第74話 この気持ちは
パーティは次の目的地へ向かい始めた。
ギルドマスターから得た情報を元に、魔王の影響が強い区域に近い街に向かっていた。魔物の行動変化の報告が多い方向だった。
街道から外れた山道に入った。街道では確認できない情報が、この方向にあるという話だった。
山道は細く、両側に木が迫っていた。足元が不安定な場所もあった。
「足元に気をつけてくれ。岩が濡れている部分がある」
「はい」と全員が返事した。
一時間ほど進んだ頃だった。
山道が少し広くなった場所に出た。左側が開けていた。眺望があった。遠くに森が見えた。先ほどまで歩いてきた方向が見えた。
「少し眺めを確認していいですか?」
「構わない。ただし縁に近づきすぎるな」
「はい」
エリナが左側の開けた方向に一歩出た。
岩の表面は濡れている。ゼノが見た時には、エリナが既に踏んでいた。
足が滑り、エリナの身体が左に傾いた。崖の縁だ。落ちれば五メートル以上の高低差があった。
ゼノが動いていた。考えていなかった。
エリナが傾いた瞬間に、身体が動いていた。一歩踏み出して、手を伸ばして、エリナの腕を掴んでいた。
エリナが地面に戻った。
「ありがとうございます……びっくりした」
エリナが言った。胸を押さえていた。心臓が速くなっているらしかった。顔が少し青かった。
「怪我はないか」
「ないです。ゼノさんが引っ張ってくれたので」
ライナスが「大丈夫ですか!」と駆けてきた。レオンが「危なかったな」と言った。セレンが静かに確認していた。
「問題ない。エリナは無事だ」
全員が確認して、また歩き始めた。
ゼノはエリナの隣を歩いていた。
普段は先頭を歩く。今日は自然にエリナの隣になっていた。それも、考えていなかった。
ゼノはエリナの腕を掴んでいたことに気づいた。
引き上げた後、エリナの腕を持ったまま離していなかった。
「ゼノさん、もう大丈夫ですよ」
エリナが言った。声に笑いが混じっていた。怒っていない。ただ、気づいているよという声だった。
ゼノは手を離した。
「……すまない。気づいていなかった」
「いいんですよ。助けてもらったので」
反射だった。
エリナが傾いた瞬間に、身体が動いていた。考える前だ。計算した記憶がなかった。落ちたらどうなるか、自分がどう動けばいいか、そういう判断の前に、もう動いていた。
――これは何だ。
以前にも似たことがあった。魔物の奇襲の時に、エリナが危険になりそうだった瞬間に動いていた。あの時も計算より先だった。
今日も同じだった。
ただ今日は、より直接的だった。考える前に動いた。それ以外の何もなかった。
夕方の野営地を設営した。
全員が食事をとり、今日の道中の話をした。
「本当に怖かったです」エリナが話した。
ライナスが「崖の縁には近づかない方がいいですね」と言い、レオンが「でもゼノの反応が速かった。さすがだな」と言った。
ゼノは「反射だった」と言った。
「反射でも、間に合ってよかったです」
「……そうだな」
夜の見張りを始めた頃、円卓に入った。
「今日のこと、どう思った?」
ルミナが開口一番に聞いてきた。
「考える前に動いていた」
「どんな場面で?」
「エリナが崖から落ちかけた時だ。傾いた瞬間に、身体が動いていた。判断した記憶がない」
「うん」
「それだけか」
「続きを聞いてるわ」
「……論理より先に身体が動いた。以前にも似たことがあった。魔物からエリナを守った時。今日で二度目だ。パターンとして確認できる」
「パターン、ね」
「分析として正確だと思うが」
「正確よ。ただ、パターンの名前を言ってほしいな」
「名前、か」
「これが——何かって」
「……論理より先に、そうしてしまうことがある。エリナに対して特に。計算が止まる。処理が止まる。身体が動いている。それが繰り返されている」
「それが何か、言えそう?」
