06.闘争、そして決着
長めです。
森の奥から、獣の唸り声が聞こえる。
走るたびに、足元の枯れ葉が砕け
枝が頬をかすめ、露に濡れた草が足に絡みつく。その感覚が酷く不快だったが、それでも速度を緩めることはできなかった。
父さん。
ジャイガさん。
どうか、無事でいてくれ。
何度も心の中で繰り返す。
けれど、胸の奥では分かっていた。
あの巨熊を前にして、二人が無事でいられる保証など、どこにもない。
マルヒは死んだ。
カイルも、あれほどの傷を負った。
自分だけが生き残って、二人を置いて逃げた、と。
それでも、戻らなければならない。
何ができるかなんて分からない。
あの一瞬のように、何かが起こる保証もない。
それでも。
父さんを置いていくことだけは、できなかった。
いや、父さんだけじゃない。
ジャイガさんも。
マルヒさんも。
カイルだって、まだ助かったと決まったわけではない。
皆と過ごしてきた日々が、頭の中を駆け巡る。
もう誰も失いたくなかった。
木々の間を抜け、開けた場所へ出る。
_______そこで、足が止まった。
「……あ」
声が漏れた。
折れた木々が、地面に散乱していた。
太い幹には深い傷が刻まれ、土は何度も踏み荒らされたようにえぐれている。草の上には赤黒い血が広がり、折れた枝の先にも、飛び散った血と肉がこびりついていた。
ここで、何が起きたのか。
考えるまでもなかった。
その中央に、巨熊がいた。
背を向け、何かに食らいついている。
骨の砕ける音がする。
湿った肉を噛みちぎる音が、静かな森に響いていた。
アルトリウスは、木の陰に身を隠した。
見たくない。
けれど、目を逸らすこともできない。
巨熊の足元に、見覚えのある服が見える。
見慣れた色。
何度も目にしてきた、あの服。
その先にある体格にも、覚えがあった。
「……父、さん?」
声が、喉に引っかかった。
一歩、前へ出る。
もう一歩。
そして、見てしまった。
そこに横たわっていたのは、間違いなく父だった。
けれど、その姿は、アルトリウスの知る父とはあまりにも違っている。
体は巨熊に蹂躙され、衣服は引き裂かれ、血にまみれていた。体のあちこちが潰れ、かつて力強く槍を振るい、自分の前を歩いていた父の面影さえ、まともに見つけられない。
「……嘘、だろ」
足元が揺れた。
父さんが、こんな。そんなはずがない。何かの間違いだ。
そう思いたかった。
そのとき、少し離れた場所に、もう一つの影が見えた。
大きな体。
見慣れた大剣。
ジャイガさん_____。
彼の体は、上半身と下半身が分かたれていた。
それでも、アーマンの姿とは違い、上半身にはまだ、かつての面影が残っている。
無口で、無愛想で、それでも仲間が危険にさらされれば、誰よりも早く動いた男。
その顔は、驚くほど静かだった。
まるで、いつものように黙って休んでいるだけのように。
けれど、もう二度と、その大きな体が立ち上がることはない。
「……ジャイガ、さん」
呼びかけても、返事はない。
当然だ。分かっていた。
目の前にあるものが何なのか、もう分かっていた。
それでも、認めたくなかった。
父さんも。
ジャイガさんも。
本当に、死んでしまったのか。
嘘だ。
そう思った。
何かの間違いだ。父さんが死ぬはずがない。
ジャイガさんが、こんなところで死ぬはずがない。
だって、二人とも強かった。
俺なんかより、ずっと。
どんな獣が相手でも、二人なら何とかしてくれる。そう思っていた。
今までずっと_____そうだったんだ____。
父の背中を追いかけていれば大丈夫だった。
困ったときには、父が道を示してくれた。
自分が間違えれば叱り、危険なときには守ってくれた。
そしてジャイガは、そんな父と並んで戦っていた。
言葉は少なくても、その背中はいつだって頼もしかった。
二人がいれば、どんな危険な狩りでも乗り越えられる。
いつの間にか、それが当たり前になっていた。
十五歳になった。
槍も上達した。
いつか父と肩を並べて、村を守れる狩人になる。
その日が来るのを、当たり前のように信じていた。
なのに。
「……なんで」
膝から力が抜けた。
地面に手をつく。指先の冷たい土の感触が妙に鮮明に伝わってくる。
「なんでだよ……」
涙が、落ちた。
一滴。
また一滴。
止めようとしても、止まらなかった。
声を殺そうとしても、喉の奥から嗚咽が込み上げてくる。
父さん。
父さん。
頭の中で、何度も呼んだ。
何かを教えてほしかった。
いつものように、立ち上がれと言ってほしかった。
まだ何も終わっていないと、そう言ってほしかった。
けれど、返事はない。
巨熊は、今も死体を貪っている。
まるで、そこにあるのがただの獲物でしかないかのように。
その光景を見た瞬間、胸の奥で何かが切れた。
涙が止まったわけではない。
悲しみが消えたわけでもない。
ただ、それよりも強い感情が、内側から溢れ出してきた。
許せない。
あいつが。
目の前の化け物が。
父さんを_____。
ジャイガさんを_____。
マルヒさんを_____。
奪った________!
