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蒼の瞳は、すべてを知っている。  作者: 消す者(イレイザー)
第一章【塔へ】

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02.大人

あともう一話更新します

 村に朝が訪れる。


 鶏の鳴き声と、井戸から水を汲み上げる音。

 家々からは煙が立ち上り、畑へ向かう村人たちの姿が見える。


 六十人ほどしか暮らしていない小さな村に、特別な出来事などそう多くはない。


 それでも、アルトリウスにとっては毎日が忙しかった。


「アルトリウス! そっちの籠を持ってくれないかい?」


「はーい!」


 声をかけたのは、村でパンを焼いている老婆だった。


 アルトリウスは籠を受け取ると、両手で抱え上げた。

 中には焼きたてのパンがいくつも入っている。


「おやおや、ずいぶん頼もしくなったねえ」


「もう十歳ですから!」


「十歳はまだまだ子供だよ」


「父さんは、十歳でもできることはあるって言ってました」


「そうかい。じゃあ、これは立派な大人のお仕事だね」


 老婆は笑いながら、アルトリウスの頭を撫でた。


 アルトリウスは少しだけ不満そうな顔をしたが、籠を落とさないように抱え直した。


 大人として扱ってほしい。

 けれど、頼りにされるのは嫌いではなかった。


 村の人々は、アルトリウスをよく知っている。

 父親譲りの優しさがあり、困っている人を見れば放っておけない。

 そのくせ、自分はもう大人だと言い張るものだから、村人たちからはいつも子供扱いされていた。


「おーい、アルトリウス!」


 広場の方から声がした。


 振り返ると、カイルが手を振っている。

 その隣にはノアとエルナ、ミレイアの姿もあった。


「何してるんだ?」


「お手伝いだよ。お前たちは?」


「暇だから遊ぼうと思って」


 カイルはそう言って、籠の中を覗き込む。


「うまそうだな。ひとつくれよ」


「駄目だよ。これはおばあさんのパンだから」


「一個くらいいいだろ?」


「駄目」


「けちだなあ」


「カイルが勝手に食べたら、俺が怒られるんだぞ」


 アルトリウスが真面目に答えると、カイルは大げさに肩を落とした。


「はいはい。大人のアルトリウス様は真面目でいらっしゃる」


「その言い方やめろ!」


「また怒ってる」


 エルナがくすりと笑った。


「二人とも、早く行こうよ。今日は川辺で遊ぶんでしょ?」


「そうだった!」


 カイルが先に走り出す。

 アルトリウスは老婆に籠を返し、礼を言ってから仲間たちの後を追った。


 _____________


 川辺には、すでに何人かの子供たちが集まっていた。


 村の子供は多くない。

 同い年のアルトリウスたち五人は、自然と一緒にいることが多かったが、少し年上の子供たちとも遊ぶことはあった。


 ただし、誰とでも仲良くできるわけではない。


「おい、アルトリウス」


 声をかけてきたのは、二つ年上の少年だった。

 その後ろには、同じくらいの年齢の子供が二人いる。


 少年の名はロイド。

 村の子供の中では少しばかり体が大きくて腕っぷしが強いことで知られていた。


「この前、狩人たちと森に行ったんだってな」


「うん。父さんたちに連れて行ってもらった」


「へえ。狩人になったつもりか?」


 ロイドは口元を歪めた。


「まだ何もできないくせに」


「........別に、なったなんて言ってないよ」


 アルトリウスは落ち着いて答えた。


「これから覚えていくんだ」


「へえ。偉そうなこと言うじゃん」


 ロイドの後ろにいた少年が、アルトリウスの肩を小突いた。


「お前の父ちゃんが狩人だからって、自分まで強くなった気でいるんじゃねえぞ」


「やめなよ」


 エルナが一歩前に出た。


「別に、アルトリウスは何もしてないじゃない」


「お前には関係ないだろ」


 ロイドが睨む。


 ノアは不安そうに周囲を見回し、ミレイアは黙って二人の間を見ていた。


 アルトリウスは一度、エルナの前に出た。


「いいよ。大丈夫だから」


「でも……」


「俺は父さんみたいになりたいだけだ。今はまだ何もできない。それくらい分かってる」


「だったら、偉そうにするなよ」


「偉そうにしてるつもりはないよ」


 アルトリウスはロイドを見た。


「それに、強いかどうかを決めるのは、誰かを馬鹿にできるかどうかじゃないと思うけど」


 ロイドの眉がぴくりと動いた。


「なんだと?」


「アルトリウス、もういいよ」


 ミレイアが静かに言った。


「相手にするだけ時間の無駄」


「……そうだね」


 アルトリウスはそう答えたが、ロイドたちはまだ納得していない様子だった。


「逃げるのかよ」


「遊びに来ただけだから」


 アルトリウスはそれ以上言い返さず、仲間たちと川辺を離れた。

 背中にロイドの笑い声が聞こえたが、振り返らなかった。

 きっと、訓練をしている自分の方が強い。

 そんなことは分かっている。

 それでも、強さを見せつけるために誰かと争うのは、父さんが教えてくれた強さとは違う気がした。


「アルトリウス、悔しくないの?」


 エルナが尋ねる。


「悔しいよ」


「じゃあ、どうして何も言わなかったの?」


「言い返しても、あの人たちが分かってくれるとは思わなかったから」


 アルトリウスは川の流れを見つめた。


「それに、俺が強くなればいいんだ。父さんみたいに」


 カイルが隣で笑った。


「またそれか。お前、本当にアーマンさんのこと好きだな」


「当たり前だろ」


