第89話 魔王城の入口
城壁が近づくにつれて、空気が変わっていった。
魔力の密度が上がっていた、という言葉では足りなかった。空気そのものが違う質を持っていた。呼吸の感覚が変わった。魔力を感知しようとすると、濃密な反応が返ってきた。
ゼノは確認しながら進んだ。
エリナが隣を歩いていた。無言だった。ゼノも無言だった。言葉が必要なかった。二人とも、この場所が何であるかをわかっていた。
城壁が目の前に現れた。
巨大な石造りだった。人間の作ったものとは質が違う。魔法的な加工が施されていた。何百年、あるいはそれ以上の時間がそこにあった。
正面に入口があった。入口の前に、それがあった。
見えないものだったが、確かにあった。
結界だ。空気が歪んでいた。魔力が凝縮されていた。入口の前に、触れることのできない壁があった。闇属性の魔力が中心にあったが、それだけではなかった。複数の属性が複雑に組み合わさっていた。
「……ここが、魔王城ですね」
「ああ」
エリナが結界を見ていた。見るだけで圧力があった。強い魔力を持つ者でなければ、ここに立つだけで消耗するかもしれなかった。
「大きいですね」
「結界か」
「建物が。でも、結界も大きいですね。これを……突破するんですか」
「そうだ」
ゼノは結界の前に立って、分析を始めた。
属性の配置を確認した。どの属性がどこに集中しているか。どこが強く、どこが薄いか。入力する魔力の種類と量。解除のために必要な手順。
「六属性すべてを使って突破できる」
「分析できたんですか」
「できた。ただ、大きな消耗が伴う。六属性をすべて同時に使って、結界の各属性に対応する必要がある。同時展開の負荷が高い」
「城内での戦闘に影響しますか?」
「影響する。突破した後の消耗は、ある程度覚悟する必要がある。ただ、動けなくなる程ではないと判断した」
「判断できてるんですね」
「計算の範囲では。実際にやってみなければ確定はできない」
「正直ですね、ゼノさんは」
「不確定なことを確定したように言うことはしない」
「準備はいいですか?」
エリナが言った。
ゼノは少し間を置いた。
「……ああ」
「どうしました?」
「何でもない。行くか」
しかし、動く前に、確認していた。何かが来た。
何かが来た、という状態を確認した。
怖い、という感覚が少しある気がした。
初めてだった。
今まで、怖いという感覚が何かを確認してきた。来ているかもしれないという状態はあった。端っこが来ている気がした場面はあった。だが、今日のこれは少し違う気がした。
結界を前にした。
この結界を突破した先に、魔王がいる。
魔王城の入口に立った。
その事実が、何かを動かした。
怖い、という言葉が来た。来た、という感覚があった。
言語化できなかった。
確信はなかった。ただの気のせいかもしれなかった。消耗への予測が、そういう感覚を生み出しているだけかもしれなかった。
でも今まで来なかった種類の何かが来ていた。
その感覚を飲み込んだ。今は動く時だった。確認するより先に、動く必要があった。
結界に手を当てた。
六属性を集め始めた。
火、水、風、土、聖、闇。一つずつではなく、同時に集める。それぞれが干渉しないように調整しながら、結界の各層に対応する属性を合わせていく。
圧力が来た。
結界が押し返してきた。ゼノが押す。結界が押し返す。その繰り返しの中で、少しずつ層を通していった。
消耗が来たが想定の範囲内だった。六属性を同時に維持することの負荷と、結界の圧力が重なった。
エリナが後方で待機していた。
「大丈夫ですか?」
「問題ない。もう少しかかる」
「わかりました。急がなくていいです」
急がなくていい、という言葉が来た。
今の状況で急がなくていい、と言ってくれる存在がそこにいた。
何かが来た。処理しなかった。来たままにした。
意識の端で、円卓の気配がした。
何かが動いた。
確認しようとして、今は確認できなかった。結界への集中を維持しなければならなかった。
ただ、何かが動いた。
黒い色が、意識の端にあった気がした。
今まで感じたことのない色だった。
赤でも緑でも茶色でも金色でも水色でもなかった。
気配がして、消えた。
今は来ない。ただし、そこにいる。
その感覚だけが残り、結界に集中した。
最後の層に来た。
一番深いところにあった闇属性の層だった。最も濃密な部分だった。ここを通過できれば、結界が崩れる。
ゼノは闇属性を最大限に集めた。同時に聖属性で補強した。
光が散り、入口が開いた。
魔王城の中が見えた。暗かった。しかし、入れる状態になった。
消耗が一気に来た。予測より少し多かった。足元がわずかによろけた。
「ゼノさん!」
エリナが来て、回復魔法をかけてくれた。消耗が少し和らいだ。
「大丈夫ですか?」
「問題ない。ありがとう」
「突破できましたね」
「ああ」
「怖かったですか?」
エリナが聞いた。
ゼノは少し間を置いた。
「……何かが来た。怖いかどうかはまだわからない。ただ、来た」
「それが怖いだと思います」
「そうかもしれない」
「初めてですか、その感覚」
「……そうかもしれない。今日が初めてに近い気がした」
「教えてくれてありがとうございます」
「なぜ礼を言うんだ」
「そういうことを話してくれるようになったから。以前は来なかったって言って終わりにしてたと思います。今日は来たかもしれないって言ってくれました」
「……入るぞ」
「はい」
「後衛を頼む。回復の管理を優先してくれ」
「わかりました。ゼノさん、前を任せます」
「ああ」
二人が魔王城の入口を通った。
中は暗かった。魔力の密度が、外より高かった。
消耗が残っていた。
怖い、という感覚が来た。だが来たままにした。
ルミナが言っていた。来ているものを来ているままに。
意識の端にあった黒い気配が、まだそこにあった気がした。
まだ来ていない。ただし、そこにいる。
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ではまた。