「……返せよ」
震える声が漏れた。
「返せよ……!」
握りしめた拳に、爪が食い込む。視界が滲み。息は荒くなる。
食いしばった歯から嫌な音が鳴った。
恐怖も、悲しみも、何もかもが怒りに塗り潰された。
気づけば、アルトリウスは自分の槍を握りしめていた。
狩りのために何度も振るい、父に教わりながら使い続けてきた槍。
その柄を握る手に、力がこもる。
死ね……!
木の陰から飛び出した。
巨熊が振り返る。
間に合うかどうかなど、考えなかった。
ただ、突き刺す。
目の前の化け物を、貫く。
それだけだった。
全身の力を込め、槍を突き出した。
穂先が巨熊へ迫る。
その瞬間。
槍の先で、景色が歪んだ。あの蜃気楼のようなモヤ。
巨熊の体を包む、薄い揺らぎ。
穂先が触れた途端、見えない壁に弾かれたように軌道が逸れた。
「なっ……!」
乾いた音が響く。
次の瞬間、槍の穂先が砕けた。
あまりにも簡単に。あまりにも呆気なく。
使い慣れた槍が、木片となって地面に散らばった。
「……あ」
手の中には、折れた柄の一部だけが残っていた。
何が起きたのか、理解できなかった。
これでは届かない。
自分の槍では、届かなかった。
怒りに任せて飛び出した自分は、何もできなかった。
巨熊が、ゆっくりとこちらへ顔を向ける。
口の周りには、まだ血がこびりついていた。
その目が、アルトリウスを捉えている。
「……っ」
体が凍りついた。
あのときのような感覚は、訪れなかった。
世界が遅くなることもない。爪の軌道が見えることもない。
目の前にいるのは、ただ自分を殺そうとしている巨大な獣だった。
巨熊が動いた。
反射的に体をひねる。
爪が首筋をかすめた。
熱い_____!
そう思った直後、激しい痛みが走った。
首から頬にかけて、何かが裂ける感覚。
遅れて、血が流れ出した。
「ぐっ……!」
地面に転がり、どうにか距離を取る。
手を当てると、指先が赤く染まった。
浅くはない。
けれど、首の骨や太い血管までは届いていないようだった。
運がよかった。
あと少しずれていたら、今頃は父さんたちと同じ場所に倒れていただろう。
巨熊が一歩、近づいてくる。
地面が揺れた。
逃げなければ。
そう思う一方で、体が動かなかった。
父は死んだ。
ジャイガも死んだ。
マルヒも、もういない。
自分の武器は砕けた。
そして、この化け物には傷一つついていない。
何もできない。何も守れない。
何もかも、失っていく。
「……くそっ」
奥歯を噛みしめた。
どうすればいい。
どうすれば、こいつを倒せる。武器はない。
まともに戦えば、一撃で殺される。
さっきの力は、もう使えない。
なら、どうする。どうすればいい。
考えろ。
考えろ、アルトリウス。
そのとき、頭の中に父の声が響いた。
______使えるものは、何でも使え。
幼い頃、狩りの準備をしていたときに言われた言葉だった。
『道具がなければ、周囲を見ろ。
獲物が逃げたなら、足跡を追え。
自分の力だけでどうにもならないときは、知恵を使え。
狩りとは、ただ獲物を追いかけ、武器を振るうことではない。
生きて帰るために、持っているものをすべて使うことだ』
「……使えるもの」
荒い息を吐きながら、周囲を見回す。
折れた木。
散らばった枝。
地面に刻まれた深い爪痕。
そして、少し離れた場所。
地面に突き刺さった、大剣。
ジャイガの大剣。
あの巨体が振るっていた、重い大剣。
アルトリウス一人で扱うのも難しいだろう。
だが、今はそれしかない。
巨熊が、低く唸る。時間はない。
アルトリウスは地面を蹴った。
大剣の柄を掴む。
「……っ、!」
腕にずしりとした重みが伝わった。
両手で柄を握り、歯を食いしばって引き抜く。
土が崩れ、剣身が陽光を受けて鈍く光った。
