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六属性を持つ最強転生者は、感情という魔法を知らない  作者: 猫眼鏡博士
第一章

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第29話 怒りの声

 その夜の円卓は、最初から少し空気が違った。

 いつも通り意識を内側に向けて円卓に入ると、ウェントスがいつものように座っていた。

 ただ、いつものように足をぶらぶらさせていなかった。両手を膝の上に置いて、背筋を伸ばして座っていた。何かを待っているような姿勢だった。


「......どうした」

「なんでもない」


 なんでもないという割に、目に落ち着きがなかった。時々、隣の椅子の方に視線が行っていた。

 ゼノは自分の席に着いた。

 今日あったことを話した。レオンの火魔法の出力低下。感情と魔法の連動。技術的なアプローチで対処したこと。レオンが家のことについて、詳細は言わなかったが少し話したこと。


「そっか、レオン、大変だったんだね」

「詳細は分からないが、家族との関係に何かある。感情が安定すれば出力も戻ると思う」

「ゼノ、聞かなかったんだよね、家のことを詳しく」

「必要がなかった」

「それがよかったんだと思う。無理に聞かれると、もっと辛くなることがあるからね」


 話しながら、ゼノはウェントスの視線が時々動くことを確認し続けていた。

 何度目かの時、ゼノも椅子を見た。

 薄暗いままだった。だがその薄暗さの質が、いつもと少し違う気がする。何かが内側から押しているような圧力がある。


「ウェントス」

「......何?」

「隣の椅子を、さっきからよく見ているな」

「そう? 気のせいじゃない?」

「気のせいではない」

「......今夜は、もしかしたら――」


 その時だった。


 椅子に、影が現れた。

 薄い輪郭ではなかった。今度は形がある。明確な輪郭を持った人影が、椅子の上に座っていた。


「......そんなにじっと見るんじゃないよ」


 明確な声だった。輪郭だけだった時と違い、存在が実体を持っていた。


 ウェントスが「あ」と小さく言った。

 ゼノは椅子に座っている存在を観察した。

 赤い髪。ポニーテール。腕を組んで横を向いている姿勢。赤い瞳が、まだこちらを向いていなかった。だが確かにそこにいた。輪郭だけだった時とは全く違う存在感があった。


「お前が......」


 その存在が、少し動いた。組んでいた腕の力が変わった。横を向いたまま、少し顎を上げた。


「そう。イグニス......別に、来たくて来たわけじゃないから」

「絶対来たかったくせに〜!」

「うるさい!!」


 イグニスがウェントスを向いた。初めてこちら側に顔が向いた瞬間だった。赤い瞳が見え、眉が寄っていた。口元が尖っていた。

 怒っているというより、照れているのに怒った顔をしている、という印象をゼノは持った。


「来たくなかったなら来なければよかった」

「ゼノは黙ってろ」

「なぜ」

「なんとなくだ」

「合理的な理由がない」

「感情に合理的な理由は必要ない!」


 ウェントスが「あ、いいこと言った」と呟いた。


 しばらく三人が沈黙していた。

 イグニスはまた横を向いていた。来たくなかったと言っている割に、出て行く様子がなかった。ゼノはその矛盾を指摘しようとして、やめた。指摘することで何かが変わるとは思わなかった。


