第97話 悲しみの覚醒
記憶の鍵が開いた。
冬の夜だった。街灯が白く光っていた。雪で光を反射していた。
詩織が倒れていた。悠斗が倒れていた。
蓮が立っていた。無傷で。何もできないまま。
あの時、何があったのか。
今、初めてちゃんと見た。
ナイフを持った男がいた。詩織に向かった。悠斗が間に入った。悠斗が倒れ、詩織が倒れた。
あの時に来たものが、今来た。
止めた時の状態で来た。封じた瞬間のまま、来た。
怖かった。
悠斗が刺された瞬間に、怖かった。詩織が倒れた瞬間に、怖かった。二人が動かなくなった時に、怖かった。
悲しかった。
次に来たのは、悲しみだった。怖さの後ろに来ていた。
自分を憎んでいた。何もできなかった。一歩も動けなかった。二人が傷ついた時に、自分は無傷で立っていた。その事実が、何かを壊した。
「——でも、感じることをやめた」
声が出た。
「感じることをやめれば、間違えないと思った。感情があったから、大切にしていた。大切にしていたから、失いそうで怖かった。感情がなければ、怖くならない。悲しくならない。感情がなければ、二人を大切にしすぎることも、間違えることも、なくなると思った」
円卓にいた。
アクアが目の前に立っていた。
「そうじゃなかったんです」
アクアが言った。
静かな声だった。責めていなかった。ただ、言った。
「……何が」
「感情があったから間違えたんじゃない」
「俺は何もできなかった。感情があったから、大切にしすぎた。だから動けなかった。だから——」
「違います。感情があったから、二人のことが大切だったんです。大切だったから、失いそうで怖かった。大切だったから、悲しかった。それは——弱さじゃない」
「……弱さでは、ない」
「はい。大切なものができた証拠です。大切だったから、傷ついた。傷ついたから、二人が大切だったとわかる」
「でも俺は動けなかった」
「それは別の話です。動けなかったことと、感情があったことは、別の話です。感情があったから動けなかったのではなく、怖くて動けなかった。怖さは感情から来たかもしれない。でも、感情があったから間違えた、とは違う」
「……」
「ゼノさん」
「何だ」
「悲しみは、大切だったことの証明です。詩織さんと悠斗さんが、そこにいた証明。あなたの中に、二人への想いがあった証明。消すべきものじゃない。封じるべきものじゃなかった」
何かが来た。
来た、という感覚だけがあった。
胸の中に、何かが来た。今まで来た感情のどれとも違った。喜びでも、怒りでも、信頼でも、愛情でもなかった。
もっと深いところにあった何かが来た。
初めての感覚だった。本物だった。
「……俺は、二人のことが、大切だったのか」
「はい」
水色の瞳が、少し潤んでいた。
「ずっと、大切だったんですよ。ゼノさんが封じた後も。転生した後も。ずっと、大切だったんです。封じても、消えていなかった」
「消えていなかった」
「だから、わたしがずっとここにいた。悲しみを司る人格が、一番奥にいた。大切だったものへの悲しみが、ずっとそこにあったから」
「お前が一番奥にいたのは、そのためか」
「はい。ゼノさんが一番深いところに封じたものを、持っていたから」
アクアの目から、涙が来た。
水色の瞳に涙が浮かんだ。
「アクア」
「……ごめんなさい。ずっと待っていたから。ゼノさんがここまで来るのを。この話ができる日を。やっと来たから」
「待っていてくれたのか」
「はい。ずっと」
「……そうか」
何かが、溢れた。
意識が円卓から広間に戻った。
同時に、アクアが動いた気配があった。
立ち上がった。円卓の広間で、両手を広げた。水色の光が来た。
今まで見た覚醒の光とは種類が違った。海の底から来るような、深い水色だった。静かだった。押しつけない光だった。ただ広がっていく光だった。
「——蒼海抱擁」
水属性が覚醒した。
今まで感知できていた範囲が、一気に広がった。城内全体の魔力の流れが見えた。魔王の魔法の流れが、全部見えた。どこから来て、どこに向かっているか。どこが薄く、どこが集中しているか。
魔法の流れを確認した。
魔王の魔法を受け流した瞬間に、数倍にして返す防御が展開された。受けて、増幅して、返した。
魔王が後退した。今まで一度も大きく後退していなかった魔王が、後退した。
戦闘が一転した。魔王の出力に対して、カウンターで上回れた。
水属性で魔王の動きを制限し、土属性で地形を変えた。風属性で距離を詰めた。
魔王が対応した。まだ強かった。ただし、ゼノの感知が広がった分、動きが見えていた。
その時、気づいた。
顔に、何かがあった。
濡れていた。頬を、何かが伝っていた。
「ゼノさん……!」
エリナの声がした。
ゼノは魔王から目を離さなかった。
「……まだ、終わっていない」
拭わなかった。
拭う動作をしなかった。来たままにした。
魔王が止まった。
一瞬だった。戦闘の中で、魔王が止まった。
ゼノを見ていた。
「……お前は、泣いているのか」
声に変化がなかった。ただし、何かが違った。声の質が、少し変わっていた。
「……ああ」
「なぜ」
「大切だったものを、思い出した。それだけだ」
魔王の表情が、揺れた。
今まで何度か、目の奥で何かが動いた場面があった。今日の中で何度かあった。
今回は違った。表情が揺れた。
完全な空虚だった顔に、何かが来た。悲しみではなかった。怒りでもなかった。
確認できなかった。何かが来て、消えた。
「大切だったものをか」
「そうだ」
「……」
「俺は今日まで、封じていた。封じていたが、消えていなかった。今日、思い出した。大切だったものが、ずっとそこにあった。だから泣いている」
「泣くことが——」
「何だ」
「……できないと思っていた」
声が変わった。わずかに、変わった。
「できないと思っていたのか」
「感情を捨てた。泣く理由がなくなり、泣けなくなった」
「理由があれば泣けるのか」
「……わからない。俺には、理由が残っていない」
「残っていない、か」
魔王の記録を読んだ。大切な人たちの名前があった。一人一人の名前があった。笑った記録があった。話した記録があった。
「残っていない、とは言えないかもしれない」
「何を言っている」
「壁に名前を刻んでいた。記録を残していた。感情を全部捨てたなら、残す必要がなかった。残したのは——残したかったからかもしれない」
「……」
「泣けなくなったとしても、残した。それが何かを意味しているかもしれない」
戦闘が止まっていた。
後方でレオンが待機していた。ライナスが待機していた。セレンが起き上がっていた。エリナが回復魔法を続けながら、ゼノを見ていた。
ゼノは顔の涙を、今も拭わなかった。
来たままにしていた。大切だったものを思い出した。
その涙が、証明だった。
アクアが言っていた。悲しみは、大切だったことの証明だ、と。
今、その証明が、頬にあった。
まだ終わっていなかった。
ただし、何かが変わった。
最後まで読んでくれて、ありがとうございます!
次の更新をお楽しみに!
ではまた。