大剣など、今まで一度も扱ったことがない。
それなのに、不思議と手に馴染んだ。
____いつもより少し重いな。
そんな感覚が、ほんの一瞬だけ頭をよぎる。
それ以上、考える余裕はなかった。
巨熊が迫る。
アルトリウスは剣を構えた。
_______________
巨熊の前脚が振り下ろされる。
まともに受ければ、腕ごと潰される。分かっている。
だから、受け止めない。
剣を斜めに構え、爪の進路へ滑り込ませる。衝撃が腕に伝わる。
重いッ.....!
だが、耐えられないほどではない。
大剣の刃が爪に触れ、巨熊の一撃がわずかに逸れた。
その隙に、踏み込み。大剣を振り上げる。
巨熊の胴体へ向けて、全身の力を叩き込んだ。
だが、巨熊は跳び退いた。
巨体に似合わない動きで距離を取り、剣の間合いから逃れる。
刃は毛皮をかすめただけだった。
「……っ」
手応えはない。けれど、さっきまでとは違う。こちらの攻撃を、避けた。
目の前の化け物が、自分の一撃を警戒している。
その事実が、わずかな希望になった。
巨熊は低く唸り、こちらを睨みつけている。
アルトリウスもまた、剣を構えたまま動かなかった。
どれほどの時間が過ぎたのだろう。ほんの一瞬だったのかもしれない。
それとも、ひどく長い時間だったのか。
森の音が遠のいたように感じた。
風が枝を揺らしている。
どこかで、折れた木の枝が地面に落ちた。
その静けさの中で、アルトリウスは巨熊の体を見つめていた。
そして。見えた_______。
巨熊の輪郭に、あのモヤが浮かんでいる。
陽炎のような歪み。体の表面を覆う、薄い揺らぎ。
先ほど槍を弾いた。あの異様な現象を引き起こした原因。
アルトリウスは目を凝らした。
モヤは巨熊の動きに合わせて揺れ、形を変えている。
どこかに突破口があるのか。そう考え、剣を握り直した。
巨熊が低く唸る。
次の瞬間、地面を蹴って突進してくる。
先程よりも目は冴えている気がした。
再び剣を構え、迫る巨体を迎え撃つ。
______________
一撃。
剣と爪がぶつかる。衝撃は肩まで突き抜けた。
二撃。
巨熊の前脚が横薙ぎに迫り、剣で受け流す。
三撃。
爪が頬のすぐそばを通り抜け、風圧で髪が揺れた。
一歩でも判断を誤れば、次は避けられない。
巨熊の力は圧倒的だった。
剣をぶつけるたびに腕が痺れ、足元の土が削れていく。
それでも、アルトリウスは踏みとどまった。
剣を受け止めるのではなく、逸らす。
真正面からぶつからず、相手の動きを利用する。
父から教わった狩りの知識が、次々と頭に浮かんでくる。
相手の動きを読む。無駄な力は使わない。
勝てない相手には、正面から挑まない。
けれど、今は逃げるわけにもいかない。巨熊の一撃を受け流し、剣を振り抜く。
刃が巨熊の肩へ迫る。だが、触れる寸前。
また、景色が歪んだ。
刃先が何かに押し流されるように逸れ、黒い毛並みをかすめる。
「クソっ!」
手応えはない。
もう一度、踏み込む。今度は胴体を狙って剣を振るう。
しかし、結果は同じだった。
刃が届く直前に、モヤが揺らぐ。
剣先はわずかに逸れ、巨熊の体を捉えられない。
何度試しても、届かない。力が足りないのか。
それとも、振り方が悪いのか。
分からない。
目の前には、確かに巨熊の体がある。手を伸ばせば届きそうな距離にいる。
それなのに、剣だけが届かない。
まるで、目に見えない何かに阻まれているようだ。
巨熊が吠えた。
その咆哮に、木々が震える。
背筋を、恐怖が駆け抜けた。けれど、足は止まらなかった。
剣を握る手に、力がこもる。
なぜ、攻撃が通じないのか。どうすれば、このモヤを越えられるのか。
考えている間にも、巨熊の爪が迫る。
アルトリウスは身をひねり、辛うじて一撃をかわした。
