第22話 クルス先生の過去
ホームルームが終わって生徒たちが出て行く中、クルス先生が「ゼノ、少しいいか」と言った。
特に急いでいることはなかった。ゼノは荷物を持ったまま待った。最後の生徒が教室を出て、扉が閉まった。
クルス先生が教壇から降りてきた。机の前に立って、腕を組んだ。立ったまま話すつもりらしかった。ゼノも立ったままでいた。
「お前は強い」
前置きなしだった。
「それは本物だ。魔法の技術も、判断の速さも、六属性の制御も。この学校にいる間は、お前を超える生徒は出てこないと思っている」
「評価として受け取ります」
「ただ――俺は少し、心配している」
心配という感情が何かは理解している。ただ、クルスが何を心配しているのかは、まだ分からない。
「何をですか」
クルスが少し間を置いた。
言葉を選んでいる間だ。感情的に言いたいことがあるが、伝わる形にしようとしている時の沈黙だ。
「強すぎる人間が感情を持たないと、どこかで歪む。俺の経験上な。」
「俺が感情を持たないと判断しているんですか」
「そう見える」
「感情がないのではなく、封じている状態だという認識があります。ただ、外からは分からないかもしれません」
「......封じている、という言い方をするんだな」
「俺自身の認識もまだ定かではありません。ただそういう言い方が近い気がします」
「......そうか」
クルスが言った。封じている、という言葉を処理している様子だった。
「心配している根拠を聞かせてください。経験上、と言いいました。俺の話ではなく、クルス先生の経験があるのですか」
クルスが少し止まった。
話すかどうか迷っている様子だった。沈黙の後、クルスが窓の方に視線を向けた。外を見るというより、何かを思い出している時の目だ。
「昔の話だ。俺も、似たような時期があった」
窓の外を見たまま、続けた。
「戦場にいた時期がある。王国の騎士として、魔物の討伐をしていた。仲間がいた。強い連中だった。ただ討伐を繰り返すうちに、感情が邪魔になると思い始めた。怖いから動けなくなる、悲しいから判断が鈍る、怒るから余計なリスクを取る。感情が失敗の原因に見えた。だから押し殺した。意識的に、毎回な」
ゼノは黙って聞いていた。
「最初は効果があった。判断が速くなった。感情に引っ張られなくなった。強くなった気がした。ただ——」
クルスが窓から視線を戻し、ゼノを見た。
「ある任務で、仲間の一人が危険な状況になった。俺はその状況を見て、合理的に判断した。救助に向かうより任務を完遂する方が、全体の損害が少ない。そう計算した。だから動かなかった。......結果、その仲間は死んだ」
部屋が静かだ。
言葉が来なかった。静かな時間だけが過ぎていく。
「後から考えると、俺には救助に動ける余裕があった。時間的にも、戦力的にも。ただ、その時の俺には、動く理由が分からなかった。感情を押し殺していたから。守りたいという感覚がなかったから。合理的な計算だけで動いていたから」
「......それは感情があったから守れなかったのでありませんか?」
ゼノは言った。
「感情があれば判断が鈍った可能性があります。感情的に動いた結果、両方が危険になったかもしれません。先生が合理的に判断したことで、少なくとも任務は完遂された。感情がなかったから守れなかったとは言い切れません」
クルス先生が、静かにゼノを見た。
「逆だ。感情を捨てたから、守るべき理由が分からなくなった」
「守るべき理由は、計算から導けるはずです。仲間の生存は任務の継続に繋がる。長期的に見れば、守ることが合理的です」
「頭ではそうだ。ただ、その場でそれが動かなかった。なぜだと思う」
「......計算が不十分だったからですか」
「違う。計算はできていた。ただ、計算の結果が行動に繋がらなかった」
「なぜ繋がらなかったのですか」
「守りたいという感覚がなかったからだ。理由は分かっていた。仲間を救助する合理的な理由は計算できていた。でも、その理由が俺を動かさなかった。感情を捨てていたから、理由があっても動く力が来なかった。」
理由と、動く力は別のものだ。
その言葉が、頭の中で繰り返された。ゼノはこれまで、合理的な理由があれば行動できると考えていた。理由が行動を生む、という構造だと思っていた。だがクルスは、理由があっても動く力がなければ行動できなかった、と言っている。
動く力。それが感情から来る、ということか。
「感情は行動の燃料だ、ということですか」
「そう言えるかもしれない。俺の場合はそうだった。感情を捨てた結果、守るべき理由は理解できても、守るために動く力が来なくなった。理由は頭にあるが、身体が動かない状態だ。」
「俺は今、行動できています」
「そうだな。ただ——お前が今できているのは、まだ本当に大切なものに出会っていないからかもしれない。今の段階では合理的な計算で十分動ける。でも、いつかそれだけでは足りない場面が来るかもしれない。その時に感情がなければ、動けなくなる可能性がある。」
今は計算で動けている。しかしいつか、計算だけでは動けない場面が来る可能性がある。
「大切なものに出会った時、感情がなければ守れない可能性があるということですか」
「俺の経験上はそうだった。」
「一つ聞いていいですか」
「何だ」
「先生が感情を押し殺していた時期、取り戻せたのですか」
クルスが少し止まった。
それから「一部は、な。」と言った。
「全部ではない。取り戻せなかったものもある。時間が経ってから気づいたこともある。」
「取り戻す方法はありますか」
「方法を探して取り戻したわけじゃない。ただ生きていたら、少しずつ何かに触れていった感じだ。人と関わっていたからだと思っている。」
人と関わっていたから。
ライナスが泣いた時のこと。エリナの笑顔の変化。レオンが友達だと言った時。昨日、「それでいい」という言葉が出た時。
それが、触れることに近いのかもしれなかった。
「......勉強になります」
「そうか」
クルスが少し笑った。感心しているような、苦笑いのような笑い方だった。
「お前に勉強になったと言われるとは思わなかったな」
「なぜですか」
「お前が人の話を有用だと判断するとは思っていなかった」
「感情を持つことに、合理的な理由がある可能性を初めて認識しました。それは有用な情報です」
「そういう受け取り方をするか。」
笑っていた。今度は苦笑いではなく、少し本物に近い笑いだった。
「まあいい。それでも何かが変わるなら、俺が話した意味がある」
「変わるかどうかは分かりません。ただ、処理すべき情報として持っておきます」
「それで十分だ。」
廊下を歩きながら、クルスの言葉を整理した。
感情を捨てたから、守るべき理由が分からなくなった。理由は分かっていたが、動く力が来なかった。感情は行動の燃料だ。
今まで、感情は判断を鈍らせるものだと考えていた。感情があったから間違えた、という結論がゼノの中にあった。その結論が正しいかどうかを、今日初めて疑った。今まで疑わなかったものに対して、別の可能性があることを認識した。
感情を持つことに、合理的な理由がある可能性がある。
それが今夜の円卓でウェントスに話す内容として、頭の中に追加された。
赤い椅子の輪郭が、また頭に浮かんだ。
来たがっている何かが、少しだけ近づいた気がしたが、気のせいかもしれなかった。
最後まで読んでくれて、ありがとうございます!
次の更新をお楽しみに!
ではまた。




