04.異変の正体
昔は森に違和感を感じていた。
けれど、いつしか違和感は日常に変わっていく。
鳥の声が少なくなったのは、いつからだったろうか。
以前は朝になると、森のあちこちから鳥のさえずりが聞こえてきた。木々の間を飛び交う小さな影を追いかけたこともある。父と狩りに出かけたばかりの頃は、鳥の声が途切れるたびに、何か異変が起きているのではないかと気にしていた。
今では、そんなこともほとんど考えなくなっていた。
獣の姿を見かける場所が変わり、以前なら簡単に見つかった足跡も、森の奥へと続くことが増えた。
それでも、森は森だった。
木々は変わらず枝葉を広げ、草花は季節ごとに芽吹き、枯れていく。雨が降れば土はぬかるみ、晴れた日には木漏れ日が地面を照らした。
何かがおかしい。
そう感じていたはずなのに、気づけばそれが当たり前になっていた。
村の人々も同じだった。
肉が減ったと愚痴をこぼす者はいても、森そのものを恐れる者はいない。生活に必要なものを森から得る以上、そこにある変化を受け入れ、暮らしを続けていくしかなかった。
そうして、五年の月日が流れた。
⸻
「右だ、アルトリウス!」
アーマンの声が飛んできた。
反射的に体をひねる。
次の瞬間、手にした槍が風を切った。
穂先は狙った場所を正確に捉え、獲物の動きを封じる。
「……よし」
息を吐き、槍を引いた。
十歳の頃は、槍を振るうだけで精一杯だった。
力任せに振り回しては父に叱られ、獲物を追いかけることに夢中になって、周囲への注意を怠ったこともある。
森では一つの失敗が命取りになる。
父は何度もそう言っていた。
足跡を読むこと。風向きを確かめること。獲物の逃げ道を予測すること。そして、目の前のことだけに気を取られないこと。
あの日、初めて獲物を仕留めたときには、何もかもが新鮮だった。
今では、その一つひとつが体に染みついている。
「ずいぶん上手くなったな」
父が近づいてきた。
日に焼けた顔には、いつもと変わらない落ち着きがある。
「まだ父さんには敵わないよ」
「当たり前だ。まだ十五だろう」
「じゃあ、あと五年もしたら追いつけるかな」
「どうだろうな」
父は口元を緩めた。
「その頃には、俺ももっと上手くなっているかもしれんぞ」
「ずるいな、それ」
思わず笑ってしまった。
昔は、父の背中がひどく大きく見えた。
森を歩く足取りも、槍を構える姿も、自分とは何もかもが違っていた。いつか自分もあんなふうになりたい。そう思って、何度も父の動きを真似した。
今も、父の背中は大きい。
けれど、少しだけ近づけた気がしていた。
「おーい! こっちも終わったぞ!」
森の向こうから、聞き慣れた声が響いた。
カイルだった。
弓を手にした彼は、仕留めた獲物のそばで得意げに手を振っている。
「見たか、アルトリウス! 今のは完璧だっただろ!」
「声が大きい。獲物が逃げるぞ」
「もう仕留めたって言ってるだろ!」
「次の獲物がいるかもしれないだろ」
「……あっ」
カイルは慌てて口を閉じた。
その様子を見て、少し離れた場所にいたマルヒが吹き出した。
「はははっ! お前ら、本当に仲がいいな!」
銀色の髪を後ろへ流し、弓を肩にかけたマルヒは、今日も楽しそうだった。
五年前と比べても、彼の調子はほとんど変わらない。
狩りの腕は村でも指折りで、遠くの獲物を射抜く技術は、カイルが目標にしているままだった。
それなのに、仕事の合間には冗談ばかり口にする。
「マルヒさんが余計なことを言うから、カイルまで騒ぐんですよ」
「おいおい、アルトリウス。俺はこいつの将来を考えてだな……」
「何を考えてるんですか?」
「村一番の弓使いになったとき、誰に最初に感謝するべきかってことだ!」
「それ、自分の名前を言わせたいだけだろ!」
カイルが叫ぶ。
「おっ、よく分かったな!」
