08.衝動
どれほど泣いていたのか、覚えていない。
気づけば、俺は再び眠りに落ちていた。
誰かが額に冷たい布を置いてくれた気がする。近くで声が聞こえたような気もした。
けれど、目を開けていることさえ苦しくなり、俺の意識はゆっくりと沈んでいった。
そして、次に目を覚ましたとき。
教会の窓からは、朝の光が差し込んでいた。
「……朝、か」
思わず呟く。
いつもなら、もう家の外に出ている時間だった。
父さんと一緒に狩りへ行く日も、村の仕事を手伝う日も、俺は朝早くに起きるのが習慣になっていた。
五日間も眠り続けていたというのに、身体に染みついた習慣だけは変わらないらしい。
ゆっくりと上半身を起こす。
昨日まで、身体の芯に鉛を詰め込まれたように重かったのが嘘みたいだ。
頭も、熱に浮かされていたときほどぼんやりしていない。
「……治った、のか?」
そう呟きながら、自分の手を見下ろした。
両手には白い包帯が巻かれていた。掌のあたりには、赤黒い血が滲んでいる。
森で大剣を握ったときの傷だろうか。
あのときは、手の痛みなんて気にも留めていなかった。目の前の熊を倒すことしか頭になかったから。
そっと指を動かす。
痛みはある。それでも、指は思いどおりに動いた。
顔にも包帯が巻かれているらしく、頬のあたりが引きつるような感覚がある。首にも布が当てられている。
傷がどれほどのものだったのか、今の俺には分からなかった。
顔を確かめようと思い、教会の中を見回す。
村に鏡は一つしかない。
磨かれた鏡は高級品で、普通の家に置けるようなものではなかった。村では神父様が管理していて、教会の一角に大切に置かれている。
寝台から足を下ろす。
床に触れた瞬間、膝が小さく震えた。
「……っ」
思ったより、足に力が入らない。
壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がる。
一歩。
もう一歩。
どうにか歩けそうだった。
鏡の前までたどり着き、顔を覗き込む。
そこには、見慣れたはずの自分の顔があった。
ただし、頬から首にかけて包帯が巻かれ、顔色はひどく悪い。目の下には濃い影が落ち、髪も乱れていた。
生きているのが不思議なくらいだった。
しばらく鏡を見つめたあと、俺は視線を落とした。
父さんは、もういない。
鏡に映る自分を見ても、その事実を受け入れることはできなかった。
昨日、あれほど泣いたのに。胸の奥には、まだ何かが詰まっている。
考え始めれば、また動けなくなりそうだった。
「……戻るか」
寝台まで歩いて、もう一度横になろうとした。
身体は軽くなったように感じたが、やはり完全に回復したわけではないらしい。急に、ひどいだるさが全身を襲った。
足が重い。頭もまだ少しぼんやりする。
やっぱり、もう少し休んだほうがいい。
そう思って顔を上げた時
「……ん?」
視界の端で、何かが動いた。
教会の奥。壁際の薄暗い空間に、小さな光が浮かんでいた。
最初は、朝日が窓から差し込んで、埃か何かが光っているのだと思った。
けれど、違った。光は空中に留まっていた。
小さな球のような形をして、ふわり、ふわりと漂っている。
風もないのに、ゆっくりと上下しながら、教会の中を移動していた。
「……何だ、あれ」
目を凝らす。
眩しいわけではない。目を細める必要もなく、ただそこに、小さな光の玉が浮かんでいる。
俺は瞬きした。消えない。目も擦ってみた。
それでも、消えなかった。
光の玉は、まるで何かを探しているように、ゆっくりと移動していく。
そして、教会の扉の前で止まった。
ふわりと浮かび上がり、扉に近づく。
コツン。
実際には鳴ってないのだろうが、小さな音がした気がした。
光の玉が扉にぶつかったのだ。
少し離れる。もう一度、ぶつかる。
まるで、扉の向こうへ行きたがっているようだった。
「……外に行きたいのか?」
口に出してから、自分でも馬鹿げたことを言ったと思った。
光の玉が何なのかも分からない。生き物なのか、光の反射なのか、それすら分からないのに。
それなのに、どうしても気になった。
気づけば、俺は寝台へ戻るのをやめていた。
壁に手をつきながら、ゆっくりと扉へ向かう。
一歩進むたび、足元がふらついた。
途中で何度も立ち止まったが、それでも目の前の光から視線を外せなかった。
ようやく扉にたどり着き、取っ手に手をかける。
重い扉を押し開けると、朝の冷たい空気が頬を撫でた。
その瞬間、光の玉がふわりと外へ飛び出した。
真っ直ぐに、村の家々が並ぶ方へと飛んでいく。
「待て……!」
なぜそんな言葉が出たのか、自分でも分からなかった。
俺はふらつく足で、光のあとを追った。
教会の前に出た瞬間、足が止まった。
「……何だ、これ」
村のあちこちに、光が浮かんでいた。
家々の屋根の上。
道の脇。
畑の向こう。
赤、青、緑、黄色。
白に近いものもあれば、紫がかったものもある。
どれも大きさはまちまちで、ふわふわと宙を漂っていた。
眩しくはない。
朝の光を遮ることもなく、地面に影を落とすこともない。
まるで、最初からそこに存在していたかのように、当たり前の顔をして浮かんでいる。
俺は呆然と立ち尽くした。
昨日まで、こんなものは見えなかった。
少なくとも、俺の記憶にはない。
家の戸口から出てきた村人が、俺の横を通り過ぎていく。
誰も空を見上げない。
誰も光を気にしていない。
俺の目の前を漂う青い光に、男が手を伸ばした。
いや、正確には、光の玉が男の身体をすり抜けたのだ。
男は何事もなかったかのように歩いていく。
見えていない、?
