第三話 温度
頭の中が、真っ白になる。
腕には、暖かいアリスさんの手の感触。
……どう、したのだろう。
私が、何か粗相をしてしまっていたのだろうか。
そんなことをぐるぐると考えていると、アリスさんは私の顔を覗き込んできた。
叱られる……!
反射的に、目を瞑る。
そうして、私は駄目出しの言葉を待った。
アリスさんの、息を吸い込む音が聞こえる。
ああ、私、叱られるんだ。
叱られることには、慣れている。
頭に浮かぶのは、いくつもの失敗。
怒った大人の顔。
……逃げてはいけない。
私は、覚悟をして、目を開けた。
「……顔色が悪いですよ。大丈夫ですか?」
「……え?」
つい、間抜けな声が漏れる。
アリスさんの声色は、優しかった。
そんなことを言ってくれる人は、今までいなかった。
アリスさんは、私を心配してくれているのだろうか。
アリスさんを見る。
椅子に座った姿勢が完璧な、綺麗な女の人。
対して私は、顔色の悪い女。
何と答えたらいいのか、わからない。
無難に「大丈夫です」と答えれば、私はこれ以上深く話さなくて済む。
もし、「大丈夫じゃない」と答えたら?
お金がなくて、勉強とバイトで大変だ、と言ったら?
そうしたらこの人は、私のことを救ってくれるだろうか。
それとも、「大変ですね」と上っ面だけの心配をしてくれるだろうか。
私が返事に迷っていると、アリスさんは少し眉を下げ、手を離した。
「すみません、ただの客なのに。目の下にクマがあるのが気になって」
「気になるほど、悪いですか……?」
気づくと、私は返事をしていた。
アリスさんは、「ええ」と頷く。
「このような店で働いて、忙しいかもしれません。ですが、適度な休養は大切です」
アリスさんの言葉で、学生時代の保健の授業を思い出した。
確か、食事、運動、休養が大切だったか。
私は、どれも中途半端だ。
「お気遣い、ありがとうございます。大丈夫です。これからは、休養にも気をつけます」
私は、ぺこりと頭を下げる。
すると、アリスさんは真面目な顔で言った。
「来週も来ます。ちゃんと休んでいるかどうか、チェックしますから」
「えっ……」
私の笑顔が、凍った。
どこまで真面目なのだろう、この人。
改善されていなかったら、今度こそ怒られる?
私は、「あは……」と声を漏らしたのだった。
―――
一週間後。
アリスさんは、約束通りやってきた。
一週間前と同じ時間、同じテーブル。
「おかえりなさいませ、アリスお嬢様」
「あまねんさん」
アリスさんは、私にぺこりと頭を下げた。
そして、私の顔をチラリと一瞥する。
私はこの一週間、あまり休んでいなかった。
休む暇なんてない。
私には、お金がない。
休んでいたら、生きていけない。
なにより、れいれいが怖かった。
休んだことによって私に向けられるであろう、れいれいの視線が。
アリスさんの顔を、そっと伺う。
でも、アリスさんの感情は、わからなかった。
「あまねんさん、休んでいますか?」
「あっ、えっと、その、す、少し……」
嘘だった。
少しも、休んでなんかいやしない。
私は、ニコニコと注文を取る。
「ご注文は何になさいますか?」
アリスさんは、答えない。
私は、粘り強く待ち続けた。
生贄たるもの、いかなるときも強くあれ。
弱さを見せるな。
悲しい顔を、するな。
アリスさんは、またノートパソコンを取り出し、キーボードをカタカタとタイプし始めた。
……。
…………。
………………。
……………………。
カタカタ、という音だけが響く。
いい加減、注文をしてくれないか。
私は、心の中でため息をついた。
「……もっと、休んだ方がいいですよ」
アリスさんは、「紅茶をお願いします」と言って、再び画面に視線を戻した。
……何も、言えない。
紅茶を提供するため、キッチンまで下がる。
紅茶を淹れながら、ため息をつく。
アリスさんの生贄、思ったよりも大変かも。
けれど、アリスさんは怖い人ではなかったのだ。
それだけでも、ありがたいと思っておこう。
私が紅茶を持っていった、そのとき。
「あまねん、マジ調子乗ってる……許さないんだから!」
何者かの、恨みのこもった視線。
私は、それを知る由もなかった。