「分かるわ!」
二人のやり取りに、アルトリウスも笑った。
こういう時間が好きだった。
狩りの最中は気を張っていなければならない。獲物を逃せば村の食卓が少し寂しくなるし、判断を誤れば仲間を危険にさらすこともある。
けれど、ひと仕事終えたあとの何気ない会話には、どこか安心できるものがあった。
「静かにしろ」
低い声が割って入った。
ジャイガだ。
大柄な体に似合う大剣を背負い、いつものように表情をほとんど変えずに立っている。
「お前たちの声は森の外まで聞こえそうだ」
「ジャイガさんまでそんなこと言うんですか?」
カイルが不満そうに口を尖らせた。
「事実だ」
短く返され、カイルは言葉に詰まった。
マルヒが再び笑い出す。
森の木々の間に、彼らの声が広がっていった。
その頭上を、一羽の鳥が飛び去った。
誰も気に留めなかった。
_____________
村へ戻る頃には、空が茜色に染まり始めていた。
草原を渡る風が、伸びた草の穂先を揺らしている。遠くでは家畜の鳴き声が聞こえ、炊事場からは夕食の支度をする煙が細く立ち上っていた。
この景色も、昔から変わらない。
いや、変わったところもある。
村の入り口にあった古い柵は何度か修繕され、家畜を囲う柵も以前より頑丈になった。畑は少しずつ手入れが行き届くようになり、村人たちは限られた食料を無駄にしないよう工夫するようになった。
森から得られる獲物が減ったことは、誰もが知っている。
それでも、村は暮らしを続けていた。
「アルトリウス、おかえり!」
広場から声がした。
薪を運んでいたノアが、こちらを振り返っている。
五年前は仲間の中でも特におとなしく、体つきも細かった彼だが、今では見違えるほど大きくなった。
肩幅が広く、腕も太い。薪の束を抱えて歩いている姿は、村の大人たちと並んでも引けを取らない。
仲間の中で、最も体が大きくなったのは間違いなくノアだ。
「ただいま。重そうだな。手伝おうか?」
「大丈夫。これくらいなら平気だよ」
そう言って、ノアは薪を抱え直した。
その動作には余裕がある。
「それより、今日も獲物は少なかった?」
「ああ。見つからないわけじゃないんだけど、以前よりずっと少ないな」
「やっぱり森、変わっちゃったのかな」
ノアの言葉に、アルトリウスは森の方角を見た。
村からは木々の上の方しか見えない。
日が落ち始めた森は、遠くから見ると黒々とした壁のようだった。
「どうだろう。父さんたちも、原因は分からないみたいだ」
「そっか……」
ノアはそれ以上、何も言わなかった。
アルトリウスも、森から視線を戻した。
昔は気になっていた。
どうして鳥の声が減ったのか。どうして獣たちは森の奥へ移動していくのか。
けれど、五年経っても答えは見つかっていない。
考えたところで分からないこともある。
今のアルトリウスにとって、それはいつの間にか受け入れてしまったことの一つだった。
広場の反対側では、エルナが小さな子供たちに薬草の見分け方を教えている。
相変わらず面倒見がよく、困っている人を放っておけない性格は変わっていない。子供たちが間違った薬草を手に取ると、優しく説明しながら正しいものを教えていた。
その少し先では、ミレイアが壊れた荷車の車輪を調べていた。
「何してるんだ?」
アルトリウスが尋ねると、彼女は顔を上げた。
「車輪の修理。軸が歪んでるから、部品を替えないと駄目みたい」
「そんなことまで分かるのか」
「見れば分かるよ」
「俺には分からないけどな」
「アルトリウスは狩りのことばかり考えてるからでしょ」
淡々とした言い方に、アルトリウスは苦笑した。
昔から、ミレイアは物事をよく見ていた。
人の様子も、道具の不具合も、他の人が見落とすような小さな変化にも気づく。