_____________
何度目の攻防か、もう分からない。
腕が重い。
呼吸が荒い。
全身から汗が噴き出し、首から肩にかけての傷が、脈打つたびに鈍く痛んだ。血が流れ続けている。傷口を押さえる余裕はない。
剣を振るうたび、傷が引きつり、視界の端が白く明滅する。
まずい。このままでは、持たない。
巨熊も無傷ではなかった。
肩には切り傷が走り、前脚の毛並みには血が滲んでいる。それでも、動きは衰えを全く見せない。
対して、アルトリウスの体は限界に近づいていった。
剣を受け流すたび、腕にかかる負担が増していく。
最初は何とか逸らせていた一撃も、今では受け止めるだけで精一杯になりつつある。
一歩、後退する。
もう一歩。
足元の土が崩れ、背中に木の幹が触れた。逃げ場がない。
巨熊がこちらを見据える。
口元から、血の混じった唾液が滴り落ちた。剣を握り直す。
指先の感覚が薄れてきた。腕が震える。息を吸うたびに、首の傷が焼けるように痛んだ。
もう一度、あの力を使えないのか。世界が遅く見えた、あの瞬間。自分だけが異常な速度で動けた、あの感覚。
けれど、起きなかった。
ただ、巨熊がそこにいて。自分を殺そうとしている。
それだけだった。
「……くそ」
声が漏れた。何度同じ事を呟いた事か。
こんなところで終わるのか。
父も、ジャイガも、マルヒも死んだ。カイルは足を失った。
自分までここで死んだら、何も残らない。何も守れないまま。何もできないまま。
それだけは、嫌だった。
巨熊が、ゆっくりと前脚を持ち上げた。
次の一撃。
避けられるかどうか、分からない。
受け流せるかどうか、分からない。
それでも、アルトリウスは剣を構えた。
これが最後かもしれない。そう思った。
怖い___。今すぐにでも逃げ出したい____。
父のところへ行きたかった。もう一度、その声を聞きたかった。
けれど、ここで背を向けたら。
自分は、何のために戻ってきたのだろう。
「……もう、誰も失いたくない」
声はかすれていた。それでも、その思いだけは消えなかった。
巨熊が踏み込む。地面が砕けた。
振り下ろされる爪。
アルトリウスは最後の力を振り絞り、剣を構えた。
腕は震えている、足ももはや棒のようで限界だった。息を吸うことさえ苦しい。
それでも、目だけは巨熊を捉えていた。
そして、その輪郭に。再び、モヤが浮かんだ。
陽炎のような歪み。
何度も攻撃を阻み、何度も刃を逸らしてきた、あの揺らぎ。
もう駄目かもしれない。そう思った、その瞬間だった。
モヤが揺れた。
巨熊の動きに合わせ、幾重にも重なった歪みが流れていく。
その中に、ほんの一瞬。ごくわずかに、揺らぎが途切れた。見間違いかもしれない。
次の瞬間には、もう消えてしまいそうなほど小さな隙間。
けれど、確かにそこだけ、何かが違っていた。なぜ見えたのかは分からない。
どうしてそこが違うと分かったのかも、分からない。
ただ、その一瞬だけ。
今まで何度攻撃しても届かなかった理由が、分かったような気がした。
考える時間はなかった。巨熊の爪は迫っている。
アルトリウスは大剣を引き、全身を低く沈めた。
足に力を込め、地面を踏みしめる。背中から肩へ。肩から腕へ。
残された力を、すべて剣へと集めていく。
筋肉が軋んだ。腕が膨れ上がり、皮膚の下に血管が浮かび上がる。
肩から背中にかけても、筋肉が異様に盛り上がった。
自分の体とは思えなかった。
痛みも、疲労も、消えたわけではない。
それでも、その瞬間だけは、すべてが遠のいていた。
目の前の隙間だけが、はっきりと見える。
今しかない_____。
アルトリウスは、剣を振り抜いた。渾身の一撃だった。
巨熊の爪と、大剣が交差する。凄まじい衝撃が森を揺らした。
キィ________ン__!
