがしてきてさ、つい夢中になって」
言いながら、もう一度くん、と小さく鼻を鳴らす。
「ついって……犬じゃあるまいし」
ノームが肩をすくめて笑う。
「わかるぜ司! 俺も大好物だ」
タカギは嬉しそうに司へ近づき、
右腕を肩に回そうとした。
しかし、司はさっと身をかわす。
「なんだよ……なんで避けるんだ」
タカギが不満げに言った。
「なんか、嫌な予感がした」
司はフンと鼻を鳴らし、
どこか得意げだ。
自分の直感をちょっと誇らしく思っている顔だ。
「なにをーっ!」
タカギが司に掴みかかろうとふざけて詰め寄る。
両手をわしゃわしゃとしている。
「いい加減にしろ! タカギ、はしゃぎ過ぎだ」
ノームがぴしゃりと制した。
低く落ち着いた声に、
ぴたりと空気が止まる。
タカギは口をとがらせて不満そうな顔をした。
食堂に到着すると、
三人はカレーを受け取るためにカウンターへ並んだ。
大きな鍋から立ちのぼる湯気が、
食堂中にスパイスの匂いを広げている。
並んでいる異人たちも、
どこか足取りが軽い。
司はトレーを受け取り、
カレーがよそわれていく様子を目で追った。
ごはんの山に、とろりとしたルゥがかかる。
具もしっかり入っている。
「え!? おかわりできないの!?」
司が思わず叫んだ。
声が食堂に響いて、
近くの何人かがびくっと肩を跳ねさせる。
「そりゃねぇだろ!」
すかさずタカギも便乗して、
身を乗り出す。
「こちとら汗だくになって働いてるんだ。もっと食わせろ!」
タカギは楽しげに言いながら、
カウンターを両手でバンバンと叩いた。
叩くたびにトレーがカタカタ鳴って、
周りの視線が集まってくる。
二人の前のカウンター越しで、
調理担当の若い異人が困った顔をしていた。
目を泳がせ、助けを求めるように。
すると、その背後から――
強面の看守が、ぬっと顔を覗かせた。
空気が一瞬で冷える。
さっきまでのカレーの匂いすら、
遠く感じた。
看守は司とタカギをにらみつけ、
次に組長のノームへ視線を送り、
そしてもう一度、二人を鋭くにらんだ。
二人はしょんぼりと肩を落としたが、
互いに目が合うとにやりと笑いあった。
その隣で、看守に説教を受けているノームは、
静かに拳を握りしめる。
(こいつら……いつか絶対に殴ってやる)
看守の説教が終わった後、
トレーを持った三人は空いている机を見つけ、
右からノーム、タカギ、司の順に腰を下ろした。
机にトレーを置くと、
スプーンがカチャ、と小さく鳴った。
今日一日のことを思い返し、
ノームが大きくため息をついた。
思った以上にバタバタだった。
頭の奥がじんわり疲れている。
すると隣でカレーを頬張っていたタカギが、
もぐもぐしながら一言。
「ため息つくと不幸になるぞ」
――誰のせいだ。
ノームがそう言わんばかりにタカギを睨みつけようと顔を向けると、
タカギは犬みたいに夢中でカレーをかき込んでいる。
口の端にルゥがちょこんとついているのも気づかない。
「……お前な」
言いかけたが、
言うだけ無駄な気がして飲み込んだ。
その向こうでは、
司が嬉しそうにスプーンで掬ったカレーをじっと眺めていた。
まるで宝物でも見るみたいに、目
がきらきらしている。
どうやら味に感動しているらしい。
一口食べては、
うんうんと小さくうなずいている。
二人を見て、考えるのが馬鹿らしいと思ったノームは、カレーを食べ始めた。
(うまい……)
温かさが喉を通って、
体の芯に落ちていく。
ノームは余計なことを考えるのをやめて、
黙々と食べ続けた。
食堂を後にして三人は異人棟へ向かって歩き出す。
外に出ると、さっきまでの湯気と匂いがふっと遠のいて、
夜の空気が肌に当たった。
タカギと司は、さっき食べたカレーの味を思い返しながら楽しげに歩いている。
満足そうな顔で、
二人ともやけに機嫌がいい。
じゃれ合って、笑って、またカレーの話をする。
本当に、うるさいくらいだ。
(昨日会ったばかりなのに、まるで兄弟みたいだな)
ノームは目を細めてそう思っていた。
そして、今日一日のことを思い返す。
忙しい一日だった。
司がうまくやれるか不安もあったが、
