第68話 愛情の輪郭
今日は夜が深かった。
雲がなく、星が出ていた。月が低い位置にあって、地面に薄い光を落としていた。
ゼノは焚き火の傍に座りながら、周囲の気配を確認し続けていた。魔物の反応はない。遠くに小さな気配があったが、こちらに向かってくる動きはなかった。今夜は静かなまま過ぎる見込みだった。
全員が眠っていた。
ゼノは全員を見た。
見張りをしながら全員の状態を確認することは習慣だった。体調の変化、怪我の悪化、眠れていない様子。何かあれば対応する必要がある。
ただ今夜は、それとは少し違う確認をしていた。
レオンが目に入った。
大きく口が開いていた。寝息の音が一番大きく、腕を広げて、仰向けで、全力で眠っている姿だった。
騒がしい奴だが、一番感情が素直だ。
ゼノは内心で確認した。喜ぶ時は喜ぶ。悔しい時は悔しい。怒る時は怒る。その全部が外に出る。内側と外側がほぼ一致している。だから読みやすい。だから信頼しやすい。
ライナスが少し小さくなっていた。
膝を少し曲げて、横向きで眠っていた。体が小さく見える。
臆病だと言っていたが、今は前に出られる。
入学当初、ライナスは自信がないと言っていた。フォームの問題を修正する前は、強い魔法が出なかった。前に出すぎて危険になりかけたこともあった。
今は違う。危険な状況で前に出ることができた。信頼してください、という言葉を言えた。それは入学当初のライナスには難しかったかもしれなかった。
臆病と慎重は別の話だ、とゼノは以前言った。今のライナスは臆病でも無謀でもなく、慎重に判断しながら必要な時に前に出られる。
セレンが整然と横になっていた。
背中が真っ直ぐだった。毛布が乱れていなかった。寝ている時も、何か静かな秩序があった。
感覚の塊のような人間だ。俺とは正反対だ。
今日の川での話が頭の中を巡った。言語化しようとすると感覚が消える。当たり前という感覚がどこから来るかを考えたことがなかった。
セレンの感覚は、ゼノの論理と対極にあった。だが対極であるからこそ、見えるものがあった。セレンから学んだことがあった。感覚を否定せずに受け取ることを、セレンが教えてくれた。
正反対であることが、有用だった。
エリナが視界に入った。
眠りながら微笑んでいる。夢を見ているのか、それとも眠っている状態がそういう顔になっているのかは、判別できなかった。
ゼノは確認しようとした。
体調の確認。怪我の状態。呼吸の安定。
問題なかった。全部問題なかった。
それ以上に進もうとして、止まった。
他の三人を見た時と、何かが違った。
比較対象を持った感覚ではなかった。エリナを見ている時に来る何かが、他の三人を見ている時とは別の種類だった。
言語化しようとしたが、できなかった。
いつも保留にする時は、処理できないから保留にしていた。今は、処理を開始する前から止まっていた。
エリナの寝顔を見て、処理が止まっていた。
なぜ止まるのかもわからなかった。
学園の頃の作られた笑顔ではなかった。眠っている間の表情だから、意識的に作ることはできない。自然に出ている微笑みだった。
眉が少し上がって、口元が緩んでいた。こめかみに力が入っていなかった。全体的に力が抜けていた。安心しているような顔だった。
見張りを続けながら、ゼノはその感覚を確認し続けた。
エリナを見た時に来るものが何なのか。
処理できないから保留ではなかった。処理しようとする動作が起動しない感じだった。いつもなら情報として入力して、分析して、結論を出す。その最初の入力の段階が、エリナに対しては違う動き方をしていた。
情報として処理しようとする前に、何かが来た。
その何かを確認しようとして、また止まった。
円卓に入った。
今夜はルミナ一人だった。
「どうだった?」
「……全員の寝顔を見た」
「それだけ?」
ゼノは少し間を置いた。
「……エリナの顔を見た時、何かが違った。処理の仕方が、他の三人と違う」
「どう違ったの?」
「他の三人は、見た時に情報として入力して、確認して、次に移れた。エリナは——入力しようとして、止まった。処理が止まった。なぜ止まるのかもわからなかった」
「そう」
「それが何かを教えてくれ」
ルミナが「それは——」と言いかけて、止まった。
ゼノは待った。
「ゼノくんが自分で気づくまで、待つわ」
「なぜ」
「愛情は、教えてもらうものじゃないから」
「だが今の状態がわからない。処理できない状態が続いている。原因がわかれば対処できる」
「対処するものでもないの」
「どういう意味か」
「処理できないままでいいのよ、今は。処理しようとすることで、消えてしまうものがあるから。セレンが言語化しようとすると感覚が消える、という話と少し似てる」
「セレンの話を聞いていたのか」
「ゼノが感じてたから、なんとなく。処理しようとすると消える。それが感覚のことでも、愛情のことでも同じ構造があると思う」
「では、処理しなければいいのか」
「処理しないことと、感じることは別よ。感じることを止めようとしなくていい。ただ、言語化しようとすることで感じることができなくなる場合がある」
「矛盾していない。ただ、俺には感じ方がわからない」
「わからなくていい。感じている、という状態は既にあるのよ。処理が止まったという状態が、感じているということだから」
「処理が止まることが、感じているということか」
「そう。いつも通りに処理できないということは、いつもとは違う何かが来ているということ。その何かが何かを、今はゼノくん自身が確認する時間が必要なの」
「時間が必要か」
「そう」
「いつわかるのか」
「わかった時にわかる」
「曖昧な答えだ」
「愛情は曖昧なものよ、最初は。輪郭がはっきりしてくるのは、積み重なってからだから」
「愛情の輪郭、とはどういうものだ」
「ゼノくんが今日感じたことが、輪郭の一部よ。エリナの寝顔を見て処理が止まった。それが線の一本。線が増えていくと、形になる。形になった時に、それが何かわかる」
「線が増えていくとはどういう意味だ」
「同じような感覚が繰り返し来ること。エリナのことを考えた時に来る何かが、積み重なること。それが輪郭になっていく」
「俺はまだ輪郭がはっきりしていない状態か」
「そうよ。でも、線は来てる。今日も来た」
「ルミナ」
「何かしら」
「ルミナはなぜ待つんだ。教えてしまえば、俺はすぐに言語化できるかもしれない」
「言語化できても、感じることにはならないの。愛情って、知識じゃなくて体験だから。教えてもらった愛情は、本物じゃないのよ。自分で気づいた時に初めて本物になる」
「本物になる、とはどういう状態だ」
「言語化する前に、もう来ている状態。理解する前に、そうしてしまっている状態」
「なぜかわからないけど、そうしてしまうという状態か」
ルミナが少し目を細めた。
「……そうよ。それが愛情よ」
「一つだけ聞いていいか」
「何かしら」
「ルミナは俺が気づく日が来ると思っているのか」
「思っているわ」
「根拠は」
「ないわ。でも、信じてる。根拠なしに信じることが信頼よ、ってテラが言っていたでしょ。わたくしの場合は、それが愛情でもある。根拠なしにゼノくんが気づく日が来ると思ってる」
「ルミナはいつも根拠なしに言うな」
「そうよ。愛情はそういうものだから」
「……わかった」
「何がわかったの」
「待つ理由が、俺にもわかった気がする」
円卓を出た。
エリナが眠っていた。まだ微笑んでいた。
ゼノは処理しなかった。いや、処理しようとしなかった。
ただ見た。
処理が止まる、という状態をそのままにした。それが感じているということだとルミナが言っていた。
そのままにしておくことが、今夜の答えだった。
焚き火が静かに燃えていた。
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ではまた。




