第85話 悲しみの気配
魔王城へ進軍するための準備が進んでいた。
装備の最終確認、情報の整理、討伐隊との連携の調整。やることが多かった。
だが夜になると静かになった。
ゼノは宿の部屋で円卓に入った。
今夜は最初から何かが違う気がしていた。何が違うのかを確認しようとして、まだ言語化できていなかった。ただ、何かが違った。
いつも通りの四人がいた。
ウェントスが足をぶらぶらさせ、イグニスが腕を組んでいた。テラが微笑んでいて、ルミナが金色の瞳でゼノを見ていた。
ゼノは自分の席に着いた。
今夜は何かを話そうとしていたわけではなかった。ただ、頭の中に何かが来ていた。整理しようとして、できていなかった。
それが何かを確認しようとした時、記憶が来た。
転生前の記憶だった。
いつもは断片的だった。顔が見えない。声が聞こえない。ただ、誰かがいたという輪郭だけが残っていた。
今夜は少し違った。
廊下――高校の廊下だった。床が光っていて、窓から外が見えた。冬の光だった。
二人の顔が来た。
完全ではなく、ぼんやりとしていた。だが今夜は今までより少し鮮明だった。
笑っていた。こちらを見ていた。
「……なぜ今、これが出てくる」
ゼノは声に出た。
四人が向いた。
「どうしたの?」とウェントスが聞いてきた。
「転生前の記憶が来た。今まであまり来なかったものが、今夜ははっきりしていた。二人の顔が見えた」
「二人……」
ウェントスが静かに言った。
「名前が出てこない。顔もはっきりしていない。ただ、笑っていた。それ以上は来ない。ただ、今夜は今まで来なかったものが来た。なぜ今来るのかがわからない」
その時だった。
広間の空気が変わった。
前回と同じだ。何かが来る、という感覚がある。ただ今回は、前回と違う方向だった。
ルミナの隣の椅子だった。
今まで薄暗かった椅子が、光を持ち始めていた。
水色だった。
穏やかな光だった。押しつけない光だった。静かに広がっていく光だった。
全員が水色の椅子を見た。光が満ち、人の形が現れた。
水色の髪だった。スーパーロングの髪が静かに揺れていた。水色の瞳が、ゼノを見ていた。
表情が穏やかだ。ウェントスの明るさでも、イグニスの強さでも、テラの確信でも、ルミナの深さでもなかった。
静けさがあった。水面のような静けさ。
「……こんにちは、ゼノさん」
穏やかな声だった。急いでいない声だった。
「遅くなってごめんなさい」
「悲しみを司る人格。水属性」
「はい。アクアです。……ゼノさん、わたしはあなたのことを、ずっと見ていました」
「他の人格と同じだ。みんなそう言う」
「いいえ」
穏やかな声だったが、はっきりしていた。
「わたしは——ゼノさんが感情を封じた理由を、知っています」
広間が静まり返った。
ウェントスが「アクア……」と小声で呟いた。
イグニスが腕を組み直した。何も言わなかった。
テラが目を細めた。驚いているわけではなかった。知っていたという顔だった。
ルミナが金色の瞳を少し伏せた。
感情を封じた理由。アクアが知っている。転生前の記憶が今夜来た。関係があるかもしれなかった。
「……知っているのか」
「はい」
「なぜ知っているんだ」
「わたしは悲しみを司っているから。ゼノさんが感情を封じた時、一番深いところにあったものが悲しみです。だから、わたしが知っている」
「今話してくれるのか」
「今は、まだ話せない」
「なぜ」
「今のゼノさんには、まだ受け取れない部分があると思うから」
「受け取れない、とはどういう意味だ」
「聞くことはできます。頭で処理することもできる。でも、体で受け取ることが、今はまだ難しいと思う。その準備ができた時に、話します」
「準備とは何だ」
「悲しみを少し知った時。失うことの意味を少し感じた時。そういう時が来たら、話せると思う」
「いつ来る」
「それは、ゼノさん次第です」
ゼノは少し黙った。
「ウェントスも同じことを言っていた。俺が自分でわかった時が本物だ、と。今回もそういう話か」
「少し違います」
「どう違うんだ」
「ウェントスが言ったのは、感情を理解することについてです。わたしが言っているのは、受け取ることについてです。今話しても、ゼノさんは理解できる。でも、理解することと、受け取ることは別です」
「理解と受け取ることの違いが、今の俺にはまだわからない」
「わかります。今夜、転生前の記憶が来たでしょう。二人の顔が来た」
「……ああ」
「それが来たことが、準備の始まりかもしれない」
「アクア」とウェントスが呼んだ。
「はい」
「ゼノを頼むよ」
「もちろんです。ずっと見ていたから」
「ずっと見ていた、というのはどういう意味だ。全員がそう言うが」
「他の子たちとは少し違う見方をしていたと思います。わたしは悲しみを司っているから、ゼノさんが封じたものに近い場所にいる。だから、近くで見えていた」
「封じたものに近い場所、か」
「はい。ゼノさんが感情を封じた時、悲しみが一番深いところにいた。わたしが一番奥にいた。だから、ゼノさんのことを一番知っている部分があります」
「一番知っている」
「そうです。怖い、という意味ではなくて。ゼノさんが受け取る準備ができた時に、全部話します。それまでは、そばにいます」
「そばにいる、とはどういう意味だ」
「今のルミナさんやテラさんと同じです。見ています。ゼノさんが大変な時には、来ます」
「来てくれるのか」
「はい。」
「……わかった」
「ゼノ君」とテラが言った。
「何だ」
「アクアが来たことが、大きな変化だと思います。悲しみが近づいてきているということですから」
「悲しみが近づいていることは、良いことなのか」
「良いかどうかではなくて、必要なことです。ゼノ君が完成していくために必要な感情が来ようとしている。それは、ゼノ君がここまで来た証明です」
「証明、か」
「そうですよ。喜びから始まって、ここまで来た。次が来ようとしている。それがゼノ君の変化の証明です」
「アクア」
「はい」
「今夜来た記憶。二人の顔。それが、封じた理由と関係があるのか」
アクアが少し間を置いた。
「関係があります」
「詳しくは話せないのか」
「今夜はこれだけ言います。その二人は、ゼノさんにとって大切な人たちでした。今でも大切なはずです」
「今でも、か」
「封じても、消えてはいない。それだけは覚えておいてください」
広間が静かだった。
五人の席に、今夜は全員が座っていた。
ウェントス、イグニス、テラ、ルミナ、そしてアクア。
「五人になったな」
「なったよ。残りは一つだね」
「そうか。……アクア」
「はい」
「来てくれてよかった」
アクアが少し目を細めた。
「……ありがとうございます、ゼノさん。来てよかったです。やっと言えた」
「待っていたのか」
「ずっと待っていました。ゼノさんが受け取れる準備が来るのを、一番奥で待っていました」
「一番奥で、か」
「はい。悲しみは、一番深いところにあるから」
円卓を出て、宿の部屋に戻った。
二人の顔が、今夜はまだ頭にあった。いつもより鮮明だった。名前が来なかった。顔がはっきりしなかった。
しかし、いたことは確かだった。
封じても、消えてはいない。封じた理由を、アクアが知っている。話してくれる時が来る。ゼノが受け取れる時に。
受け取れる時が来るかどうかは、まだわからなかった。
ただ、アクアが来た。
五つの椅子に五人が座った。
残りは一つになった。
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ではまた。




