第61話 愛情の気配
療養二日目だった。
魔力の回復は順調だった。エリナが朝と夜に回復魔法をかけてくれていた。感知の範囲が少しずつ戻ってきている。ただまだ完全ではなかった。
全員が交代で周囲の警戒をしてくれていた。ゼノは指示を出さなかった。全員が自分で判断して動いていた。
昼間は地図を見ながら次の方針を考えていた。動けなくても、情報の整理はできた。ただし、動けないことへの焦りが来るかどうかを確認していた。
来なかった。
以前なら来ていたと思った。動けない状態への焦りが。今は、全員が動いてくれていることが、焦りより大きかった。
夜になった。
全員が食事をとった後、ライナスが今日の警戒状況を報告してくれた。異常なし。明日も同じ体制で行くと言った。
一人になって、円卓に入った。
ウェントスとテラとイグニスの三人が揃っていた。
ゼノが今日の状態を話した。回復が進んでいること。全員に任せていること。焦りが来なかったこと。
「それはよかったね」とウェントスが言った。
「覚醒の消耗は想定より大きかったが、回復も想定通りだ。明日には動ける状態になっていると思われる」
「無理しないでくださいね」
「あなたなら大丈夫って言うのかと思った」
「言いますよ。あなたなら大丈夫。でも、無理しないでください。両方言います」
三人で話しながら、ゼノは空席を見ていた。
まだ三つが薄暗かった。それぞれの椅子が、まだ色を持っていなかった。
信頼の覚醒から二日が経っていた。次に来る感情が何かは、テラが言っていた順番から考えると、愛情だった。
「愛情の覚醒はいつ来るんだ」
「ゼノ君が愛情を体験した時です」
「愛情の定義が——」
「ゼノくんが自分でわかる日が来ます」
また保留になった。
その時、広間の空気が変わった。
変化は静かだった。音がしたわけでも、温度が変わったわけでもなかった。ただ、何かが来るという感覚があった。
「あ——」
ウェントスが声を出した。
円卓の一角を見ていた。
「……来た。」
イグニスが言った。腕を組んだまま、一点を見ていた。普段よりわずかに姿勢が変わっていた。
テラが静かに微笑んでいた。
金色の光が現れた。
薄暗かった椅子の一つが、光を内側から持ち始めていた。赤い椅子が現れた時と違って、急ではなかった。ゆっくりと、広がるように光が満ちていった。金色だった。暖かい色だった。
光の中に、人の形が現れた。
金色の髪だった。長かった。ゆっくりと流れるような髪だった。金色の瞳が、ゼノを見ていた。表情が穏やかだった。でも穏やかさの質がテラとは違う。テラの穏やかさは落ち着きから来ていた。この人格の穏やかさは——深さから来ていた。
「……こんにちは、ゼノくん。ずっと、見ていたわ」
ゼノは観察した。
金色の髪、金色の瞳。
「愛情を司る人格か」
「そう。ルミナよ」
ルミナが静かに言った。急いでいない声だった。来たくて来た、という落ち着きがあった。
少し間があった。
「最初に言いたいことがあるの」
「話してくれ」
「わたくし、ゼノくんのことが大好きよ」
広間が少し静かになった。
ゼノは処理しようとした。
「大好き、の定義が——」
「定義なんてないの」
ゼノの声をルミナが遮った。穏やかな声だ。怒っていない。ただ、はっきり言った。
「ただ、そう思うから、そう言うの。理由があって好きなんじゃなくて、好きだから好きって言いたいの」
「……合理的ではない」
「愛情って、そういうものよ」
「うわ、重そう。」
イグニスが呟いた。小さい声だったが、聞こえた。
「聞こえてるわよ、イグニス。重くていいの。本物だから」
「うわ、やばい」
「やばい、という評価はなんとなく理解できるわ。でも、本物よ」
ウェントスが「でも本物だよねー」と言った。イグニスと少し違う言い方だったが、内容は同じだった。
「そうよ。わたくし、ゼノくんのことを長い間見てきた。見てきた上で、好きって言ってる」
「ルミナ」とテラが穏やかに、しかし少し慎重な声で呼んだ。
「何かしら、テラ」
「少し……暴走しないようにね」