俺以外には、見えていないのか。
そして、ふと気づいた。
俺は、村の外を見つめていた。草原の向こう。
遠くにそびえる、あの塔。
生まれたときから、そこにあった景色の一つ。
村から見えるのは、塔の全容ではない。
あまりにも巨大で、あまりにも高い。
その頂は遥か上空へ伸び、雲さえも貫いている。
地上から見上げても、どこまで続いているのか分からない。雲の切れ間から、その輪郭がわずかに覗くこともあるが、普段は雲に隠されている部分のほうが多かった。
俺たちのいる村から見えるのは、遠くの空に突き立つ巨大な影だけ。
それでも、その影は空の一部を占めるほど大きく、どれほど離れていても見失うことはなかった。
俺が生まれたときには、すでにあった。
だから、ずっと当たり前の景色だと思っていた。
だが。
塔を見た瞬間、胸の奥がざわついた。
「……っ」
心臓の奥を、何かに掴まれたような感覚。
ただでさえ浅かった息が更に浅くなる。
目を逸らそうとしても、視線が塔に吸い寄せられる。
そして、その異変は次第に強くなっていった。
塔へ向かって、光が流れていた。
村に浮かぶ光とは、明らかに違う。
黒に近い赤。濁った紫。
見ているだけで胸の奥が拒絶するような、禍々しい光だった。
それが、いくつも、いくつも。
遠く離れた場所から、塔へ向かって飛んでいく。
地面から湧き上がるように見えるものもあれば、雲の向こうから流れてくるものもある。
数えきれないほどの光が、巨大な塔の影へと吸い寄せられていた。
雲を貫く塔の輪郭に沿って、光は上へ、上へと昇っていく。
その光景を見つめているうちに、胸のざわめきは痛みに近いものへ変わっていった。
怖い。
そう感じているはずなのに、それだけではなかった。
もっと別の何かが、胸の奥でうごめいている。
懐かしさや悲しさ、色々な感情が呼び起こされる。その奥で何よりも大きな感情があった。
______行かなければ。
「……え?」
思わず声が漏れた。
俺は、何を考えた?行く?
どこへ?
