第98話 涙の意味
戦闘が止まっていた。
完全に止まったわけではなかった。後方では眷属との戦いが続いていた。レオンの声がした。ライナスが動いていた。
しかし、ゼノと魔王の間の空間が、止まっていた。
魔王がゼノを見ていた。
無表情だった。ただし、何かが違った。さっきの、表情が揺れた瞬間の余韻がまだそこにあった気がした。
「……感情を取り戻した人間を、初めて見た」
魔王が言った。
声に変化がなかった。ただ言葉の内容が変わっていた。今まで、観察する言葉か、否定する言葉だった。今の言葉は、確認する言葉だった。
「そうか」
「感情を封じた者が、取り戻すことがあるとは思っていなかった」
「なぜ思っていなかったんだ」
「捨てた後に取り戻すことは、もう一度傷つくことを選ぶということだ。なぜそれを選ぶのかが、理解できなかった」
「今も理解できないか」
「……わからない」
「お前も、かつては持っていたはずだ。感情を」
「持っていた。だから捨てた」
「捨てる前は、どんな状態だったんだ」
「……今は関係ない」
「関係ある。捨てる前の状態を覚えているから、捨てることを選んだ。覚えていなければ、捨てる必要がなかった」
「記憶と感情は別だ」
「別ではない。記憶が感情を呼ぶ。感情が記憶を保存する。切り離せない」
「切り離した」
「切り離せたか」
「切り離した」
「本当にそう思っているのか」
魔王が答えなかった。
初めて、言葉が来なかった。
間が空いた。長い間ではなかった。しかし、確実に来なかった。
ゼノは待った。後方でレオンが眷属を押し返した音がした。
「……お前は、まだ覚えているのか。大切だった人のことを」
「関係ない」
「関係ある。覚えているから、捨て続けなければならない。忘れていれば、捨てる必要もない。捨て続けているということは、まだそこにある何かと戦い続けているということだ」
その瞬間だった。
魔王の周囲に展開されていた六属性の魔力が、わずかに揺れた。
一秒にも満たない揺れだった。しかし確実に揺れた。安定していた魔力の流れが、乱れた。
出力が下がったわけではなかった。感情のない魔法の精度が変化したわけでもなかった。
ただ、揺れた。それが何を意味するかを、ゼノは処理した。
「俺に向けて魔法を放ってくれ」
「何のためだ」
「確認したいことがある」
「確認のために攻撃を受けるんだ」
「攻撃と対話を同時に続ける。片方だけになる必要はない」
魔王が少し間を置いた。
魔法が来た。水属性と闇属性の複合だった。
ゼノが蒼海抱擁で受けた。流れを読んで、受け流しながらカウンターで返した。
「覚えているから、捨て続けている。それは確かか」
「……」
「答えなくていい。ただ、確認してくれ。自分が今、何と戦っているか。俺と戦っているだけか」
後方でエリナが気づいていた。
「……ゼノさん、魔王を説得しようとしてる」
小声だったが、レオンに届いた。
「気づいてたか」
「さっきから、戦いながら話を続けています」
「あいつ、戦いながら話し合いもするのか」
レオンが言った。呆れているわけではなかった。何か別のものが声にあった。
「できるんですね。全部同時に」
「感情を取り戻してきたからかな」
「どういう意味ですか」
「感情がなかった頃のゼノなら、どちらかしかしなかったと思う。戦うか、話すか。今は両方できる。感情があるから、相手の状態を見ながら動ける」
「ゼノさんが言ってた。感情が力になるって」
「証明してるんですね、今。魔王に向かって、戦いながら証明しています」
「証明するって言ってたな。さっき。言葉じゃなくて、動くことで証明するって」
「してますよ。今」
広間でゼノは動いていた。
水属性で魔王の動きを感知し続けた。蒼海抱擁の効果で、魔力の流れが全部見えていた。どこが薄いか。次の攻撃がどこから来るか。
同時に、話し続けた。
「お前が壁に刻んでいた記録を読んだ。名前が書いてあった。一人一人の名前が」
「それを言うのか」
「覚えているか。一人一人の顔を」
「……関係ない」
「覚えているんだな」
「俺はそう言っていない」