どうやら問題はなさそうだ。
タカギともすぐに打ち解けた。
……いや、打ち解けすぎて、
振り回されているのは自分の方かもしれない。
本当に、騒がしい一日だった。
これからも、
こんな日々が続いていくのだろうか。
きっと大変なこともある。
だが同時に、
きっと楽しい日々でもあるはずだ。
こんな時間が永遠に続けばいい
――そう思ってしまう自分がいる。
けれど、そんな都合のいい話はない。
(だめだな。歳を取ると、どうしても余計なことを考えてしまう)
そんなことを考えながらも、
ノームの頬は自然と緩んでいた。
前を歩く二人の背中が、
妙に頼もしく見えたからだ。
司は考えていた。
本当に大変な一日だった。
見知らぬ場所に迷い込み、
いきなり奴隷生活を強いられた。
何が起きているのかもわからないまま、
知らない大人たちに連れて行かれた。
怖くて、悔しくて、どうして自分が――と、
運命を呪わずにはいられなかった。
でも、ノームとタカギに出会ってから、
状況は少しずつ変わった。
ノームがそばにいてくれたおかげで、
不安も恐怖もやわらいでいった。
泣きじゃくっていた昨晩、
何も言わずに優しく包み込んでくれた。
それに、この場所でどうやって過ごせばいいのかも、
落ち着いた声で教えてくれた。
タカギのおかげで、
今日一日は思ったよりずっと楽しかった。
いつも茶化して、ちょっかいをかけてくる。
正直うるさい。
けど、そのおかげで、
気づけば不安がどこかへ飛んでいっていた。
もし、この二人に出会っていなければ。
司はきっと、この一日を耐えられなかった。
今は、本来なら出会うはずのなかった二人にめぐり合わせてくれた運命に、
ほんの少しだけ感謝できる。
司は、今日みたいな日々がずっと続くことを、心から願った。
三人は部屋へ戻ると、
ドア側からノーム、タカギ、司の順に川の字になるよう布団を敷き、
それぞれ自分の布団に座った。
一日の疲れがどっと押し寄せてきて、
司は思わず肩を落とす。
タカギは布団に腰を下ろした瞬間、
もう眠そうに目を細めていた。
「どうだ司、一日が終わった感想は?」
ノームが楽しげに聞いた。
「うん、思ったよりは楽しかった。奴隷って聞いてたから、もっと酷いかと思ったけど……畑仕事以外はよかったよ」
司は正直に言って、へにゃっと笑った。
「バーカ! その労働がメインなんだよ」
タカギが布団の上で肘枕をしながら、
眠そうな声で言った。
言い方は雑だが、どこか楽しそうだ。
「うん、労働はやりたくないね……」
司が嫌そうに言うと、
タカギは鼻で笑った。
「その歳で働きたくないとか、将来が有望だな」
タカギはあくびを噛み殺しながら、
ますます眠そうに言った。
「だって、あの人、無茶苦茶怒るんだもん」
「もう無理だって言っても、もっと力出せって言ってさ。めちゃくちゃだよ。あの人は鬼だよ」
司は布団の上で膝を抱え、
ぶつぶつと不満をこぼす。
「そう言うなって。みんな通る道だぜ」
タカギがもう一度大きくあくびをした。
司がまだぶつくさと文句を言っていたので、
ノームが優しく話し出した。
「実際、司はよくやってた」
落ち着いた声が、
司の愚痴をふわっと受け止めた。
「本当?」
司が首をかしげながら聞く。
自分では必死だっただけで、
うまくやれた気はしなかった。
「本当さ。初日にしては、うまくやっていた」
ノームはうなずき、少しだけ胸を張った。
「ほとんどの新入りは、まだ現実を受け入れられなくて自暴自棄になるものもいる」
「だが司は、すぐに溶け込んでいたよ」
褒められて、司は照れくさそうに視線をそらす。
「そうかな? でも二人のお陰で、不安を感じなかったよ」
司がそう言うと、
二人の間で肘枕をしていたタカギが、
急に大きないびきをかきだした。
「なんだ、タカギは寝てしまったのか。そろそろ我々も寝ようか?」
ノームが小さくため息をつきながら、
司に優しく言った。
「うん、ぼくもクタクタだよ。おやすみ、ノーム」
司は目をこすりながら言った。
「ああ、おやすみ。司、いい夢を」
翌朝、司は思い知る。
また、老人看守の鬼の訓練が待っていることを……。