そんな彼女だからこそ、何かに気づいたときには、きっと誰よりも早く見抜くのだろう。
「……お前、少し変わったな」
ふと、そんな声がした。
振り向くと、ロイドが立っていた。
かつてアルトリウスたちをからかっていた、二つ年上の少年。
当時は体の大きさを笠に着て、何かにつけて突っかかってきた。父親が狩人であることを理由にアルトリウスをからかったことも、一度や二度ではない。
けれど、今のロイドに、あの頃のような乱暴さはなかった。
体つきは大きくなり、顔つきにも幼さが薄れている。手には農具を持ち、服には畑の土がついていた。
「ロイドか。何が?」
「いや……昔はもっと、ガキっぽかった気がしてな」
「それはお互い様だろ」
アルトリウスが返すと、ロイドは少しだけ顔をしかめた。
「うるせえな」
その言葉だけ聞けば昔と同じだ。
けれど、そこに敵意はなかった。
「今日は畑の手伝いか?」
「ああ。親父に頼まれた。明日は柵の修理もある」
「忙しそうだな」
「村で暮らしてるんだから、やることくらいあるだろ」
ロイドはそう言って、手にした農具を肩に担ぎ直す。
それから、少しだけ言いよどむようにして続けた。
「……お前らも、いつも森に出て大変だろ。獲物が少ないって聞いたぞ」
「ああ。でも、何とかやってるよ」
「そうか」
短い返事だった。
ロイドはそれ以上何も言わず、広場を横切っていった。
その背中を眺めながら、アルトリウスはふと思う。
人は変わるものなんだな。
あの頃のロイドは、誰かを困らせることを面白がっているように見えた。
今は違う。
何があったのか、本人に聞いたことはない。けれど、少なくとも今の彼は、村のために働いている。
五年という時間は、人を変えるには十分な長さなのかもしれない。
「アルトリウス?」
エルナの声に、我に返った。
「どうしたの、ぼんやりして」
「いや、何でもないよ」
「疲れてるんじゃない? 今日は早く休んだほうがいいよ」
「大丈夫。心配してくれてありがとう」
そう答えると、エルナは安心したように微笑んだ。
広場には、いつもと変わらない村の風景が広がっている。
子供たちの笑い声。
夕食の支度をする人々の声。
家畜の鳴き声と、風に揺れる草の音。
この村が好きだった。
特別なものは何もない。
けれど、ここには家族がいて、友人がいて、自分が帰る場所がある。
父のような狩人になりたいと思ったのも、この村を守れる人間になりたかったからだ。
明日も、明後日も、きっと同じような日が続く。
そう思っていた。
_____________
翌朝。
目を覚ますと、窓の隙間から差し込む光が、部屋の床を淡く照らしていた。
外からは、風に揺れる木々の音が聞こえる。
身支度を整え、槍を手に取った。
今日も狩りだ。
いつも通りの朝。
いつも通りの仕事。
そう思いながら家を出ると、すでに父が馬具の準備を終えて待っていた。
「準備はいいか?」
「うん」
「今日は森の奥へは行かない。獲物が見つからなければ、早めに切り上げるぞ」
「分かった」
父は最近、森に入る前に必ずそう言うようになった。
獲物が減ったこともあるだろう。
何かが起きたわけではない。
ただ、念のためだ。
そう考えるのが自然だった。
カイルもやってきた。
背中には弓と矢筒。腰には狩り用の小刀を下げている。
「今日は大物を仕留めたいなあ」
「昨日も同じことを言ってたぞ」
「昨日は昨日、今日は今日だろ!」
「はいはい」
「お前、最近本当に冷たいな!」
「昔からだよ」
そんなやり取りをしていると、マルヒが二人の間に割って入った。
「まあまあ。焦らなくても獲物は逃げやしないさ」
「逃げるから見つからないんじゃないですか?」
アルトリウスが返すと、マルヒは大げさに目を見開いた。
「おいおい、俺の名言にそんな返しをするとは。成長したな、アルトリウス!」
「名言だったんですか、それ」