「関係ないと言った。覚えていなければ、関係ないという必要もない。関係ないと言うことが、関係あると言っているのと同じだ」
「……詭弁だ」
「事実の指摘だ」
魔王が攻撃を強めた。感情が来た反応だった気がした。
ゼノが対応した。土属性で壁を作った。風属性で回避した。蒼海抱擁で流れを読みながら、カウンターを返した。
「覚えているなら、泣けるかもしれない」
「俺には泣く理由がない」
「理由があれば泣けるのか」
「……捨てた感情は戻らない」
「戻らないと確認したのか」
「……」
「俺も、取り戻せないと思っていた」
ゼノは攻防を続けながら言った。
「学園に入る前、感情がないのが当然だと思っていた。それが俺だと思っていた。ただ、最初からいた。感情の欠片が、一つだけ残っていた」
「何だ」
「喜びだ。最初から俺の中にいた。完全には消えていなかった。消せなかったのかもしれない。あるいは、残ることを選んだのかもしれない」
「……」
「お前の中にも、残っているものがあるかもしれない」
「ない」
「壁に記録を刻んでいた。残したかったから残した。それが残っているものの証拠だ」
魔王の魔力が、また揺れた。
今度は先ほどより長かった。一瞬ではなかった。二、三秒、出力が乱れた。
ゼノは攻撃を入れなかった。
「今、乱れた」
「……」
「攻撃しなかった」
「なぜだ」
「乱れた時に攻撃することが、今の目的ではないからだ」
「俺を倒すことが目的ではないのか」
「倒すことだけが目的ではない。お前に、思い出してほしいことがある」
「思い出すことが、何になる」
「なるかどうかはわからない。ただ、俺が今日思い出した。大切だったものを思い出した。だから泣いた。それが何かに繋がるかどうかは、思い出してから決めることだ」
「思い出したら、また傷つく」
「そうかもしれない。だが、俺は今日崩れなかった。傷ついたかもしれない。ただし、崩れなかった」
「なぜ崩れなかった」
「全員がいたからだ。後ろに全員がいた。一人ではなかった」
「一人でないことが、崩れないことに繋がるのか」
「俺の経験では、そうだった」
「俺に、一人でないことは——」
「言えなかったか」
「……今は、いない」
「今はいない、か。いなくなった、ということは、いたということだ」
「……」
「いた時に、泣けたか」
魔王が動かなかった。攻撃も来なかった。
玉座の間が静かになった。後方の戦闘の音が遠くから来ていた。
「……わからない」
「わからない、か。」
「泣いたかどうかが、わからない。感情があった時の記憶が、今は曖昧だ。捨てた後で、感情があった時の感覚が、わからなくなっている」
「曖昧になっている」
「そうだ」
「完全に消えてはいない、ということだ。曖昧になっているということは、まだそこにある。完全に消えていれば、曖昧にもならない」
魔王が少し動いた。攻撃ではなかった。
何かを確認しているような動きだった。
「お前は、泣いた。大切だったものを思い出して、泣いた」
「そうだ」
「それが——今も続いているのか」
涙はもう来ていなかった。乾いていた。ただし、来たものはまだそこにあった。詩織と悠斗のことが、まだそこにあった。封じなかった。来たままにしていた。
「続いている。来たままにしている」
「来たままにする。それが、取り戻すということか」
「そのひとつだ」
「……」
後方でエリナが見ていた。
涙を拭わないままのゼノが、戦いながら話し続けているのを見ていた。
「ゼノさんって」
「どうした?」
「感情を持ったまま、戦える。感情があることで、相手のことが見える。それが強さなんですね」
「証明してるな。魔王に向かって」
「はい。言葉じゃなくて、在り方で」
ゼノは前を向いていた。
涙が来た。来たままにした。戦いながら話した。感情があるから見えることが、今日あった。
それが証明の一部だった。
まだ終わっていなかった。
ただし、何かが変わりつつあった。 魔王の魔力の揺れが、増えていた。
最後まで読んでくれて、ありがとうございます!
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ではまた。




