第30話 事件の発端
放課後の廊下を歩いていた時、声が聞こえた。
誰かが息を呑んだような、短い声だった。ただの音として聞こえたが、ゼノの足が止まった。
音の方向を確認した。廊下の角を曲がった先、渡り廊下に繋がる方向だ。
音のした方にむかうと、渡り廊下の端に生徒が一人倒れていた。
他のクラスの生徒だった。制服の袖が焦げていて、腕を押さえていた。傷の様子から、魔法を受けた跡だ。周囲に他の生徒が数人いて、様子を見ていたが誰も動いていなかった。
その中にライナスがいた。
ライナスは傷ついた生徒の隣に膝をついていた。傷の状態を確認しながら、声をかけていた。
ライナスがゼノに気づき立ち上がった。立ち上がった時、その全身が震えていた。
「ゼノさん」
怒りで震えている声だった。泣きそうな声でも怒鳴りそうな声でもない。それよりも根の深い、何かを必死に抑えている声だ。
「何があった」
ライナスが説明した。
上級生の一人が、魔法を使って怪我をさせたらしい。理由は「弱い魔法使いは学園にいる必要がない」という言葉だった。傷ついた生徒は風属性だったが、出力が弱いと上級生に言われ、それに対して言い返した時に魔法を放たれた。
「その上級生は去っていきました。誰も止めなかった。俺が来た時にはもうこうで」
「上級生は今どこにいる」
「分かりません。どっかに行きました」
ゼノは状況を整理した。
被害者がいる。傷の状態は軽くはないが、緊急性が高い重傷ではない。加害者は現場を離れた。目撃者も複数いる。
「証拠を集めて先生に報告する。最も効率的な解決策だ。目撃者の話、傷の状態、加害者の特定。順を追って対処する」
「でも......それだけじゃ足りない気がして!」
声に力があった。効率的な解決策を否定しているわけではない。ただ、それだけでは届かない何かがある、という声だ。
ゼノはライナスを観察した。
震えが止まっていなかった。手が。声が。体全体が、細かく震えていた。目が充血しかけていた。泣いているわけではない。怒りで身体の制御が乱れている状態だった。
それだけじゃ足りない、という言葉の意味を処理した。
報告して処分を求める。それは手順として正しい。だがライナスが感じているのは、手順の問題ではなかった。目の前で友人が傷つけられた。その事実が、ライナスの中で何かを動かしていた。怒りが行動を求めていた。
怒りが行動の起点になっている。ライナスにとって怒りは原動力か。
以前に似たことを考えていた。レオンの悔しさが次の行動の燃料になるのを観察した時。感情が行動に変換されるという構造だ。ライナスの怒りも、同じ構造を持っている。ただ今のライナスの怒りは、行き先を探している状態だった。
「足りない気がする、という感覚は分かる。ただ今すぐできる最善は、傷ついた友人を医務室に連れていくことと、先生に報告することだ。感情的に動いて問題を大きくするより、確実な手順を踏む方が、最終的にその上級生を止める可能性が高い」
ライナスが少し黙った。震えが少し収まったが、完全にではなかった。
「......分かりました」
「傷ついた生徒を支えてくれ。俺が先生を呼ぶ」
ゼノが廊下に出た直後、前方に人がいた。
上級生だった。数人で立っていてそのうちの一人が、渡り廊下の方に視線を向けていた。状況を確認しに戻ってきたのか、あるいは最初からここにいたのかは判断できなかった。
目が合った。
上級生がゼノを見て、少し目を細めた。
「お前が六属性のバケモノか」
その声には嘲りがあった。
「六属性って普通じゃないだろ。異質なもの同士、何か思うことでもあるのか?」
「バケモノの定義が——」
魔法が飛んできた。
上級生が話しながら手を動かしていたことは把握していた。発動の準備をしている動作だとは判断していなかった。会話中の攻撃だ。
土属性で即座に壁を作り、魔法を無効化した。衝撃が手の中で散った。
廊下が静まり返った。
他の生徒たちが止まっていた。渡り廊下からライナスが出てきた。状況を見て、固まった。
上級生が、ゼノを見ていた。
無効化された、という事実を処理しているのかもしれなかった。表情が変わっていた。嘲りが薄れて、別の何かが混じっていた。
「......強い魔法を持っていても、感情のないバケモノには関係ない話だろ。お前は人間じゃないから、こういうことも気にならないはずだろ」
感情のないバケモノ。人間じゃない。その言葉が、以前にも似た形で届いたことがあった。ライナスが陰口を聞いて報告してきた時だった。あの時は何も感じなかったと思っていた。
今も何も感じているかどうか、判断できなかった。
ただ、後ろにライナスがいて、渡り廊下に傷ついた生徒がいた。
「先生に報告する。ここでの行動は全員が目撃している。証言は十分に集まる。お前たちが今どこに行っても変わらない」
上級生が何かを言おうとした。
その時、廊下の奥からガード先生の足音が聞こえてきた。誰かが既に呼びに行ったらしい。
その後は先生たちが対応した。
ゼノは見た事実だけを、感情を混じえず、順序立てて話した。ガード先生が「分かった、後は任せろ」と言った。
ライナスが傷ついた生徒に付き添って医務室に向かった。行く前にゼノを振り返った。
「ゼノさん、ありがとうございました」
「報告をしただけだ」
「止めてくれたじゃないですか。魔法を」
「飛んできたから無効化した。それだけだ」
ライナスが少し笑った。怒りはまだ残っていたが、少し違う顔になっていた。
「それだけ、って言いますけど、俺には見えませんでした、あの動き」
「経験の差だ」
「でも——俺の友達のそばに来てくれたのは、経験じゃないと思います」
そう言って、ライナスが医務室に向かった。
廊下に一人残った。
バケモノ、という言葉が、頭の中に残っていた。
以前に同じ言葉を聞いた時とは、何かが違う気がする。
その違いが何なのかを、夜の円卓でイグニスに聞こうと思った。
ただ聞きたいことが、今日初めて具体的な形を持った気がした。
最後まで読んでくれて、ありがとうございます!
次の更新をお楽しみに!
ではまた。