「もちろんだ!」
ジャイガは、いつものように黙って大剣の具合を確かめていた。
四人で狩りに出るのも、もう何度目か分からない。
昔は大人たちの後ろを追いかけるだけだった。
今では、自分たちも狩りを支える一員になっている。
少しずつではあるが、確かに成長してきたのだ。
「行くぞ」
アーマンの声で、一行は村を出発した。
____________
森の入り口に着くと、ひんやりとした空気が頬を撫でる。
草原の開けた場所とは違い、木々の間には朝の冷気が残っている。頭上では枝葉が幾重にも重なり、差し込む陽光を細かく砕いていた。
地面には昨夜の露が残り、踏みしめるたびに草がわずかに濡れる。
見慣れた森だった。
十歳の頃から、何度この場所を歩いただろう。
初めて父と狩りに来た日。
初めて獲物を仕留めた日。
カイルと一緒に森へ入り、帰りが遅くなって父にこっぴどく叱られた日。
思い返せば、森にはたくさんの記憶があった。
怖い場所だと思ったこともある。
けれど、今ではこの景色に懐かしささえ感じる。
「アルトリウス、何をぼんやりしてる?」
父の声に、アルトリウスは顔を上げた。
「何でもないよ」
「そうか。なら、周囲をよく見ておけ」
「分かってる」
槍を握り直し、森の中へ足を踏み入れた。
最初に感じたのは、静けさだった。
いや、正確には、音が足りない。
風が吹き、葉は揺れている。
自分たちが歩く足音も聞こえる。
それなのに、鳥の声がしなかった。
アルトリウスは、ふと足を止めた。
何かがおかしい_______。
そう思ったのは、一瞬だけだった。
すぐに、そんな考えを振り払う。
最近の森は、ずっとこんなものだ。
鳥の声が少なくなったことも、獣を見つけにくくなったことも、もう珍しくない。
「どうした?」
カイルが小声で尋ねてきた。
「いや……何でもない」
そう答え、再び歩き出した。
けれど、胸の奥に小さな引っかかりが残っていた。
しばらく進んでも、獲物は見つからなかった。
いつもなら、道の脇に小さな獣の足跡が残っている。木の根元には食べかけの木の実が落ちていて、耳を澄ませば鳥の鳴き声が聞こえてくる。
今日は、そのどれもが妙に遠かった。
「……妙だな」
父が足を止めた。
その声を聞いた瞬間、アルトリウスの背筋に、かすかな緊張が走った。
父がこういう声を出すときは、何かを警戒しているときだ。
「どうした、アーマン?」
マルヒが尋ねる。
「獣の気配がなさすぎる。足跡はあるのに、姿が見えない」
「奥に移動したんじゃないのか?」
「それなら、それでいいんだが……」
父は森の奥を見つめた。
その横顔は、いつもより険しかった。
ジャイガも周囲に目を向け、柄に手を添えた。
「戻るか?」
「いや、もう少しだけ様子を見る。ただし、全員離れるな」
父の言葉に、アルトリウスはうなずいた。
槍を握る手に、自然と力がこもる。
森の中を吹き抜ける風が、頬を撫でていった。
そのときだった。
_______バサバサバサッ
突然、頭上の枝から鳥たちが一斉に飛び立った。
何十羽もの鳥が、まるで何かから逃げるように森の外へ向かっていく。
羽ばたきの音が重なり、静まり返っていた森を一瞬だけ満たした。
「何だ……?」
カイルが空を見上げる。
アルトリウスも鳥たちの行方を追った。
こんな光景は見たことがなかった。
鳥たちは、まるで森の奥から何かが迫っていることを知っているかのように、必死に逃げていた。
直後。
足元が、かすかに揺れた。
________ドン
地面の奥から響いてくるような、重い音だった。
アルトリウスは足元を見た。
気のせいかと思った。
けれど、すぐにもう一度、音が響いた。
_________ドンッ
今度は、はっきりと地面が震えた。
「……何の音だ?」
誰かがつぶやいた。
ドンッ。