そんなもの、決まっている。
あの塔だ。
そう思った瞬間、背筋にぞくりとしたものが走った。
どうして俺が、あんな場所へ行かなければならないんだ。
塔に近づいたことすらない。何があるのかも知らない。あそこまでどうやって行けばいいのかさえ、分からない。
なのに。
行かなければならない。
まるで、自分に与えられた役目を思い出しかけているような、不思議な感覚があった。
そこへ向かうことが、ずっと前から決まっていたかのような。
俺がそうするのを、何かが待っているかのような。
それは使命感と呼ぶべきものなのかもしれない。
けれど、そんなものを感じる理由が、俺にはまるで分からなかった。
怖いのに、目を離せない。
行きたくないのに、行かなければならないと思ってしまう。
自分の考えなのか、それとも別の何かなのか。
区別がつかなかった。
「アルトリウス!」
背後から声がして、肩が跳ねた。
振り返ると、教会の扉から神父様が出てくるところだった。
俺を見つけるなり、慌てた様子で歩み寄ってくる。
「何をしているんだ! まだ寝ていなければ駄目だろう。五日も熱が続いたんだぞ」
神父様の声を聞いて、俺はようやく塔から視線を外した。
胸のざわめきは、まだ消えていなかった。
それでも、頭の中を満たしていた衝動は、少しだけ遠のいた気がした。
「神父様……」
「顔色もよくない。傷だって、まだ治ったわけじゃないんだ。こんなところで立っていては駄目だ」
神父様は俺の肩を支えた。
その手が触れた途端、身体のだるさが急に戻ってきたような気がした。
足に力が入らない。
それでも、確かめなければならなかった。
「神父様、あれは何ですか?」
「……あれ?」
俺は村の方を指差した。
「そこに浮かんでいる光です。あんなにたくさん……それに、塔の方にも」
神父様は俺の指先を追って、村を見回した。
家々。
道。
畑。
そして、遠くの空を貫く塔の影。
しばらくそうしていたが、神父はやがて困ったように眉を寄せた。
「……何も見えないが」
「え……?」
「光など、どこにもないぞ」
冗談を言っているようには見えなかった。
神父様は本気で、何も見えていないのだ。
「でも、そこに……」
俺はもう一度、村を見た。
光の玉は、まだ浮かんでいる。
一つが家の屋根を越え、別の一つが道の上をゆっくりと横切っていく。
塔へ向かう禍々しい光も、消えてはいない。
見間違いじゃない。夢でもない。
俺には、見えている。
けれど、神父様には見えていない。
「アルトリウス、どうした? 何か変なものが見えるのか?」
心配そうなそれでいて疑うような声だった。
俺は答えられなかった。何と説明すればいいのか分からない。
自分にしか見えないものがある。
そんな話をして、信じてもらえるだろうか。
それに、俺自身が理解できていないのだ。
「何でも、ありません」
そう答えると、神父様は納得していない様子だったが、それ以上問い詰めることはしなかった。
「とにかく、中へ戻ろう。今は休むことが先だ」
肩を支えられ、俺は教会の中へ戻った。
扉が閉じる直前、もう一度だけ外を振り返る。
光の玉は、変わらずそこに浮かんでいた。
そして、塔へ向かう光も。
あそこへ行かなければならない。
そんな思いだけが、胸の奥にしつこく残っていた。
寝台に腰を下ろし、神父様に促されるまま横になる。
目を閉じても、あの光景が頭から離れなかった。
村中に浮かぶ、色とりどりの光。
雲を貫く塔へ吸い込まれていく、禍々しい光。
そして、誰にも見えていないという事実。
ふと、森での出来事が脳裏をよぎった。
熊の爪が振り下ろされた瞬間。
世界がゆっくりと動き始めたように感じた、あの感覚。
爪の周囲に揺らめいていた、奇妙な霞。
自分でも理解できないほど速く動いた身体。
ジャイガさんの大剣を握ったときに感じた、初めて使うはずなのに、ずっと昔から知っていたような不思議な感覚。
そして、熊と向き合っていたときの、あの高揚感。
怖いはずなのに、恐怖が薄れていく。
苦しいはずなのに、もっと戦えると思ってしまう。
まるで、自分ではない誰かが、俺の身体を動かしているようだった。
あのときは、生き残るために必死だった。
考える余裕なんてなかった。
けれど、今になって思い返すと、どれも普通ではなかった。
俺は、いったい何をしたんだ。何が起きたんだ。
どうして、今まで見えなかったものが見えるようになったんだ。
どうして塔を見ると、あそこへ行かなければならないと思うんだ。
答えはどこにもなかった。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
俺の身体には、何かが起きている。
それも、ただ傷を負ったとか、熱を出したとか、そんな話ではない。
俺自身が知らない何かが、俺の中で変わり始めている。
そう考えた瞬間、胸の奥がひどく冷たくなった。
父さんも、ジャイガさんも、気軽に話せたマルヒさんももういない。
これから先、何が起きても、みんなに尋ねることはできない。
もし、この変化がもっと大きくなったら。
もし、俺が自分でも分からない何かに変わってしまったら。
俺は、俺のままでいられるのだろうか。
包帯の巻かれた手を、胸元で握りしめた。
傷がじくりと痛んだ。痛みがある。
俺は、俺の身体は、まだここにある。
それなのに、昨日まで当たり前だった世界が、ひどく遠いものに思えた。
俺は目を閉じた。
今は、何も考えたくなかった。
けれど、まぶたの裏には、あの塔の影が焼きついていた。
そして、胸の奥には、消えない衝動が残っていた。
____行かなければ。
その声が、本当に自分の心から生まれたものなのか。
答えは出てこなかった。




