05.___の瞳
マルヒは、もう動かなかった。
赤く染まった地面。
折れた木の幹。
血の臭いと、巨熊の低い唸り声。
ついさっきまで聞こえていた笑い声が、嘘のように消えていた。
「……マルヒさん?」
カイルの声が、かすかに震えていた。
返事はない。
いつもなら、どんな状況でも冗談の一つくらい返してくる人だった。狩りに失敗したときも、誰かが転んだときも、真っ先に笑って場を和ませてくれた。
そんなマルヒが、地面に倒れている。
目の前の光景を理解できなかった。いや、理解したくなかった。
さっきまで一緒にいた。
いつも通り笑っていた。
また明日も、その声を聞けると疑っていなかった。
なのに。
「……ふざけんな」
隣から、低い声が聞こえた。
握りしめている弓が、ぎしりと音を立てていた。
「ふざけんなよ……!」
声が大きくなる。
「マルヒさんを……よくも!」
「カイル、待て!」
アーマンの制止が届くより早く、カイルは駆け出した。
弓を構え、巨熊へ向かって矢を放つ。
矢は熊の肩に当たった。
だが、分厚い毛皮に弾かれたのか、巨熊はわずかに身を揺らしただけだった。
「この野郎ッ!」
カイルは止まらない。
矢を放ちながら、さらに距離を詰めていく。
「戻れ、カイル!」
アルトリウスも叫んだ。
分かっているはずだ。
あんなものに、正面から挑んではいけない。
普段のカイルなら、こんな無謀なことはしない。獲物の動きを見極め、勝てない相手からは距離を取る。それが狩人としての基本だと、何度も教わってきた。
それなのに、今のカイルには何も見えていない。
怒りに飲み込まれている。
マルヒの死を目の前にして、冷静でいられる人間などいないのかもしれない。
けれど、それでも。
「カイルッ!」
叫んだ瞬間、巨熊が動いた。
大きな体が地面を蹴る。
その巨体からは信じられない速さだった。
カイルが矢をつがえる。
間に合わない______。そう思った。
巨熊の前脚が、振り上げられる。
黒く太い爪が、木漏れ日を受けて鈍く光った。
次の瞬間、カイルの体が引き裂かれる。
そんな光景が、頭の中にはっきりと浮かんだ。
「やめろおおおおッ!」
叫び声が喉を裂いた。
その瞬間だった。
世界が、止まった。
_____________
音が消えた。
風の音も、葉擦れの音も、カイルの叫び声も。
すべてが遠ざかり、深い水の底に沈んでいくようだった。
目の前では、巨熊の爪がカイルへ向かって振り下ろされている。
だが、その動きがひどく遅い。
爪の先から、細い筋のようなものが伸びていた。
いや、筋ではない。
空間が歪んでいる。
爪の周囲に、蜃気楼のような揺らぎが見える。
陽炎にも似た、薄いモヤ。
それが爪の動きに沿って揺れ、周囲の景色をわずかに歪ませている。
何だ_____これ。
頭の中に疑問が浮かんだ。
けれど、不思議と恐怖はない。
むしろ、胸の奥から何かが込み上げてくる。
熱い
体の中心から、血液が沸き立つような熱が広がってくる。
心臓が激しく脈打っているはずなのに、その鼓動さえ妙にはっきりと感じられた。
アルトリウスの瞳の縁が、黄金色に染まる。
そのとき、アルトリウスは自分の目に異変が起きていることを知らなかった。
青みを帯びた紫の虹彩。その外周には、金色の輝きが細く走っていたことも。
目元からこめかみにかけて、血管の筋が浮き上がっていたことも。
ただ、世界が違って見えた。
巨熊の動きが分かる。
爪の軌道が分かる。
カイルが次にどこへ倒れるのかさえ、なぜか理解できた。
そして、自分が何をすればいいのかも。
行け
そう思った。
いや、考えるより先に体が動いていた。
地面を蹴る。
その感覚が、ひどく鮮明だった。
足の裏が土を捉える感触_______。
草が揺れる気配______。
頬を撫でる風______。
すべてが手に取るように分かる。
それなのに、自分の体だけが世界から切り離されたように速かった。
一歩踏み出しただけのはずなのに、景色が大きく流れていく。
木々が横へ滑り、地面が遠ざかる。
まるで、世界そのものが止まっているかのようだった。
その視界の中で、一つの顔が目に入った。
ジャイガだ。
いつも無口で、どんなときも表情を大きく変えない男。
そのジャイガが、目を見開いていた。
カイルを助けるため、カイルを一点に見つめていた瞳が、こちらを見ている。
驚愕。
信じられないものを目にした人間の顔だった。
何に驚いているのか。
自分の動きなのか。
それとも、別の何かなのか。
考える余裕はなかった。
アルトリウスは、カイルへ向かって飛び込んだ。
____________
衝撃が走る。
アルトリウスの体がカイルにぶつかり、二人は地面を転がった。
その直後、巨熊の爪が空を切る。
ジャイガが大剣を叩きつけるように振り抜き、爪の軌道をわずかに逸らしていた。
轟音
空気が割れ、地面は砕け、土と枯れ葉が舞い上がる。
その音が耳に届いた瞬間、世界が元の速さを取り戻した。
風が吹く。
葉が揺れる。
誰かの叫び声が聞こえる。
「アルトリウスッ!」
父の声だった。
「……え?」
何が起きたのか、分からなかった。
気づけば、カイルと一緒に地面へ倒れ込んでいた。
腕が痛い。
肩も痛い。
けれど、それ以上に、体の内側が燃えるように熱い_____。
呼吸が乱れる。
胸が苦しい。
視界の端に、青色の残光のようなものがちらついた。
「カイル……!」
目の前の友人へ手を伸ばす。
カイルは地面に倒れたまま、苦痛に顔を歪めていた。
「うあ……うああああ....!アアアアアあ゛あ゛!」
悲鳴が森に響く。
その足元を見た瞬間、アルトリウスの思考が凍りついた。
片足が、ひどく損傷していた。
巨熊の爪がかすめたのだ。
血が地面へ流れ落ちている。
「カイル、しっかりしろ!」
肩を抱き起こす。
カイルは返事をしようとしたが、うまく声が出ない。顔から血の気が引き、額には大量の汗が浮かんでいた。
「痛え……アルトリウス、俺……」
「喋るな。今、止血するから!」
手が震えていた。
さっきまで、あんなに速く動けたのに。
あの巨熊の動きさえ、見えていたのに。
今は目の前の友人を助けるための手さえ、思うように動かない。
何なんだ、さっきのは。
どうして、自分はあんな動きができた?
