第7話:奪われた名前
建物の奥へ進むほどに,空気はさらに重くなっていった.
呼吸すらわずかに遅れるような圧迫感.
だが,灰の足は止まらなかった.
むしろ,導かれているようだった.
「……変だな」
レオンが小さくつぶやく.
「何が?」
「さっきのやつ,止めようと思えば止められたはずだ」
確かにそうだった.
あの女の力は圧倒的だった.
それなのに,途中で退いた.
「……見逃された?」
「かもしれない」
レオンは眉をひそめた.
「だとしたら,理由は一つだ」
灰を見る.
「お前だ」
その言葉に,胸がわずかに痛んだ.
だが,もう否定はできなかった.
やがて,二人は大きな扉の前にたどり着いた.
他のどの場所とも違う.
光がほとんどない.
代わりに,静けさがあった.
不気味なほどの静寂.
「……ここだな」
レオンが低く言う.
扉には装飾も鍵もなかった.
ただ,黒く,重くそこにあるだけ.
灰はゆっくりと手を伸ばした.
触れた瞬間,胸の奥が強く反応する.
――ここにある.
自分の「何か」が.
「開けるぞ」
レオンの声に,灰はうなずいた.
扉を押す.
音もなく,ゆっくりと開いた.
中は,広い空間だった.
天井は高く,壁も見えないほど奥行きがある.
そして――
中央に,ひとつだけ光があった.
巨大な結晶.
それは,これまで見てきたどの星よりも大きかった.
そして,色は――
「……灰色」
灰は思わずつぶやいた.
自分と同じ色.
だが,圧倒的に濃く,深い.
まるで,すべてを飲み込むような色だった.
「……なんだ,これ」
レオンも息を呑んでいた.
そのときだった.
声が響いた.
「やっと来たか」
空間の奥からだった.
ゆっくりと,一人の人物が歩み出てくる.
黒い衣をまとった青年だった.
年齢はレオンと同じくらいに見える.
だが,その目はまったく違っていた.
底が見えない.
「……お前が,王か」
レオンが剣に手をかける.
青年はわずかに笑った.
「そう呼ばれているな」
軽い口調だった.
だが,その一言だけで空気が震える.
圧倒的な存在感.
灰の呼吸が浅くなる.
「……あなたが」
言葉が続かない.
だが,確信だけはあった.
この存在こそが――
「星喰いの王」
青年はゆっくりと灰を見た.
そして,目を細める.
「久しぶりだな」
その言葉に,時間が止まった.
「……え?」
灰は理解できなかった.
「誰と……間違えてるの?」
青年は首を振った.
「間違えていない」
一歩近づく.
「お前は俺を作った」
その瞬間,灰の心臓が強く打った.
「……は?」
レオンも動きを止める.
青年は続けた.
「覚えていないのか」
その声には,わずかな失望が混じっていた.
「まあいい」
軽く肩をすくめる.
「どうせ,すぐ思い出す」
灰は頭を押さえた.
何かが,奥で動いている.
だが,まだ届かない.
「……教えて」
絞り出すように言った.
「私が,何をしたのか」
青年は少しだけ考えるように沈黙した.
やがて,ゆっくりと口を開く.
「お前はな」
指を,中央の巨大な灰色の結晶へ向ける.
「すべての記憶を,一つにまとめようとした」
灰は息を呑んだ.
「……全部?」
「ああ」
「人の記憶,願い,後悔……すべてだ」
信じられない話だった.
「どうして……?」
青年は一瞬だけ目を伏せた.
そして,静かに言った.
「“消えないようにするため”だ」
その言葉に,何かが引っかかった.
灰の胸が強く痛む.
「お前は,失うことを恐れた」
青年は続けた.
「だから,全部まとめて,壊れない形にしようとした」
「それが……これ?」
灰は結晶を見る.
巨大な灰色の塊.
「ああ.だが――」
青年の声が低くなる.
「失敗した」
空気が一気に冷えた.
「一つにまとめた時点で,個々の意味は消える」
ゆっくりと近づいてくる.
「記憶は,混ざり合い,崩れ,意味を失った」
灰の呼吸が乱れる.
「……だから」
「だから,俺が必要になった」
青年は静かに言った.
「不要になった記憶を“処理する存在”としてな」
その言葉の意味が,ゆっくりと理解されていく.
「……食べてるの?」
「そうだ」
あまりにもあっさりとした肯定だった.
「崩れた記憶を放置すれば,世界が壊れる」
「だから,俺が喰う」
灰の手が震えた.
「じゃあ……今起きてることは」
「当然の結果だ」
冷たく言い切る.
「お前が始めたことだ」
その一言が,深く突き刺さった.
言葉が出ない.
頭の中が真っ白になる.
「……違う」
かすかに,声が出た.
「私は……そんなこと」
「覚えていないだけだ」
即座に遮られる.
青年は,まっすぐ灰を見ていた.
「お前の名前もな」
その言葉に,時間が止まる.
「……名前?」
「お前は,自分の名前を捨てた」
「この計画を実行するために」
灰の視界が揺れた.
「……なんで」
「名前は,個を固定する」
青年は淡々と言う.
「だが,お前は“すべて”になろうとした」
「だから,自分自身を壊した」
その瞬間,頭の奥で何かが砕けた.
断片的な記憶が流れ込む.
研究.
膨大な星.
そして――
誰かの笑顔.
「……っ!」
灰は膝をついた.
息ができない.
「思い出してきたか」
青年の声が遠くに聞こえる.
だが,まだ足りない.
核心に届かない.
「……まだだ」
灰は顔を上げた.
震えながらも,はっきりと言う.
「全部,知りたい」
その目を見て,青年はわずかに笑った.
「いいだろう」
ゆっくりと手を上げる.
巨大な灰色の結晶が,強く輝いた.
「なら,見せてやる」
空間が歪む.
無数の記憶が,一気に押し寄せてくる.
灰の視界が白く染まった.




