09.残されたもの
ひと月と半月が過ぎた頃、俺の体は、神父さえ驚くほど回復していた。
首から頬にかけての傷は、はっきりと跡が残っているものの、痛みはほとんどない。両手の傷も塞がり、包帯を外しても血が滲むことはなくなった。
「まったく……あれだけの怪我を負って、よくここまで回復したものだ」
神父は俺の手を確かめながら、呆れたように呟いた。
「若いから、ですかね」
「若さだけで説明がつくなら、医者はいらなくなるな」
冗談めかした口調だったが、神父の目は真剣だった。
俺自身、ここまで早く動けるようになるとは思っていなかった。
ただ、傷が塞がったからといって、以前と同じ自分に戻れたわけではない。
目を閉じれば、今でも森の光景が浮かぶ。
血に濡れた地面。
変わり果てた父さんの姿。
静かに横たわるジャイガさん。
そして、目の前に迫る巨熊の爪。
忘れようとしても、忘れられなかった。
村の人たちとは、あれから一度も顔を合わせていなかった。
神父に頼み、俺が休んでいる間は、できるだけ誰も教会に入れないようにしてもらっていた。
食事や必要なものは、村の人たちが気を遣って差し入れてくれていたらしい。教会の入り口に置かれた籠や包みを、神父が部屋まで運んできてくれることもあった。
ありがたかった。
それでも、今は誰とも会いたくなかった。
何を聞かれても、きっと上手く答えられから。
父さんたちが死んだ時のことを、もう一度言葉にする自信がなかった。
だから俺は、神父以外の誰とも顔を合わせず、ほとんど教会の中で過ごしていた。
窓から見える村は、いつもと変わらない。
子供たちの声が聞こえ、家畜の鳴き声が響き、遠くでは誰かが薪を割っている。
そんな日常が続いていることに、ほっとする。
それなのに、自分だけがそこから取り残されているような気がした。
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ある日の昼下がり、俺は教会の裏手へ向かった。
そこには、三つの墓がある。
父さんの墓。
ジャイガさんの墓。
マルヒさんの墓。
父さんの墓には、使い物にならなくなった槍の破片を。
ジャイガさんの墓には、砕けた大剣の一部を。
マルヒさんの墓には、愛用していた弓が立てかけられている。
どれも、本人が使っていたものだ。
「……久しぶり」
墓の前に立つ。
何か話そうと思っていたはずなのに、言葉が出てこない。
父さんには、聞きたいことが山ほどある。
槍の扱いも、狩りのことも、まだ教えてもらいたいことがたくさんあった。
ジャイガさんには、あの大剣をどうやって振るっていたのか聞いてみたかった。
マルヒさんには、いつもの調子で笑いながら、俺の下手なところを指摘してほしかった。
もう、何一つ叶わない。
そう考えると、胸の奥が重くなった。
「……俺、もう大丈夫だから」
自分に言い聞かせるように呟いた。
なにが本当に大丈夫なのかは分からない。
それでも、いつまでもここで立ち止まっているわけにはいかなかった。
「……また来るよ」
そう告げて、俺は墓を後にした。
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教会へ戻る途中、神父が庭先で薪を整理しているのが見えた。
「アルトリウス。少し話してもいいか?」
「はい」
神父は薪を置き、俺の顔を見た。
「最近、少しずつ村の様子も落ち着いてきた。君にも、知っておいてほしいことがある」
俺は頷いた。
「狩人を失った影響は、やはり大きい。食料の確保も以前ほど簡単ではないが、村のみんなが協力して何とか持ちこたえている」
父さんたちがいなくなった穴は、簡単には埋まらない。
分かっていたことだ。
「あの子たちも、できることを探しているよ」
「……みんなが?」
「ああ」
神父は穏やかに頷いた。