「……言語化しようとすると止まる」
「止まってもいいわ。止まりながら、言ってみて」
「これが——」
「続きは?」
「……愛情か、という感覚がある。だが確信がない」
「確信がなくていいの。感じているかどうかが大事。愛情よ。理由より先に、そうしてしまうこと。それが愛情の形よ」
円卓は静かだった。
ルミナがゼノを急かさなかった。ただ待っている。
ゼノは処理しようとして、止めた。
今日の動作を振り返った。考える前に動いた。引き上げた。掴んだままでいた。
掴んでいることに気づかなかった。それが何を意味するのか。掴んでいることが自然だったから気づかなかった。自然だった、というのはどういう状態だろうか。
「ルミナ」
「何かしら」
「掴んでいることに気づかなかった」
「うん」
「気づかないくらい、自然だった。それは——」
「そうよ。自然になっている」
長い沈黙があった。
広間の灯りが安定して燃えていた。ルミナが椅子に座って、ゼノを見ていた。
「……俺は、エリナを——」
言葉が来たが、その続きが来なかった。
来かけて、止まった。言葉に変換される前に止まった。
「言わなくていいよ、今は」
「なぜ」
「感じていれば、それで十分。言葉にしようとすると、今の感じ方が変わる場合があるから。今感じていることを、今のままにしておいて」
「……言葉にできない状態が続くのか」
「続くわけじゃない。準備ができた時に言葉が来る。無理に出そうとしなくても、来る時が来る」
「その時がいつか、わかるのか」
「わからないわ。でも、確実に来る」
「根拠は」
「ないわ。でも、信じてる」
「……ルミナ」
「何かしら?」
「今日、エリナが無事だった。それを確認した時に何かが来た。昨日、全員無事だった時にも来た。この二つは同じものか、別のものか」
「どんな感じだった、それぞれ」
「全員無事の時は、安堵に近かった。エリナが無事の時は——別の層にあった気がする。安堵より、何か深いところにあった」
「それが違う、ということよ。同じ安堵でも、源が違う。源が深いところにあるものが来た。それが愛情からきた安堵よ」
「源が深い」
「大切だから、来るものが深い。大切じゃなければ、浅いところで来て終わる。深いところから来るということは、それだけ大切だということ」
「大切だ、という感覚が来ているのか」
「来ていると思う。ゼノくんが気づいていなくても、来ている」
「気づいていなくても来ているとは、どういう状態だ」
「さっきも気づいていなかったでしょ。掴んでいることに。でも掴んでいた。気づく前に動いていた。それが来ているということよ」
ゼノは処理しようとして、止めた。
今日で三度目だった。処理しようとして止めることを、繰り返していた。
「止めることが、少し自然になってきた気がする」
「それが変化よ。処理しないことへの抵抗が減ってきた。それが、感じることへの準備ができてきているということ」
「……ルミナ。覚醒はいつ来るんだ」
「わからないわ。でも、近いと思ってる」
「根拠は」
「ないわ。感じているから」
「毎回同じ答えだ」
「毎回本当のことを言ってるから」
ゼノは少し黙った。
「……俺が、エリナを——という言葉が来かけた。続きが出なかった」
「出なくてよかった。今日はそれで十分よ」
「なぜ十分なんだ」
「来かけたから。来かけたということは、もうそこにあるということ。言葉になるのは、時間の問題よ」
円卓を出て、見張りに戻った。
今日、落ちかけた。腕を掴んだ。引き上げた。掴んだまま気づかなかった。
考える前に動いた。
その動作の源が、どこにあるのか。
深いところにある何か、とルミナは言った。
そこにあるものが何かを、まだ言葉にできなかった。
ただ、来かけた言葉の形は頭の中にあった。
最後まで読んでくれて、ありがとうございます!
次の更新をお楽しみに!
ではまた。




