第10話 田園
幌馬車中に入ると、室内は薄暗かった。
天井から側面の床まで届く幌が外の光を遮り、まるで倉庫のような印象を司は受けた。
幌の布は厚く、外の景色はほとんど見えない。
唯一の光は今、司が入ってきた出入り口と、その反対側の正面からだけ細く入り込んでいた。
光が差し込む場所だけ、床の木目がぼんやり浮かんで見える。
床はすべて木製の板が敷き詰められて、何も置かれていない。
座る場所も区切りもなく、ただ広い板の床があるだけだった。
司が室内を眺めていると、
「おい、いつまで突っ立てるんだ。さっさと座れ」
正面の御者台に座っている男が振り向き、司を睨みながら怒鳴ってきた。
御者は黒い服を着ていた。
彼は看守だ。
白髪交じりの初老で、怒り顔のせいか、顔には深く刻まれた皺が浮かんでいた。
司は思わず背筋を伸ばして、「ごめんなさい」と謝った。
ノームも御者に軽く頭を下げ、司を促す。
馬車の一番奥、正面に背を向けて幌馬車の隅にノーム、司、タカギの順番に腰を下ろした。
タカギの隣には別の組の者が座り、どんどん詰めていく。
「座席はないの?」
司が御者に聞こえないように小声で聞いてみると、
「お前ら以外に荷物も載せる。椅子などない」
看守の男が冷たく言った。
(え? 聞こえたの?)
司は驚き、思わず後ろを振り返った。
御者台に座る看守の背中越しに、冷たい圧が突き刺さる。
「気をつけろよ。看守は歳は食ってるけど、耳はいいんだ。地獄耳ってやつさ」
タカギが片目を閉じてウィンクする。
「――聞こえてるぞ」
看守が、振り向きもせずに冷たく言った。
タカギがさらに舌を出して、
司は思わず吹き出しそうになり、口元を手で押さえた。
その様子を見ていたノームが小さく微笑んだ。
三人が一番奥へ座って数分もしないうちに、幌馬車内に人がどんどん乗り込んできた。
入口から入ってくるたびに、床板がミシッと鳴り、布の幌が揺れる。
最終的に幌馬車の中には、十五人が押し込まれた。
御者は手綱を軽く張り、鞭を鳴らした。
馬が小さくいななき、十五人の異人を詰め込んだ幌馬車が動き出した。
幌馬車内はとても蒸し暑かった。
司はぎゅうぎゅう詰めに押し込まれたので、仕方がなく体育座りをした。
膝を抱えると、隣の肩や肘がすぐ当たってくる。
左右に座るノームとタカギの体温がじわじわと伝わり、
司は暑苦しく感じていた。
移動中は、誰も言葉を話すことなく、
司はこの沈黙の時間が居心地悪く感じていた。
車輪の音と、馬車のきしむ音だけが続く。
時折、車輪が地面の小さな穴にはまり跳ねるたびに、
司の尻に衝撃を与えて、声を押し殺して痛みに耐えていた。
体感では一時間以上幌馬車が走り続けた頃に、
ゆっくりと馬が速度を落とし、幌馬車は停止した。
車輪の音が小さくなり、ガタガタ揺れていた床がすっと静かになる。
止まった反動で、乗っていた十五人の体が一斉に前へ揺れた。
御者が「着いたぞ」と言い始める前に、
後方からぞろぞろと異人たちが幌馬車を降り始める。
入口の幌がめくれ、外の光が差し込むたびに、車内が一瞬だけ明るくなった。
降りるたび、木の床がミシッと鳴る。
前列に座っていた司たちは、
他の組が降りてからゆっくりと立ち上がった。
司は長時間体育座りをしていたため、足がしびれて立ち上がれないと思っていた。
しかし、想像とは違って普通に立つことができた。
膝を伸ばしてみても、変にふらつく感じはない。
(不思議だ。座っている時も思ってたけど、どうして平然としていられるのだろう?)
