第110話 記憶との向き合い
夜、ゼノは眠れなかった。
眠れないという状態が来ていた。疲れていた。魔力も体力も回復してきて、眠れる状態だった。それでも眠気が来なかった。
宿の外に出ると、人通りが少なく静かだった。
石畳の道、街灯、建物の影があった。
歩きながら、確認していた。何が来ているのかを。
すると転生前の記憶が来た。
今日はより鮮明だった。
詩織がいた。
どんな笑い方だっただろうか。眉が上がっていて、口元が笑っていた。目が細くなっていて、全体が笑っていた。
悠斗がいた。
豪快な笑い方だった。肩が揺れていた。
三人で歩いていた。
どこかの道だった。学校の帰り道だろう。季節は冬で息が白かった。
記憶が来た、という状態で止まっていた。
今まで来た時は、処理しようとして止まることが多かった。
今日は止まらなかった。むしろ来るままにした。
二人が笑っていた。三人で歩いていた。
「……俺は、二人のことが好きだった」
気づくと声に出ていた。
誰も聞いていなかった。ただ、声に出た。
――好きだった。
大切だった、という言葉よりもっと直接的な言葉が来た。好きだった。友達だった。三人で歩いて笑っていた。
涙が頬を伝って落ちていった。
今度は止めなかった。
魔王城でも泣いていたが、あの時は気づかなかった。気づいた後も、拭わなかった。
今日は、来るとわかっていた。来る前から来ることがわかった。
石畳に立ったまま、泣いていた。
二人の笑顔が来ていた。
消えなかった。
「感情があったから間違えた、と思っていた」
声が出た。
「二人を大切にしすぎた。だから失いそうで怖かった。怖かったから動けなかった。動けなかったから守れなかった。感情があったから、そうなったと思っていた。でも——感情があったから、二人が大切だった。感情があったから、失いそうで怖かった。感情があったから、今でも覚えている」
覚えている。
転生して別の世界に来た。別の体があり、別の名前があった。ゼノ・アルディスとして生きてきた。
それでも覚えていた。二人の顔が来ていた。
感情を封じていた時も、消えていなかった。アクアが言っていた。ずっとそこにあったと。消えていなかったと。
覚えていたのは、大切だったからだった。
円卓に入ると、アクアがいた。
アクア一人だけだった。他の五人は来ていなかった。
アクアが、静かにゼノを見ていた。来ることを待っていたという顔だった。
「ゼノさん」
「アクア」
「今、ちゃんと悲しめていますか?」
「……ああ、悲しい」
「言えましたね」
「言える。悲しいという感覚が来ている。来たままにしている。止めなかった」
「涙も来ましたね」
「ああ。止めなかった。魔王城でも来た。あの時は気づかなかった。今日は来ることがわかっていた。それでも止めなかった」
「それが変化です。以前は来たものを止めていた。今は来たままにしている」
「そうだな……悲しいことが、二人への答えな気がする」
「どういう意味ですか?」
「悲しいということは、大切だったということだ。大切だったということは、二人との時間が本物だったということだ。今日、悲しみが来ている。それが二人が確かにいたことへの答えになっている気がする」
「そうですよ。悲しめることが、愛した証拠です」
「愛した、か」
「はい。大切に思うことが愛することです。ゼノさんは二人を愛していた。だから今も悲しめる」
「愛していた、か」
「そうですよ。覚えている限り、そこにあります」
「……アクア」
「はい」
「アクアが一番奥にいた理由がわかった」
「どういう意味ですか?」
「感情を封じた時、一番深いところに封じたものが悲しみだった。だからアクアが一番奥にいた。悲しみが最も深いところにあった」
「そうです」
「二人への悲しみが、感情の一番奥にあった。それが最後まで残っていた。消えていなかった」
「はい。ずっとそこにありました」
「ずっとそこにいてくれたのか」
「はい。ゼノさんがここまで来るのを、一番奥で待っていましたよ」
ゼノは少し間を置いた。
悲しみが来ていた。
二人の笑顔が来ていた。
言わなければならないことがあったが、言えるかどうかわからなかった。