ボトッ
黒い毛並みが舞い、赤い血が弾けた。巨熊の前脚が、地面へと落ちる。
自分が、斬った。
そう理解したときには、もう巨熊が悲鳴のような咆哮を上げていた。
切断された前脚から嘘のように血が噴き出し、巨体が大きくよろめいた。
その直後だった。手元から、乾いた音が響く。
ピシッ。
アルトリウスの目が、わずかに見開かれる。大剣の刃に、一本の亀裂が走った。
亀裂は瞬く間に広がり、刀身の中央へと伸びていく。
そして。ガシャンと大剣が砕け散った。
刃の破片が地面に散らばり、柄だけが手に残る。
最後の一撃に、すべてを注ぎ込んだ代償だったのか。
アルトリウスは、柄を握ったまま立ち尽くしていた。
腕が震えている。視界が揺れる。呼吸ができないほど、胸が苦しい。
それでも、目の前の光景だけは、はっきりと見えている。
巨熊が傷ついている。あれほど圧倒的だった化け物が。自分では傷一つつけられないと思っていた相手が。
確かに、傷ついている。
「……はあ、はあ……」
息を吐く。足元が覚束ない。
もう一度、剣を振るう力は残っていない。
巨熊もまた、こちらを睨みつけている。
その目には、先ほどまでとは違う色が浮かんでいる。
怒りか。警戒か。それとも、恐怖だったのか。
巨熊が一歩、後ずさる。地面に落ちた前脚を振り返り、再びこちらを見た。
そして。低く唸りながら、巨体を翻す。
折れた枝を踏み砕き、木々の間へと姿を消していく。
重い足音が遠ざかる_______。
やがて、それも聞こえなくなった。
森に、静けさが戻ってくる
_______________
手元に残った柄が、指の間から滑り落ちた。乾いた音が、静かな森に響く。
アルトリウスは、ゆっくりと膝をつく。
「……はっ、はあ……」
息が苦しい。体が重い。首から頬にかけての傷が、思い出したように激しく痛み始めた。手で押さえると、指の間から血が溢れてくる。
止めなければ。
そう思っても、体が思うように動かない。
腕の筋肉は、先ほどまでの異様な膨らみが嘘のように、少しずつ力を失っていく。
何だったのだろう、あの力は。
どうして自分に、こんなことができたのだろう。
答えは、何も分からない。
ただ、巨熊は逃げた。それだけは確かだ。
アルトリウスは顔を上げた。
森の木々の間から、午後の光が差し込んでいる。
風が吹き、葉が揺れる。
ついさっきまで、ここでは仲間たちの声が響いていた。
マルヒの冗談。
ジャイガの低い声。
父の指示。
もう、聞こえない。
アルトリウスは、二人のもとへ目を向けた。
アーマンの姿は、相変わらず地面に横たわったままだった。
ジャイガも、動かない。何も変わっていない。
巨熊を退けたところで、二人が戻ってくるわけではなかった。
「……父さん」
声が震えて。涙が、また頬を伝った。
「……ごめん」
何に対する謝罪なのか。
もっと強ければ。もっと早く戻っていれば。何か一つでも違っていたら。
そんな考えが、頭から離れなかった。
けれど、いくら考えても、父は戻らない。ジャイガも、マルヒも戻らない。
今はただ、残された人たちのもとへ帰るしかなかった。
地面に手をつき、立ち上がろうとする。
「……っ」
膝に力が入らない。
もう一度、地面に手をつく。腕が震え、視界が大きく揺れた。
それでも、どうにか足を伸ばした。
一歩だけでも。村へ帰るために。
けれど、頭がうまく働かなかった。
息を吸うたびに傷が痛む。体の芯から力が抜けていく。
今すぐ父たちのそばへ行きたい。
だが、このままでは自分まで動けなくなる。そうなれば、誰も助けを呼べない。
「……一度、村に……」
掠れた声で呟いた。
村へ戻ろう。大人たちを連れて、もう一度ここへ来よう。二人を運ぶには、人手がいる。担架も必要だ。
自分一人では、どうにもできない。分かっている。