司が不思議そうに顔を斜めにひねりながら考えていると、
「そろそろ降りてくるんだ」
先に幌馬車を降りていたノームが大きめの声で呼んでいた。
「うん、すぐ行くよ」
司は考えるのを止めて、入口の方へ体をねじり、幌馬車を急いで降りた。
幌馬車を降りてみると、
そこはとても広大な田園であった。
足元には、踏み固められた土の道。
湿った土の匂いがして、さっきまでの煙と鉄の匂いとはまるで違う。
先ほどの工業地区とは違い、周辺には建物があまりなく、
青空が遠くまで広がり、薄く山が見えた。
煙突も屋根も見当たらず、風の音だけがやけに目立つ。
見渡す限りの田園は世界の果てまで続いているのではと思うほどの広大さで、
初めて見た地平線に司は興奮していた。
どこまでが畑で、どこからが空なのか。
境目が細い線になって、遠くに伸びている。
いや、初めてではない。
昨日、一人でこの場所を彷徨っていたことを思い出した。
あれほど不安で恐怖にかられていたのに、
今はこの景色を美しいと感動している自分に驚きが隠せなかった。
同じ場所なのに、見え方が違う。
それがなんだか不思議だった。
「司、どうした? そろそろ仕事にかかるぞ」
ノームが怪訝そうに話しかけた。
「うん、昨日ここを一人で歩いていた時のことを思い出したんだ」
「そうか、そういえばそんなことを泣きながら昨日言っていたな」
ノームが髭をなぞりながら答えた。
「え?そうだっけ?」
司は昨夜のことはあまり覚えていなかった。
ノームの腕の中で泣きじゃくっていたことは覚えていたので、
恥ずかしくなった。
思わず視線をそらして、誤魔化すように頬をかいた。
「お二人さん、お楽しみのところ悪いけどよ。そろそろ仕事しようぜ」
タカギが早くしろよと催促してきたので二人は近くの畑に入っていった。
畑というよりは、何もない荒れ地であり、
周りは土ばかりで野菜を植えている様子は見られなかった。
畝らしい形もなく、草もまばらで、ただ広い土が続いているだけだ。
ここには、司たちを含めて十五人の異人と看守が四人だけいた。
「昨日の続きだ。全員、一列に並べ」
看守の一人が異人たちに命令した。
その声はよく通り、逆らう余地なんて最初からないように聞こえた。
異人たちは言われた通り横一列に並び、
看守たちが順番に鍬を渡していった。
鍬は思ったより大きくて、受け取るたびに木の柄がゴツンと鳴る。
看守の一人がノームたちの前にやってきた。
「昨日、新入りが入ったな? 今日は俺が教えるから。お前らは今まで通りに作業しろ」
そう言ったのは、見た目は六十代後半ほどの老人で、
他の看守よりも一回り年上に見えた。
少し背筋が曲がり、角刈り頭の男が両手を腰に当てて立っている。
長年の労働で日に焼けた黒い肌には、はっきりと分かる染みや皺が刻まれていた。
だが、下がった目尻と穏やかな表情のせいか、
司にはどこか優しいおじいちゃんのような印象を受けた。
「わかりました。よろしくお願いいたします」
ノームが丁寧にお辞儀をして、
タカギも簡単な会釈をした。
二人が他の看守に取る態度とは明らかに違う様子を見て、
司は何事かと警戒心を強めて、唾を飲みこんだ。
老人看守に促されて、
司は異人の列から離れてあとに続いた。
少し歩いて立ち止まると、
老人看守が振り返りながら司に話しかけた。
「お前は、農作業をやったことはあるか?」
「いいえ、初めてです」
司は少し戸惑いながら答えた。
「そうか、それは教えがいがあるな」
老人看守は優しく微笑んだが、
その目の奥に鋭い光が輝いたのに司は気がつき、思わず身震いした。