「イグニス」

「何」

「怒りを司る人格だと理解している」

「そうだけど」

「怒りについて教えてくれ」


 イグニスが少し止まった。

 それからため息をついた。感情のこもったため息だった。諦めとも呆れとも違う、何かが入ったため息だ。


「......頭で教えてもらっても意味がない」

「なぜだ」

「自分で感じなきゃ、分かんないから。怒りって説明されて理解するものじゃない」

「感じる方法が分からない」


 イグニスが初めて、ゼノをまともに見た。

 横を向いていた顔が、正面に向いた。腕を組んだまま、赤い瞳がゼノを見た。

 何かを確認しているような目だった。今まで横を向いていた時とは違う種類の視線だった。


 少し間があった。

 イグニスの表情が、わずかに変わった。眉の寄り方が緩み、口元の尖り方が少し和らいだ。怒っている顔から、別の何かが混じった顔になった。


「......そっか」


 静かに言った。

 ウェントスがイグニスを見ていた。何かを知っている目だった。


「本当に分かんないんだね、怒りが」

「あるのかどうかも分からない。怒りという感情の定義は頭では理解している。ただ、自分に起きているかどうかが判断できない」

「起きたことは、あるよ」

「......いつだ」

「ライナスが陰口を言われた時の話、覚えてる? あの時、少し動いたんだよね、私が。ゼノの中で。」


 椅子が初めて揺れた夜だ。ウェントスが「気のせいじゃない?」と言ったが、目が泳いでいた。


「あの時が、怒りだったのか」

「完全じゃないけど。端っこは来てた」


 ウェントスが以前に言った言葉と同じ表現だった。端っこ。覚醒の前に、端っこが来る。


「端っこでは分からなかった。完全に感じるとはどういう状態だ」

「それは——言葉にできない。言葉にしたら頭で整理してしまう」

「感じる方法を教えてくれ、と言ったが教えることができないのか」

「できない」


 はっきりと言った。


「俺が自分で感じるしかないのか」

「そう」


 ゼノは少し黙った。

 ウェントスも同じことを言っていた。自分で分かった時が本物だ、と。頭で理解するのではなく、体で感じる時に来る、と。


「一つだけ聞く。怒りを感じるためには何が必要なんだ。感じる方法ではなく、感じることができる状況について」


 イグニスが少し考えた。


「大切なものが、傷つくか傷つきそうになる時。それか、守れなかった自分に気づく時。どっちかが来た時に、怒りは来る」

「大切なもの」

「今のゼノに、大切なものはあるか?」


 大切なもの。その言葉を考えた。ライナスが泣いた時のこと。エリナの笑顔が変わった時のこと。レオンに礼を言われた時のこと。それらが、大切なものと呼べるものに近いのかどうか。


「......分からない」

「正直だね」


 イグニスが初めて、怒ってもなく照れてもない、静かな声でそう言った。


「分からなくてもいい。ただ、分かる日が来たら——その時に私が来る」

「来る、というのはどういう意味だ」

「今みたいに、ちゃんと来る。今日みたいにじゃなくて、もっとはっきりと」


 ウェントスが「今日は来てくれてよかったよ、イグニス。」と言った。


「別に来たかったわけじゃない」

「うん、うん」


 ウェントスが笑いをこらえているような声で言った。


「笑うな!」

「笑ってないよ」

「顔が笑ってる!!」


 イグニスの態度は一貫していた。来たくなかった、教えられない、感じるしかない。だが来た。話した。ゼノが感じる方法が分からないと言った時に、表情が変わった。


「イグニス」

「まだ何かあるの」

「今日来た理由を、正直に教えてくれ。来たくなかったわけではないだろう」


 イグニスが少し止まった。

 また横を向いた。赤い髪が視界を半分塞いだ。


「......ゼノが怒りについて考え始めてたから」

「それが来る理由になるのか」

「なる。私はゼノの中にいるから、ゼノが近づいてきたら来やすくなる」

「俺が怒りに近づいていると判断したのか」

「近づいてる。まだ遠いけど」


 自分が怒りに近づいている。クルス先生の話を聞いた後から、感情を持つことへの認識が変わった。レオンの火魔法の問題で、感情が魔法に影響することを再確認した。それらが、怒りという感情への距離を縮めていた可能性がある。


「......分かった」

「何が分かったんだよ」

「イグニスがここにいる理由が」


 イグニスが少し黙った。


「怒りが来た時、俺はどうなる」

「分かった時に見ればいい」

「答えになっていない」

「そういうもんだ」


 ウェントスも「そういうもんだよ、ゼノ」と言った。


 三人の円卓が、静かに続いた。

 イグニスはその後も横を向いていたが、出て行かなかった。来たくなかったと言っていた存在がそこにいる。

 ゼノはそれを観察しながら、大切なもの、という言葉が頭の中に残り続けていることを確認していた。

最後まで読んでくれて、ありがとうございます!

次の更新をお楽しみに!


ではまた。

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