「カイルは、森へ入ることが難しくなった分、ほかの子たちに指示を出しているそうだ。弓の扱いを覚えたり、罠を仕掛けたりする時も、どうすれば効率がいいのか考えているらしい」
カイルの顔が浮かんだ。
あいつは、じっとしているのが苦手なやつだった。
自分の足を失ったと知った時、どれほど悔しかっただろう。
それでも、できることを探して動いている。
「ノアとミレイアも、弓や罠の扱いを覚えようとしている。エルナは食べられる草や木の実を探して、村の人たちを手伝っているそうだ」
「そう、ですか」
声が少しだけ掠れた。
みんな、それぞれ前へ進んでいる。
俺がベッドの上で眠っている間にも。
「ロイドも、よく働いているそうだ」
神父は続けた。
「狩人を失った今、若い者たちが担わなければならない仕事も増えている。ロイド達はもう十七歳だ。成人まであと一年しかない。自分が村を支える側になることを、真剣に考え始めているのかもしれないな」
ロイドの顔が浮かんだ。
以前は、俺たちにちょっかいを出してくる年上の少年だった。
けれど、あれから村も変わった。
狩人たちがいなくなった現実は、ロイド達にも容赦なくのしかかっているのだろう。
「まだ若いとはいえ、彼ももう、いつまでも誰かに守られているだけの年齢ではない。自分にできることを探しているのだろうね」
俺は黙って聞いていた。
みんな、それぞれの場所で動いている。
失ったものを抱えたまま、それでも前へ進もうとしている。
「君だけが、何もできずにいるわけじゃない。みんな、君が戻ってくるのを待っているよ」
「…はい」
嬉しかった。
みんなが無事で、少しずつでも前へ進んでいる。それを知れたことは、本当に嬉しかった。
けれど同時に、胸の奥がちくりと痛んだ。
俺は、何をしていたんだろう。
もちろん、怪我をしていたのだから仕方がない。
そんなことは分かっている。
それでも、みんなが必死に動いていると聞くと、自分だけが立ち止まっているように感じてしまった。
「ありがとうございます。……俺も、そろそろ動かないと」
「焦る必要はないよ。君が無理をすることを、誰も望んではいない」
「分かってます」
神父は小さく頷いたあと、少しだけ表情を和らげた。
「ただ、体がここまで回復したのなら、できるだけ早く、あの子たちにも顔を出してあげなさい」
俺は黙って神父の言葉を聞いた。
「みんな、君のことを心配している。直接会えなくても、君がどうしているのか気にかけていたよ。差し入れを届けてくれた人たちも、君が元気になってくれることを願っている」
「無理に何かを話す必要はない。ただ、顔を見せるだけでも、あの子たちは安心するはずだ」
俺はすぐには返事ができなかった。
カイルやノア、エルナ、ミレイア。みんなの顔が浮かぶ。
会いたくないわけじゃない。
本当は、ずっと会いたかった。
けれど、何を話せばいいのか分からなかった。
父さんたちのことを聞かれたら。
森で何があったのか尋ねられたら。
あの時、自分がどんな気持ちで戦っていたのかを聞かれたら。
きっと、上手く答えられない。
それでも、いつまでも避け続けるわけにはいかないのだろう。
「……分かりました。もう少ししたら、会いに行きます」
「うん。それでいい」
神父は、それ以上何も言わなかった。
その日の夕方、俺は人目を避けて家へ戻った。
家の中は、ひどく静かだった。
父さんが使っていた道具は、ほとんどそのまま残されている。
壁に掛けられた狩り道具。
使い込まれた革袋。
手入れ用の布。
どれも、明日になれば父さんが戻ってきて、また使うのではないかと思えてしまう。
そんなはずはないのに。
俺は目を伏せ、納屋へ向かった。
目的は、鍛錬用の槍だった。父さんに教わりながら、何度も振ってきた槍。
手に取ると、木の柄の感触が懐かしかった。
これなら、今の俺にも扱える。
そう思って、納屋の前で構えてみた。
最初は、いつも通りに振るつもりだった。
足の位置を確かめ、呼吸を整え、槍を前へ突き出す。