ドンッ。
音は次第に大きくなっていく。
一歩ごとに地面を踏みしめるような音。
それが、こちらへ近づいてきている。
喉が、ひどく乾いた。
獣の足音なのだろうか。
だが、こんなに重い足音を立てる獣が、この森にいるとは思えない。
父が鋭く声を上げた。
「全員、構えろ!」
ジャイガが大剣を抜き放つ。
カイルとマルヒは弓を構え、矢をつがえた。
アルトリウスも槍を両手で握りしめる。
穂先が、かすかに揺れる。
恐怖のせいなのか、それとも腕に力が入りすぎているのか、自分でも分からなかった。
木々の向こうで、何かが動いた。
太い幹が揺れ、枝が折れる音が響く。
そして、森の奥から巨大な影が姿を現した。
熊だった。
そう認識した直後、アルトリウスは自分の目を疑った。
デカイ______。
あまりにも大きすぎる______。
普通の熊なら、これまで何度も見たことがある。危険な獣であることも知っている。全員で相手をしなければならない場合もある。
だが、目の前のそれは、知っている熊とは何もかもが違っていた。
盛り上がった肩は大人の背丈を優に超え、太い前脚は人間の胴ほどもある。全身を覆う黒ずんだ毛並みは泥と血で汚れ、口の周りには赤黒い肉片がこびりついていた。
歯の隙間から、何かの臓物らしきものが垂れ下がっている。
獣の臭いに混じって、血の生臭さが風に乗って届いた。
思わず息を止めた。
何を食べてきたのか。
どれだけの命を奪ってきたのか。
考えたくもなかった。
巨熊は、こちらを見ていた。
その小さな目が、ゆっくりと動く。
槍に力がもう一段階篭もる。
______逃げろ。
頭のどこかで、そう叫ぶ声がした。
だが、足が動かない。
父がいる。
カイルがいる。
マルヒも、ジャイガもいる。
ここで自分だけ逃げるわけにはいかない。
そう思った瞬間、巨熊が低く唸った。
腹の底を震わせるような音だった。
次の瞬間、巨熊の巨体が動いた。
「散れッ!」
アーマンの叫びが響く。
だが、巨熊の動きは、その巨体からは想像もできないほど速い。
地面が砕け、枯れ葉が舞い上がる。
アルトリウスは反射的に横へ飛び退いた。
目の前を、巨大な影が通り過ぎる。
風圧で体がよろめく。
何が起きたのか、理解する暇もなかった。
「マルヒさん!」
カイルの叫び声が、森に響いた。
振り向いた先で、マルヒの姿が見えた。
いや、正確には、その姿が巨熊の影に覆い隠されていた。
大きな衝撃音。
すぐそばの木が、根元から大きく裂けた。
マルヒの体が、その木もろとも弾き飛ばされた。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
いつも笑っていた顔。
冗談を口にしていた声。
銀色の髪。
そのすべてが、憧れが、目の前で崩れていく。
巨熊が、倒れたマルヒに食らいついた。
アルトリウスの目に映った光景を、頭が理解することを拒んだ。
顔面から左半身にかけて、巨熊の牙が一気に食い込む。
肉が裂ける音がした。
赤いものが飛び散る。
マルヒは、もう動かなかった。
「……え?」
声にならない声が、喉から漏れた。
ついさっきまで、笑っていた。
いつも通りの調子で、カイルをからかっていた。
また明日も、くだらない冗談を聞かされると思っていた。
それなのに。
どうして、?
何が起きたんだ、?
「マルヒ……さん?」
カイルの声が震えていた。
構えていた弓が垂れ下がり、彼は動けずにいた。
アルトリウスも同じだった。
槍を握る手の感覚が、急速に遠のいていく。
目の前にいるのは、森で何度も狩りをしてきた自分たちが、見たこともない化け物だった。
そして、その化け物は、今も目の前にいる。
口の周りを赤く染めたまま。
次の獲物を探すように、ゆっくりと顔を上げていた。
唸り声が体の芯に響いた。




