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六属性を持つ最強転生者は、感情という魔法を知らない  作者: 猫眼鏡博士
第二章

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第64話 エリナとの朝

 夜明け前に目が覚めた。

 魔力が完全に戻った。感知の範囲が元通りになり、身体に重さがなかった。覚醒の消耗から回復できていた。


 宿の部屋を出ると、街はまだ静かだった。市場も開いていない。外れに向かって歩いた。昨日買い揃えた物資の確認は昼に行う予定だ。今は、魔力の調整をしたかった。数日動けなかった分、各属性の感覚を確認する必要がある。


 街の外れの空き地に出た。

 地平線の向こうが少し明るくなっていた。空が青から淡い橙に変わりかけていた。

 六属性を順番に発動した。火、水、風、土、聖、闇。それぞれの感触を確認したが、どれも問題なかった。覚醒前と変わらない精度で出た。土属性だけ、覚醒後の感覚が少し違った。範囲の把握が広くなっている。


 足音がして、振り返るとエリナがいた。


「早いですね。魔法の調整ですか?」

「ああ。邪魔だったか」

「違います。私も早く起きて、外の空気が吸いたくて。見つけてしまいました」

「そうか」

「隣に座っていいですか?」

「構わない」


 二人で空き地の端に並んで座った。

 街は静かで、遠くで鳥の声がした。空が少しずつ明るくなってきた。

 昨日の市場の賑やかさとは全く違う種類の時間だった。

 エリナが膝を抱えて空を見ていた。ゼノは魔法の調整を終えて、同じ方向を見ていた。

 会話はなく、ただそこにいた。

 その状態が、不快ではなかった。以前は沈黙を処理の時間として使っていた。今もそれは変わらないが、今の沈黙には別の質があった気がした。


「旅に出て、変わったと思いますか? 私」


 エリナが言った。空を見たまま言った。


「変わった」

「即答しましたね」

「確認済みだ。変化は明確に観察できている」

「どんな風にですか?」

「笑顔の質が変わった。学園の頃は作っていたが、今は作っていない時間の方が長い」

「笑顔の質、ですか」

「そうだ。入学当初、お前の笑顔は筋肉の動きが過剰で、目の奥と表情がずれていた。意識的に維持していた。今は、そうではない場面の方が多い。自然に出ている笑顔の割合が上がっている」


 エリナが少し目を細めた。


「ゼノさんって、本当によく見てますよね」

「観察は基本だ」

「でも、観察だけじゃないと思います」

「どういう意味だ」

「ゼノさんが見てくれてるから、私も安心して変われた気がするんです」

「俺が見ていることが、お前の変化に影響したのか」

「そうです。見られてるってわかると、本当の自分を出してもいいって思えてくる。ゼノさんは嘘に気づくから、最初から嘘をつこうとしなくなって。そしたら作らなくてよくなって」

「以前も同じことを聞いた」

「そうです。でも、今はもっとそう思います。旅に出てから、ゼノさんがいるから変われた部分が、学園の時よりずっと多いので」


 観察しているだけだ、という言葉が来なかった。礼は不要だという言葉も来なかった。事実を述べただけだ、という言葉も今回は来なかった。

 エリナが言っていることが、俺が意図してやってきたことではない。だがエリナには届いていた。俺がそこにいて、見ていたことが、何かを与えていた。

 その事実を、今日は言葉として返せなかった。


「……そうか」


 それだけが出た。


「返答できなかったですね」

「処理できていない部分がある」

「どんな部分ですか?」

「俺が見ていることが、お前に何かを与えていたという事実をどう処理すればいいかがわからない。意図していなかった。ただいたから見ていた。それが誰かの変化に繋がった」

「意図してなくてもいいんですよ。いてくれただけで十分でしたから」


 朝の空が、橙から金色に変わり始めていた。

 エリナが「ゼノさんにとって、私って何ですか?」と聞いてきた。

 静かな声だった。責めているわけでも、何かを求めているわけでもなかった。ただ、聞いてみた声だ。


 長い沈黙があった。

 エリナ・ソーレル。聖属性の魔法使い。回復魔法の精度が高い。パーティの生存率に直結する存在。最初に話しかけてきた人間。笑顔が変わっていくのを観察してきた相手。


 それだけではなかった。


 学園の入学から今まで、ずっと何かが変わり続けていた。エリナを見るたびに、観察データが更新されていた。でも今は、データとして処理しようとすると何かがそれを邪魔した。

 笑顔を見た時に来るものがある。声を聞いた時に来るものがある。並んで座っている今も、何かがある。


「……観察対象から、始まった」


 ゼノは話し始めた。


「最初は、感情を『現象』として観察できる相手だと思っていた。笑顔の種類が多く、変化が読みやすかった。有用なデータが取れる相手だった」

「今は?」

「今は——まだ、言語化できない」


 エリナが少し息を吸った。


「観察対象ではなくなった、ということですか」

「……なったとは言い切れない。ただ、観察対象だけではなくなった可能性がある」

「それってどういう意味ですか?」

「俺にもわからない。データとして処理しようとすると、うまくいかない部分が増えてきた。エリナに関することを処理しようとした時に、うまくいかない部分がある。それが何を意味するかが、まだわからない」

「うまくいかない部分、ですか」

「昨日、市場で隣を歩いていた時。何を観察しようとしていたかが、終わった後で確認できなかった。データを取ろうとしていたのか、ただ見ていたのかが、判別できなかった」


 エリナがしばらく黙った。

 空が完全に明るくなっていた。朝の光が街に差し込み始めていた。


「……いつか言語化できたら、教えてください」


 エリナが笑った。

 その笑い方には嬉しさがあった。照れがあった。それから何かが抑えられていた。

 ゼノはその笑顔を観察した。

 複合的な笑顔だった。複数の感情が同時に出ていた。


「……わかった。言語化できた時に、言う」

「約束ですよ」

「約束は守る」

「知ってます。ゼノさんは嘘をつかないから」


 二人でしばらく朝の空を見ていた。

 今日は処理しなくていい気がした。

 理由はわからなかった。ただ、エリナが隣にいて、朝の空があって、それが今は十分な気がした。


「ゼノさん」

「何だ」

「今日の朝、早起きしてよかったです」

「……俺も」


 言葉が来た前に出た。計算ではなかった。

 街が起き始める音が遠くから聞こえてきた。

 市場が開く準備の音。宿の方から人の声。一日が始まろうとしていた。


「そろそろ戻りますか」

「ああ。今日は出発の準備がある」

「はい」


 二人が立ち上がった。

 歩き始める前に、エリナが「ゼノさん、言語化できる日を楽しみにしています」と言った。


「楽しみにする、という感覚がどういうものかは、まだわかっていないが、俺も——何かを待っている感覚がある。それが何かは、まだわからない」


 エリナが笑った。


「それで十分です」


 朝の街に向かって、二人が並んで歩き始めた。

最後まで読んでくれて、ありがとうございます!

次の更新をお楽しみに!


ではまた。

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