何度も繰り返してきた動作。
なのに、二度目の突きを放った時、妙な違和感があった。
槍が、思っていた以上に自然に動いた。
踏み込む足の位置。
腰のひねり。
腕を伸ばす角度。
頭で考えるより先に、体が正しい動きを選んでいるようだった。
「……あれ?」
もう一度、槍を構える。
今度は、わざと少しだけ踏み込み方を変えてみた。
体が自然に重心を修正し、槍先がぶれない位置へ戻った。
今まで父さんに教わったことを、体が以前より深く理解している。
そんな感覚だった。
試しに、今までやったことのない動きも試してみた。
踏み込みながら槍を引き、体を半身にしてから突く。
教わったことも、練習したこともない動きだった。
それなのに、不思議と形になった。
もちろん、何でもできるわけではない。
少し複雑な動きになると、体勢が崩れることもある。
それでも、以前の自分なら思いつきもしなかった動きが、今は自然に浮かんでくる。
まるで、体のどこかに知らない経験が刻まれているみたいだった。
背中に、薄い寒気が走った。
あの森での戦いが頭をよぎる。
自分の槍が砕けたこと。
死ぬと思った瞬間、ジャイガさんの大剣を握ったこと。
初めて触れたはずの剣を、まるで使い慣れた武器のように扱えたこと。
あの時の感覚は、今もはっきり覚えている。
俺は鍛錬用の槍を下ろし、しばらく自分の手を見つめた。
何かが変わっている。
それだけは、認めざるを得なかった。
しばらく槍を振っていると、急に腕が重くなった。
「……っ」
息が上がり、額から汗が流れる。
ひと月半もの間、ほとんど寝たきりだったのだ。体力が戻りきっていないのは当然だ。
俺は槍を下ろし、荒くなった呼吸を整えた。
ふと、納屋の隅に置かれた鍛錬用の剣が目に入った。
剣を本格的に習ったことはない。
それでも、あの時の感覚を確かめれば、今の自分に起きている変化を知る手掛かりになるかもしれない。
手を伸ばしかけて、止めた。
脳裏に浮かんだのは、巨熊と対峙した時の光景だった。
父さんたちを失い、次は自分が殺されるかもしれない。あの時、恐怖は確かにあった。
それでも、ジャイガさんの大剣を握った途端、体は別人のように動いた。
初めて手にした武器とは思えないほど、重さも、振り方も、自然に馴染んでいた。
巨熊の攻撃を受け流すたびに、手応えがあった。
追い詰められているはずなのに、まだ戦えると思えた。
恐怖に押し潰されそうだった心が、剣を振るう間だけは、目の前の敵へと向かっていた。
あの感覚を思い出すと、指先がわずかに強張った。
もう一度、確かめたい。
あの時の動きは偶然だったのか。それとも、今の俺には、以前とは違う何かが備わっているのか。
剣を握れば、答えに近づけるかもしれない。
だが、同時に思う。
最後の一撃を放った時、自分の中にあった異様な高揚を。
死ぬかもしれないという恐怖も、体の限界も抱えたまま、それでも戦うことに心地よさを感じていた。
あの力に、もう一度身を任せていいのだろうか。
考えるほどに、剣へ伸ばした手は動かなくなった。
「……今は、いい」
俺は手を引いた。
あの力がなければ、巨熊には勝てなかったかもしれない。
それでも、助かったからといって、何もかも受け入れられるわけではなかった。
俺は鍛錬用の槍を拾い上げる。
父さんに教わり、何度も失敗しながら身につけてきた武器だ。
足の運びも、呼吸も、狙う場所も、繰り返し鍛えて覚えてきた。
今日の鍛錬で、槍の動きにも変化が現れていることは分かった。それでも、これまで積み重ねてきたものまで、手放したくはなかった。
「……しばらくは、槍でいい」
槍を構え直す。
今は、いつも通りに鍛錬を続けよう。
剣を避けたのは、ただ怖かったからだ。
あの時の自分を、もう一度確かめる勇気がなかった。
けれど、いつかは向き合わなければならないのだろう。
槍を握る手に力を込め、俺はもう一度、足を踏み出した。




