第四話 仮面
「おかえりなさいませ、アリスお嬢様」
「こんにちは」
アリスさんは、律儀に一週間後にまたやってきた。
これで、三回目の帰宅になる。
また、来てくれた。
その事実が、私の心を少しだけ浮遊させた。
「紅茶を一つ」
「かしこまりました」
アリスさんは、さりげなく私の顔を見た。
まだ、心配してくれているのだろうか。
なんとも言えない暖かさが、胸に広がっていく。
アリスさんが来てから、毎週土曜日の午後が楽しみになった。
……不思議だ。
紅茶を注ぎながら、自然と微笑みが溢れる。
本当に、不思議だ。
私が紅茶を注ぎ終えた、そのとき。
「あっ、あまねんセンパイ!」
アリスさんの落ち着いた声色とは打って変わった、甲高い声。
その声が、一筋の光を壊した。
私の体は、反射的に硬直する。
「れいれい……」
派手なツインテールの彼女は、ニヤリと笑っていた。
「ねえ、あまねんセンパイ」
嫌な汗が滲む。
悪い予感がする。
れいれいがニヤリと笑うときは、いつも悪戯を思いついたときだから。
ゆっくりと、彼女の口が開かれていく。
私は、それを見ていることしかできなかった。
「アリスお嬢様のことなんですけどぉ〜」
駄目、それ以上は聞きたくない……っ!
そうやって、あなたはいつも私を虐げるのでしょう?
見えない、圧で。
「アリスお嬢様を、わたしに頂戴?」
そう言って、彼女は私に手を突き出した。
その笑顔は、まるで悪魔のようだ。
震える腕を、そっと抱いた。
そんなことで、恐怖がおさまるはずがないのに。
口から、小さな息が漏れる。
「――嫌」
口が、勝手に動いた。
れいれいは、手を突き出したまま、片方の眉を跳ね上げる。
怒らせて、しまっただろうか。
それでも、無意識に言ってしまったのなら、それが私の本心なのだろう。
嫌だ。
せっかく、手を差し伸べてくれる人が現れたのに……。
その手を、離したくはない。
アリスさんの想いを、無下にすることはできない――。
「は?」
れいれいの低い声が、キッチンに響く。
息を呑んだ。
震えが、さらに増したような気がする。
そうだ。
私がれいれいに逆らうことなんて、最初から許されていないのだ。
これが、私と彼女との圧倒的な差。
ギュッと、腕を抑える。
「センパイ、今、嫌って言いました?」
れいれいの声を聞いているうちに、ふつふつと何かが迫り上がってきた。
確かに、そう言ったよ。
私の奥底で、ずっと渦巻いていた想い。
私はずっと、アリスさんのような人に出会いたかった。
私の心を救ってくれる、温かい存在に。
「私のお願いが、聞けないって言うんですか?」
いつも、聞きたいわけじゃなかった。
ずっと、我慢してきた。
「センパイ、最近調子乗ってません?」
乗ってない。
調子に乗っているのは、あなたの方でしょう?
人のことを、簡単にコントロールできると思わないで。
「やなセンパイ。マジムカつく。わたし、勝手に奪いにいくから」
「あっ……」
れいれいは、台からティーカップを奪い去っていく。
残されたのは、私と、一人きりのキッチンだけ。
……言えなかった。
いつも思う。
今日は、何かを変えられるのではないか、と。
この日々から、抜け出せるのではないか、と。
そう思っているのに、毎回行動を起こせずに終わる。
もう、こんなのは嫌なのに。
私の中で迫り上がっていた何かは、急速に鎮まっていった。
「……はあ〜」
無意識に、ため息が一つ溢れた。
……なんなんだ。
何に対しての「なんなんだ」なのか、よくわからない。
でもきっと、何もかもに対してだ。
なんとなく、そんな気がしていた。
「アリスお嬢様〜っ、紅茶をお持ちいたしました〜!」
表に戻ると、早速れいれいがアリスさんに近づいていた。
痛いな。
腕を、強く握りしめていたことに気づく。
いつから、こんなに力が入っていたのだろう。
少し、手をゆるめる。
でも、今は。
腕よりも、見えないどこかが痛んでいるような気がした。
れいれいに話しかけられたアリスさんは、少し驚いたように目を見開いていた。
それはそうだ。
いつもアリスさんを担当していたのは、私だから。
生贄は、私だったから。
生贄じゃ、なかったの?
そんな問いが、心の中に生まれる。
……まさか。
私は、一つのある可能性に気がついた。
私でアリスさんの対応を試して、嫌な人でなかったら私を捨てるつもりだったの?
……最初から?