「はいはい」


「カイルだって、マルヒさんの弓に憧れてるじゃないか」


「そりゃあ、あの腕はすごいからな!」


「じゃあ人のこと言えないじゃん」


「俺はいいんだよ!」


 そのやり取りに、ノアが小さく笑った。

 エルナも、ミレイアも。


 いつの間にか、先ほどの嫌な空気は薄れていた。


 ⸻


 昼を過ぎる頃、アルトリウスは一人で村の外れへ向かっていた。


 小さな丘を越えた先に、村で唯一の教会がある。


 大きな街にあるような立派な建物ではない。

 石造りの壁はところどころ古び、屋根の端には苔が生えている。

 小さな鐘楼と、木の扉。

 村人が集まることもあるが、普段は静かな場所だった。


 アルトリウスは扉を押し開けた。


「こんにちは、神父さま」


「おや、アルトリウス。今日も来てくれたのかい」


 祭壇のそばで本を読んでいた神父が、顔を上げた。


 白髪交じりの髪に、柔らかな目。

 年齢は分からないが、村の誰よりも長くこの教会にいる人だった。


「今日は何をしに来たんだい?」


「別に、何か用があるわけじゃないよ」


「それなら、ここで少し休んでいくといい」


「うん!」


 アルトリウスは神父の近くに腰を下ろした。


 教会の中は静かだった。

 窓から差し込む光が、床に細長い影を落としている。


 アルトリウスが顔を上げると、瞳の奥に淡い青が浮かんだ。

 神父は、手元の本を閉じる。


「今日は何かあったのかな?」


「どうして?」


「いつもより、少し考え込んでいる顔をしているからね」


 アルトリウスは少し迷ってから、川辺であったことを話した。


 年上の子供たちにからかわれたこと。

 父のことを馬鹿にされたこと。

 悔しさでいっぱいだったこと。

 それでも言い返さずに帰ってきたこと。


 神父は途中で口を挟まず、最後まで聞いていた。


「そうか。それは嫌な思いをしたね」


「でも、俺は間違ったことを言ってないと思う」


「うん。私もそう思うよ」


 神父は穏やかに頷いた。


「けれどね、正しいことを言えば、相手がすぐに分かってくれるとは限らない。人の心は、なかなか難しいものだから」


「じゃあ、どうすればいいの?」


「相手を変えようとする前に、自分がどうありたいかを考えてみるといい」


「どうありたいか……」


「君は、お父さんのようになりたいんだろう?」


「うん。父さんみたいに強くて、優しい人になりたい」


「それなら、今日の君は一歩そんな大人に近づいたのかもしれないね」


 アルトリウスは首を傾げた。


「何もしてないのに?」


「何もしないことが、いつでも正しいわけではないよ。でも、怒りに任せて誰かを傷つけなかった。それは、君が自分で選んだことだ」


 神父は微笑んだ。


「強さというのは、腕の力だけではないからね」


 アルトリウスはしばらく考え込んだ。


「……神父さまって、たまに父さんみたいなこと言うよね」


「おや、それは光栄だ」


「でも、父さんの方が強いよ」


「ははは。そうかもしれないね」


 神父は楽しそうに笑った。


「ところで、アルトリウス。お父さんと森へ行ったそうだね」


「うん! マルヒさんが鳥を射って、父さんが兎を仕留めたんだ。鹿も狩ったよ」


「それはすごい。君も何か覚えたのかな?」


「いっぱい覚えたよ。風の向きとか、足跡の見方とか。弓も教えてもらう約束をしたんだ」


「それは楽しみだね」


「でも、狩りって思ってたより難しかった。槍の練習とは全然違うんだ」


「そうだろうね。森には森の理がある。人間の都合だけでは動いてくれない」


 神父は窓の外へ目を向けた。


「だからこそ、よく見て、よく聞いて、学ぶことが大切なんだろうね」


「父さんも似たようなこと言ってた」


「それなら、君は良い先生に恵まれているね」


「うん!」


 アルトリウスは笑った。


 神父もまた、目を細めて笑い返す。


 しばらく二人は他愛のない話をした。

 村の畑のこと、カイルのいたずら、ノアが最近覚えた読み書きのこと。

 アルトリウスは話すたびに身振りを交え、神父はその一つ一つに相槌を打った。


 やがて、窓から差し込む光が少し傾いた。


「そろそろ帰らないと」


 アルトリウスが立ち上がる。


「そうだね。お父さんも心配するだろう」


「また来てもいい?」


「もちろん。ここは誰でも来ていい場所だからね」


「じゃあ、また来る!」


 扉へ向かいかけたアルトリウスは、ふと思い出したように振り返った。


「神父さま」


「なんだい?」


「俺が大人になったら、父さんみたいに村を守れるかな」


 神父はすぐには答えなかった。


 そして、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。


「君が君らしく、誰かを大切にできる人であり続けるなら。きっと、誰かにとって頼れる人になれるよ」


「……うん!」


 アルトリウスは満足そうに頷き、教会を出ていった。


 小さな扉が閉まる。

 神父はしばらく、その扉を見つめていた。

 やがて、祭壇の前に戻り、静かに本を開く。


 教会の中には、再び穏やかな静寂が満ちていった。


 村の外れでは、夕暮れがゆっくりと草原を染め始めている。

 アルトリウスは家へ向かう道を、軽い足取りで歩いていた。


 明日もきっと、いつもと同じ一日が始まる。


 父に槍を教わり、仲間たちと遊び、村の人々の手伝いをする。


 そんな何気ない日々が、いつまでも続くように。


 少年は、まだ何も知らないまま笑っていた。

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