07.無駄じゃなかった
どこかで、誰かが俺を呼んでいる。
遠くから聞こえる声は、ひどく曖昧だった。
目を開けようとしても、まぶたが鉛のように重い。身体は自分のものではないみたいに動かず、頭の奥では鈍い痛みがずっと続いていた。
寒い。いや、熱いのか?
自分でもよく分からない。
ただ、誰かが額に置いた布の冷たさだけは、ぼんやりと感じられた。
「……まだ、熱が下がらないな」
「もう五日目です。これ以上続くようなら……」
「今は見守るしかない。あれだけの傷を負ったんだ」
聞き覚えのある声だった。
誰の声なのか、思い出そうとしても頭がうまく働かない。
五日。何が五日なんだ?
俺は何をしていた?森にいたはずだ。
父さんと、ジャイガさんと、マルヒさん。それから、カイルも。
そうだ。俺たちは、森で熊に遭遇した。
あの異様に大きな熊。
口の周りを赤く染め、獲物を探すように顔を上げた、あの化け物。
そこまで思い出した瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走った。
「っ……!」
喉から、かすれた息が漏れる。
身体を起こそうとしたが、力が入らない。指先ひとつ動かすのにも、ひどく時間がかかった。
それでも、無理やり目を開いた。
ぼやけた視界に映ったのは、見慣れた石造りの天井だった。
小さな窓から差し込む光。壁に掛けられた古い木の十字架。薬草の匂いと、乾いた布の匂い。
村の教会だ。
俺は、戻ってきたのか。
どうやって?
考えようとするたび、意識が深い水の底へ沈んでいくような感覚に襲われた。
そのとき、記憶がつながった。
折れた槍。
血に濡れた頬。
重い大剣を握った手。
そして_____。
「父、さん」
声にした途端、胸の奥がひどく痛んだ。
思い出したくない。
けれど、一度浮かんだ光景は、俺の意思なんて関係なく頭の中に広がっていく。
森の奥。
荒れ果てた地面。
頭から離れない獣の唸り声。
父さんの姿を探して、俺は何度も名前を呼んだ。
そして、見つけたんだ。
そこにいたのは、いつも俺の前を歩いていた父さんではなかった。
狩りの仕方を教えてくれた背中も、俺の失敗を笑って許してくれた顔も、もうどこにもなかった。
ジャイガさんも同じだった。
いつも黙っていて、何を考えているのか分からない人だったけれど、危険なときには必ず頼りになった。
そんな二人が、あの場所に倒れていた。呼んでも、返事はなかった。
触れても、起き上がらなかった。
「っ、あ……」
息が詰まった。
気づけば、両手が顔を覆っていた。
指の隙間から、熱いものがこぼれ落ちる。止めようとしても、止まらなかった。
声を殺そうとした。誰かに聞かれるのが嫌だった。
泣いているところなんて、見られたくなかった。
けれど、そんなことを気にしていられるほど、俺は強くなかった。
「父さん……」
何度呼んでも、返事はない。当たり前だ。
分かっている。
分かっているのに、呼ばずにはいられなかった。
もっと強くなりたかった。父さんのようになりたかった。
いつか隣に並んで、同じように森を歩けるようになりたかった。
なのに、俺は何も守れなかった。
マルヒさんを失った。
ジャイガさんも、父さんも。
カイルだって、あのとき運良く間に合ったが、間に合わなければどうなっていたか分からない。
俺がもっと強ければ。俺が、あの熊を倒せていれば。
こんなことにはならなかったのだろうか。
答えなんて、出るはずもないのに。
ただ、悔しかった。
何もできなかった自分が、どうしようもなく情けなかった。
どれくらい泣いていたのか分からない。やがて、顔を覆っていた手を下ろした。
目の奥が痛い。喉もひどく渇いていた。
それでも、ひとつだけ確かめなければならないことがあった。
「……神父様」
近くにいた老人が、すぐに顔を向けた。
「アルトリウス! 目が覚めたのか」
神父様は驚いたように俺の顔を覗き込み、それから、ほっと息を吐いた。
「よかった……本当によかった。まだ動いてはいけない。五日間も高熱が続いていたんだ」
「五日……?」
「ああ。傷もひどかった。君がここまで持ちこたえられたのが不思議なくらいだ」
五日間も眠っていたのか。身体の重さに納得がいった。
けれど、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
「カイルは……?」
自分でも驚くほど、声が震えた。
「カイルは無事なんですか?」
神父様の表情が、わずかに曇った。
その一瞬だけで、胸が冷たくなった。
「……カイルは、生きているんですか」
「ああ。命に別状はない」
その言葉を聞いた途端、張り詰めていたものが切れた。
「……よかった」
本当に、よかった。俺は枕に頭を沈め、深く息を吐いた。
カイルは生きている。
片脚を失ったと聞かされたわけではない。けれど、あのときの傷を思えば、無事とは言えないのだろう。
それでも、生きている。
あのとき俺が傷口を押さえ、止血して、馬に乗せて村へ向かわせたことは、無駄ではなかった。
あの時俺にできたことが、ひとつだけでもあった。
そう思えたことが、今は救いだった。
「君が必死に血を止めて、村へ向かわせたそうだ。あの判断がなければ、命も危険だったかもしれない」
神父様の言葉に、俺は小さくうなずいた。
けれど、喜ぶことはできなかった。
「……神父様」
「どうした?」
「父さんたちは……」
言葉が続かなかった。
聞かなくても分かっている。
それでも、誰かの口から聞くのが怖かった。
神父様はしばらく黙って。俺の肩にそっと手を置いた。
「……アーマンも、ジャイガも、もう戻らない」
分かっていた。
森で見たときから、ずっと分かっていたんだ。
それでも、改めて言葉にされると、胸の奥が引き裂かれるようだった。
俺は再び顔を覆った。
涙は、もう出ないと思っていた。けれど、そんなことはなかった。
声にならない嗚咽が、何度も喉を震わせる。
父さん。俺は、これからどうすればいいんだ。
あんたがいないのに。
何を頼りに、何を目指して生きていけばいいんだ。
答えは返ってこない。
ただ、神父様の手が、俺の肩に置かれたままだった。
その温もりだけを頼りに、俺はしばらく泣き続けた。