――生贄。
本当に、言い得て妙だ。
れいれいは、人気に執着している。
きっと、私を使ってアリスさんの性格を見極めていたのだろう。
自分に害のない人間かを、見極めようとしていたのだろう。
自己中心的な、彼女らしい。
アリスさんは、容姿端麗という言葉が似合うような人だ。
れいれいでなくとも、お近づきになりたいものだろう。
……最初は、少し怖い人だと思っていたけれど。
今は皆、優しい人だと知って、私を羨ましそうに見ていた。
少しツンとした目の奥を無視して、二人から目を逸らした。
「ハハ……」
乾いた笑いが漏れる。
所詮、私は生贄なんだ。
私は、ただの、食前酒に過ぎない存在なのだ。
「あまねんセンパーイ? さっき出られたご主人様がいたテーブル、拭いといてくださいね?」
「……わかった」
返事をしながら、れいれいを盗み見る。
アリスさんのテーブルの近くで、私を見て笑っている。
あの、意地悪な笑顔で。
私は、ふきんを取るためにキッチンへと戻ろうとした。
その、ときだった。
「あの」
低く、まっすぐな声が響いた。
いつも冷静な彼女には珍しく、感情を滲ませた声色。
私は、声の主の方へ、振り返った。
なみなみと注がれた紅茶と同じくらいの視線が、彼女へと注がれる。
皆が、彼女の次の言葉に耳を傾けた――。
「彼女、我慢してます」
「……えっ」
彼女は、私を指してはっきりとそう言った。
れいれいに向かって、直接。
頭が真っ白になっていく。
……なんで?
そんな問いで、頭が埋め尽くされていく。
対して、れいれいの顔は、みるみると真っ赤になっていった。
「がっ、我慢なんてしてないでしょ! ね、センパイ?」
甘い声色に対し、視線は刺すように鋭かった。
私は、悟った。
ここで首を横に振れば、きっと心の臓まで串刺しにされてしまう。
私はふわりと微笑んで、首を縦に振った。
「ほら、本人もそう言ってます!」
れいれいは、アリスさんをはじめとした、店内の全員をぐるっと見た。
でも、そこにあったのは――。
「れいれい、マジか……」
「え、あのメイドさん最低じゃない?」
「あまねんがかわいそう!」
大勢からの、批判だった。
私の目は、大きく開かれていたことだろう。
こんなの、予想していなかった。
れいれいの人気は、揺るがないものだと思っていたから。
ここにいる人たちは、私たちの関係を「歪だ」と思える人たちだったのだ。
ドクン、ドクン、と鼓動が速くなっていく。
れいれいの評判は今、地に落ちた。
「そんなっ、みんなっ、わたしのこと大好きだって言ってくれたくせに! 嘘つき嘘つき嘘つきぃっ!!」
豹変したヒロイン。
剥がれ落ちた仮面は、舞台の上で無様に転がった。
「自分の都合のいい答えを言うように、脅す。これは、脅迫罪にもなり得る」
アリスさんは、れいれいに人差し指を突き出した。
「れいれいさん。あなたは、自分の犯した罪を知るべきです」
れいれいの顔は、サーっと青ざめていった。
周りの反応は、れいれいのした行いへの罰なのかもしれない。
アリスさんの頼もしい姿は、さながら物語の名探偵のようだった。
―――
「アリス、お嬢様っ!」
店を出たアリスさんを、引き止める。
アリスさんは、ゆっくりと振り返った。
「先ほどは、ありがとうございました」
勢いよく、頭を下げる。
そうでもしないと、恩人に対して失礼な気がしたから。
ゆっくり、顔を上げる。
そして、アリスさんの顔を窺った。
私の目に映るアリスさんの顔は、当たり前だと言いたげだった。
「困っているみたいだったので。……それと、れいれいさんだと、単純に作業に集中できなくて」
「ふふっ、何ですか、それだけで?」
――それだけで、私を救ってくれたのですか?
いや、アリスさんのことだ。
きっと、誰かのヒーローになっているなんて、自覚していないのだろう。
アリスさんは、私の笑いにつられて微笑みを浮かべた。
その美しい顔にたたえられた微笑みは、まるで花が開く瞬間のようだった。
「それだけ、ではありませんよ。……あなたが、辛そうに見えたので」
……辛そう? 私が?
辛そう、だったのだろうか。
そんなことを言われたのは、これが初めてだ。
トクン、と胸の奥が鳴った。
こんなに優しさに触れたことも、これが初めてかもしれない。
「とにかく、これで、れいれいは私に手を出せないでしょう。いくらお礼を言っても、足りないくらいです」
なんとなく、早口になってしまった。
照れ隠し、というものかもしれない。
醜態を晒してしまったみたいで、少しだけ恥ずかしかった。
「いえいえ、大したことはしていませんよ。……とにかく、また一週間後に来ます」
「はい。……また、一週間後に」
私とアリスさんは、手を振り合って別れた。
一週間後、また有透さんが来るから。
……頑張ろう。
どんよりとしていた店の空気が、少しだけ美味しく感じた。