ただ、言いたかった。
「……詩織、悠斗」
名前を呼んだ。
円卓で、声に出した。
「俺は間違えた。動けなかった。お前たちが傷ついた時に、俺は一歩も動けなかった。守れなかった。自分のせいだと思った。感情があったから間違えたと思った。だから封じた。でも——お前たちのことを大切に思っていたのは本当だった」
声が続いた。
「感情を封じても、消えなかった。別の世界に転生しても、消えなかった。ずっとそこにあった。大切に思っていたことは、本物だ」
広間が静かだった。
アクアが何も言わなかった。ゼノが言葉を続けるのを、待っていた。
「……ありがとう」
声が出た。
「二人がいたから、俺は感情を知っていた。感情を封じたが、封じる前に二人がいた。二人がいたから、感情があることを知っていた。感情があることが何かを意味することを、二人が教えてくれた」
「二人が教えてくれたんですね」
「そうだ。笑った。悲しんだ。怖かった。大切に思った。全部、二人と一緒だった時に来ていた。それが、今俺が感情を取り戻す元になった。二人がいたから、取り戻すべき感情を知っていた」
「詩織、悠斗」ともう一度、名前を呼んだ。
「お前たちに、ありがとうと言いたかった。言えなかった。転生して、別の世界に来て、言えないまま来た。今日、言う。ありがとう。二人がいてくれて、よかった。三人で歩いた道があって、よかった。笑っていた時間があって、よかった」
涙が来た。
今度も、止めなかった。
来たままにした。
「悲しい。でも——二人のことを大切だと思えることが、悲しみと一緒に来ている。悲しみと大切さが、同じ場所から来ている」
「そうです。悲しみと愛情は、同じ場所から来ます。大切だったから悲しい。悲しいから大切だったとわかる」
「どちらも本物だ」
「はい。どちらも本物です」
「……そうか。アクア」
「はい」
「今日、向き合えた」
「向き合えましたね」
「以前は来た記憶を止めていた。今日は止めなかった。来たままにした。名前を呼んだ。ありがとうと言えた。それが全部来た」
「よかったです」
「一番奥で待っていてくれたな」
「はい」
「……苦しくなかったか」
「苦しくなかったです。ゼノさんが来ることを知っていたから」
「知っていたのか」
「感覚です。でも、確かでした」
「二人は今どこにいるんだ」
「わかりません。でも、ゼノさんが覚えている限り、ゼノさんの中にいます」
「俺の中にか」
「はい。悲しみを持っている限り、そこにいます。悲しみは大切だったことの証明だから。ゼノさんが悲しめる間は、二人はそこにいます」
「……そうか」
「会えているとも言えるかもしれません。今夜、ゼノさんが名前を呼んだから」
広間が静かだった。
アクアが静かにいた。
ゼノは少し黙っていた。
来たものが来ていた。悲しみが来ていた。大切さが来ていた。感謝が来ていた。
全部来たままにしていた。
「アクア」
「はい」
「アクアが来てくれてよかった。最後に来た人格の中で、お前が一番奥にいた。一番奥から来てくれた」
「ゼノさんが来てくれるのを待っていました。今夜来てくれて、よかったです」
「俺も、今夜向き合えてよかった」
「向き合えましたか?」
「……向き合えた」
「よかったです」
「自分への何かが来ていた。動けなかった自分への何かが。ただ、今日それが変わった。間違えた。大切に思っていたことは本物だ。その両方が来て、受け取れた」
「それが向き合うということです」
「そうか」
「はい。良いことも悪いことも。ゼノさんが間違えたことも、二人を大切に思っていたことも。全部受け取った。それが向き合いです」
円卓から意識が戻った。
空を見ると星が出ていた。
涙が来ていたが、来たままにしていた。
「詩織、悠斗……」
もう一度、声に出した。
「ありがとう」
誰も聞いていなかった。二人には届かないかもしれなかった。
それでも言えた。
言えたことが、今夜の全部だった。
最後まで読んでくれて、ありがとうございます!
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ではまた。