考えたいことは山ほどあった。
だが、今はそれどころではない。
カイルを助けなければ。
アルトリウスは腰の小刀を抜き、衣服を切り裂いて布を作った。傷口を強く圧迫し、血が流れ続けないよう必死に押さえる。
「痛いだろうけど、我慢してくれ」
「……ああ」
カイルはかすかにうなずいた。
「大丈夫だ。絶対に村まで連れて帰る」
自分に言い聞かせるように、そう告げた。
出血はひどい。
このままでは危ない。
早く村へ連れて帰らなければ。
「アーマン!」
ジャイガの声が響いた。
巨熊が再び動いている。
父は槍を構え、マルヒが倒れている場所から巨熊を引き離そうとしていた。
ジャイガも大剣を構え直し、巨熊の正面に立っている。
二人とも、こちらを気にしている余裕はなかった。
「アルトリウス! カイルを連れて逃げろ!」
父の叫びが届く。
「でも、父さん!」
「いいから行けッ!」
その声には、普段とは違う切迫した響きがあった。
父が、あんな声を出すのを聞いたことがなかった。
胸が締めつけられる。
置いていけない。
父も、ジャイガも。
既に動かないマルヒも。
これ以上、誰かを失いたくない。
けれど、カイルは今にも意識を失いそうだった。
ここで迷っている時間はない。
アルトリウスは歯を食いしばった。
「……分かった」
_______________
馬は、少し離れた木のそばにつないであった。
アルトリウスはカイルの肩を支えながら、必死にそこまで運んだ。
体が重い。
腕が震える。
それでも、足を止めるわけにはいかなかった。
ようやく馬のそばへたどり着き、鞍に手をかける。
「カイル、聞こえるか?」
「……ああ」
返事はあった。
だが、その声は弱々しかった。
「今から馬に乗せる。村へ戻ったら、すぐに手当てをしてもらうんだ」
「お前は……?」
カイルが、かすかに顔を上げた。
その目が、アルトリウスを見つめる。
「俺もすぐに戻る」
嘘だった。
いや、戻るつもりではいた。
けれど、父たちを置いて逃げることなどできなかった。
カイルも、それを察したのかもしれない。
「……馬鹿野郎」
かすれた声で、カイルが言った。
「お前……死ぬなよ」
その言葉に、胸の奥が痛んだ。
「お前こそ、絶対に死ぬな」
アルトリウスはカイルの体を慎重に馬の背へ乗せた。落ちないように体を固定し、手綱を握らせることもできないため、馬が村へ向かうよう向きを整える。
馬の首を撫でた。
「頼む。どうかカイルを村まで連れて帰ってくれ.....!」
馬は鼻を鳴らした。
まるで、言葉を理解したかのようだった。
アルトリウスは手綱を引き、馬を森の出口へ向かわせた。
蹄の音が、少しずつ遠ざかっていく。
カイルの姿が木々の間に隠れた。
これでいい。
あいつは助かる。
そう自分に言い聞かせた。
けれど、安堵はなかった。
森の奥から、木々をへし折る音が聞こえてくる。
巨熊の唸り声。
父の叫び声。
そして、あの音。
何かが壊される音。
アルトリウスは振り返った。
自分の手を見る。
さっき、確かに何かが起きた。
世界が止まったように感じた。
自分だけが、異常な速さで動いていた。
あのときの感覚が、まだ体の奥に残っている。
恐ろしかった。
なのに。
ほんの一瞬だけ、何でもできるような気がした。
巨熊さえも、自分の手で倒せるのではないかと。
胸の奥に、得体の知れない高揚感が残っていた。
自分の体なのに、自分のものではないような感覚。
あの力は何だったのか。
どうして今、目覚めたのか。
分からない。何一つ分からない。
けれど、一つだけ確かなことがあった。
父たちが、まだあの場所にいる。
「……待ってて、父さん」
槍を握り直す。
今度は、手の震えを抑えることができた。
怖くないわけではない。
足がすくみそうになる。
逃げたいと思う自分もいる。
それでも____もう誰も失いたくなかった。
アルトリウスは、再び森の奥へと駆け出した。