言い方が柔らかかった。責めているわけではなかった。ただ、念を押していた。
「わかっているわ」
ルミナが微笑んだ。
穏やかで、金色の瞳が細くなっていた。口元が柔らかかった。
ただ、少しだけ——深すぎた。
テラの笑顔は均衡していた。何かが均等に混ざっていた。ルミナの笑顔は、一つの方向に向いていた。好き、という方向に。均衡ではなく、集中だった。
「暴走、とはどういう意味だ」
「聖属性は愛情と関係が深い属性です。ルミナの愛情が強くなりすぎると、性質が変質することがあります。今は大丈夫です。でも、気をつけておくことがあります」
「変質、とは」
「聖属性の覚醒について、後で話します。今日はルミナが来たことを受け取ってください。」
「了解した」
ゼノはルミナを見た。
「お前がここに来た理由を教えてくれ」
「来たかったから、来たわ。信頼の覚醒があったでしょ。その後に来ようと思っていた」
「信頼の覚醒と、愛情に関係があるのか」
「信頼ができてから、愛情が深まりやすいの。信頼がある場所に、愛情は育つ。ゼノくんに信頼が来た。だから次はわたくしの番だと思って」
「順序があるのか」
「必ずそうとは限らないけど、ゼノくんの場合はそうだと思う」
「ルミナ」
「何かしら」
「お前が大好きと言った。俺が誰かを大好きだと思ったことがあるかどうか、まだわからない。それについてどう思う」
「問題ないわ」
「なぜ」
「わたくしが大好きでいれば、それでいいもの。ゼノくんが同じように思う必要はない。ただ、いつかわかる日が来ると思ってる」
「根拠は」
「根拠はないわ。でも、そう思ってる」
「テラと同じ答えだ」
「そうかもしれない。でもテラとわたくしでは、好きの質が違うわ。テラは信頼してる。わたくしは好き」
「違うのか」
「違うわ。全然違う。でも、どちらも本物よ」
「イグニス」
「何だ」
「お前はルミナについて重そう、と言った。なぜそう思ったのか」
「……本人の前で言うのかよ」
「聞いた方が正確だ」
イグニスがため息をついた。
「愛情って、強いんだよ。怒りより強い場合がある。だから怖い。怒りは方向を持てる。愛情は方向がない場合がある。どこにでも向く。だから重い」
「なるほど」
「納得するなよ」
「合理的な説明だった」
「ルミナが暴走する、ってテラが言ったのも、同じ理由だ。愛情が強くなりすぎると、制御できなくなる」
「わかったわ、イグニス。ありがとう」とルミナイグニスに言った。
「礼を言われるのも重い」
ウェントスが「なんか賑やかになったね」と言った。
「四人になった。残りは二つだ。どちらが次に来るんだ」
「順番通りなら、次は——愛情の後は、悲しみだよ」
「悲しみ、か」
「大丈夫よ、ゼノくん」
ルミナが抱きしめながら言った。
「悲しみは、わたくしが来た後に来るものだと思ってる。愛情があるから、悲しみを受け取れる」
「愛情と悲しみが繋がっているのか」
「繋がってるわ。大切なものができたから、失うことが怖くなる。それが悲しみに繋がっていく」
四つの椅子に四人が座っていた。
最初にウェントスがいて、次にイグニスが来た。その次にテラ。今夜はルミナが来た。
それぞれが異なる感情を司っていた。それぞれが異なる声を持っていた。それぞれが、ゼノの感情が取り戻されるのを待ってここに来た。
「ルミナ」
「何かしら」
「来てくれてよかった」
広間が静かになった。
ルミナが少しの間、ゼノを見ていた。それから金色の瞳が柔らかくなった。
「……ありがとう、ゼノくん」
声に、何かが混じっていた。本物の何かが。
「礼を言うのは俺ではなく、お前だったのか」
「そうよ。来てよかったと言ってもらえたから」
「……そうか」
ウェントスが「ゼノ、また自然に言えてる。」と嬉しそうに言った。
イグニスが「……まあ、悪くない始まりだ。」と言った。
テラが微笑んでいた。
三つの椅子が光を持っていた。三つの席が、まだ薄暗かった。
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ではまた。