分かっているのに、二人を残していくことが、どうしても怖い。また、置いていくのか。また、自分だけが逃げるのか。
「……違う」
小さく首を振った。
逃げるわけじゃない。助けを呼びに行くだけだ。今度は必ず戻ってくる。だから、少しだけ。ほんの少しだけ、休もう。
血を止めて、息を整えて、足に力が戻ったら村へ向かおう。
父さんたちは、ここにいて。あの巨熊はもういない。だから、まだ大丈夫だ。
そう自分に言い聞かせる。
アルトリウスは、倒れないように地面へ手をついた。冷たい土が掌に触れた。
「……少しだけ、休んだら……すぐ、戻るから」
誰に向けた言葉なのか。
まぶたが重い。地面が傾いているように感じる。
「……帰らなきゃ……」
声が、ひどく遠く聞こえた。
カイルは無事だろうか。エルナたちは、手当てをしてくれただろうか。ノアもミレイアも、きっと心配している。ロイドや村の人たちも、何が起きたのか分からずに待っているはずだ。
帰って、伝えなければ。父たちのことも。森で起きたことも。そして、助けを連れて、もう一度ここへ戻る。
アルトリウスは、もう一度立ち上がろうとした。
「……っ」
足に力が入らない。膝が笑って、身体が大きく傾いた。
慌てて木の幹へ手を伸ばしたが、指先が触れただけで、うまく掴めなかった。
視界が暗くなる。
まずい
そう思ったときには、もう遅かった。
身体が地面へ崩れ落ちる。頬に、冷たい土の感触が伝わった。
起きなければ。
まだ、帰っていない。
父さんたちを迎えに来ると、決めたばかりなのに。
「……父、さん……」
かすかな声が漏れた。
瞼は持ち上げようとしても、もう開かなかった。
____________
どれほど時間が経ったのか。遠くから、声が聞こえた気がした。
「__こっちだ!」
複数の足音が、森の中を駆けてくる。
「おい! あそこに誰かいるぞ!」
「アルトリウスだ!」
聞き覚えのある声。村の人たちだ。
来てくれた。
そのことに安堵しかけたものの、意識はすでに深い闇へ沈みかけていた。
松明の明かりが、木々の間に揺れる。
駆け寄ってきた人影が、すぐそばに膝をついた。
「アルトリウス! おい、しっかりしろ!」
肩を支えられる。
誰かが首から頬にかけての傷を見て、息を呑んだ。
「ひどい傷だ……! 早く村へ運べ!」
「担架を持ってこい! 急げ!」
慌ただしい声が飛び交う。
アルトリウスの身体が、誰かの腕に抱え起こされた。
そのとき、彼はかすかに目を開けた。
ぼやけた視界の向こうに、人影がいくつも見える。自分を呼ぶ声。焦ったような声。
大丈夫だと、何度も繰り返す声。何かを伝えなければならなかった。
父たちが、あそこにいる。早く、迎えに行かなければ。
そう伝えようとした。
けれど、唇はわずかに動いただけだった。声が出ない。
身体も動かない。
「……とう、さん……」
それだけが、かろうじて口から漏れた。誰かが、手を握った。
「大丈夫。もういい、今は休め」
その言葉が聞こえた気がした。
本当に、休んでいいのだろうか。
まだ、やらなければならないことがある。
それなのに。意識は、容赦なく遠ざかっていく。
揺れる松明の明かりが、ぼやけていく。
自分を抱える腕の感触も、周囲の声も、少しずつ分からなくなっていった。
父さん。
ジャイガさん。
マルヒさん。
カイル。
皆の顔が、浮かんでは消える。
今度こそ、帰らなければ。
そう思いながら、アルトリウスは最後の力を振り絞ろうとした。
けれど、もう指先一つ動かせなかった。
意識は、完全に闇へと沈んだ。
感想、評価、ブックマークありがとうございます。
広告の下にあるポイント評価欄【☆☆☆☆☆】から、1人10ポイントまで応援することができます!
(★1つで2ポイント、★★★★★で10ポイント!)




