第10話 人間観察の日常
少しずつ読まれてきて、嬉しいです
学校生活が一定のリズムを持ち始めた頃、ゼノは一つの習慣を作っていた。
その日に観察したことを、夜に整理すること。
授業の内容ではなく、人間の反応についての記録だ。感情のある人たちが、何に対してどう動くのか。データとして蓄積していけば、いつかパターンが見えてくるはずだ。
午前の最初は、魔法属性学の小テストの返却だった。
エイダ先生が採点済みの用紙を配り始めると、教室の空気が変わった。受け取る前から手が緊張している生徒、受け取った瞬間に表情が動く生徒、隣と見せ合う生徒。一枚の紙が、これだけの反応の種類を引き出す。
レオンが用紙を受け取った瞬間、顔が変わった。
眉が下がり、口が一文字になり、用紙を机に伏せた。それから「くそ」と小さく言った。
休み時間になると、レオンは机に肘をついて腕を組んだままだった。
レオンは普段、姿勢よく座っているか、身を乗り出して話しかけているかのどちらかだ。
「悔しいな」
「点数を確認したのか」
「確認したから悔しいんだろ」
「次のテストまでの期間に改善できる量か」
「......できる量だと思う」
「なら問題ない」
「問題ないとかそういう話じゃ——まあ、そうだな」
表情がわずかに変わった。まだ悔しそうだったが、何かが前に向いた気配があった。
悔しさは次の行動の燃料になるのか。レオンの姿勢の変化は、感情が行動へ転換される過程を示しているのかもしれなかった。感情が消費されるのではなく、別の何かに変換される。そういう仕組みが、人にはあるらしかった。
午後の魔法実技で、セレンの演習があった。
個人の自由演技の時間で、セレンが水属性の魔法を使った。
水が出た。それだけなら他の生徒と変わらない。だがセレンの水は、動き方が違った。流れるように方向を変え、螺旋を描き、複雑な形を作り出した。制御というより、水と対話しているような動かし方だった。
周囲の生徒がしばらく見ていた。誰かが「きれい」と言った。
水の軌跡が描く形は表面張力と魔力の干渉が、ああいう形を作り出す。原理は理解できる。
しかし、きれいという評価が何なのかは分からなかった。
水が複雑な形を作ることは事実だ。その形を見た時に周囲の人間が「きれい」と言うことも事実だ。しかしゼノの中に、そう感じる何かが起動しているかどうかが、判断できなかった。
起動していないのか、起動しているのに気づいていないのか、そもそも起動するための何かがないのか。
放課後。
訓練場に向かおうとしたところで、後ろから声がかかった。
「ゼノさん、今日も一緒に練習していいですか」
ライナスだった。毎回、図書室か訓練場に向かうゼノを捕まえる形で声をかけてくる。
「構わない」とゼノは答えながら、考えていた。
なぜ俺を選ぶのか合理的な理由がない。
他にも教えられる人はいるはずだ。ガード先生に個別指導を頼むこともできる。レオンは感情的なアドバイスが得意そうだ。それでもライナスはゼノを選ぶ。
「一つ聞いていいか」
「はい」
「なぜ毎回俺を選ぶのか」
「......ゼノさんに教えてもらうと、何がいけないのかはっきり分かるからだと思います。他の人だと、頑張れとか、もっとイメージして、みたいなことを言われることが多くて」
「感情的な助言は俺には出せない」
「それがいいんです。俺、感情的なことを言われると、逆に混乱するんで」
ライナスにとって、ゼノの機械的なアドバイスが有用だということか。感情を省いた指摘が、ライナスには合っている。それは確かに合理的な理由だった。
「......分かった」
それだけ言って、訓練場に入った。
練習を終えた後、夕方の光が斜めに差し込む渡り廊下でエリナと鉢合わせた。
エリナが図書室から戻るところだった。手に本を抱えている。ゼノが訓練場から出てくるところと、廊下で重なった。
「お疲れ様です」エリナが言った。今日の笑顔は、先日より少し自然に近い気がした。判断の根拠は微妙だったが、そう見えた。
「ああ」
並んで歩く形になった。
「今日もライナスさんと練習してたんですか?」
「そうだ」
「ゼノさん、ライナスさんによく付き合ってあげてますよね」
「有用だ」
「ライナスさんにとって、ですか。ゼノさんにとっても?」
「......観察できるデータが増える」
エリナが「そうですか」と言って、少し間があった。それから「ゼノさんって」と言い出した。
「何だ」
「怖くないですか。感情がないって」
「怖い、という感覚の仕組みが分からない。俺が怖いのか?」
「え、違います、ゼノさんのことが怖いって意味じゃなくて」
「どういうことだ」
「あなた自身が、怖くないのかって思って。感情がないって、自分では怖くないですかっていう意味です」
自分自身について、怖いかどうか。感情がないことを、自分が恐れているかどうか。
「何かを失うものがなければ、怖くない」
エリナが止まった。
廊下の途中で、足が止まっていた。ゼノも合わせて止まった。エリナが何か言おうとしている気配があった。しかし言葉が出なかった。
エリナが「......そうですか」と言った。それだけだった。
何も言えなくなったのか、言いたくなくなったのか。ただ、エリナの表情が先ほどより少し変わっていた。笑顔が薄れて、何かが滲んでいた。
二人はまた歩き始めた。寮の方向で途中まで同じだったが、特に会話はなかった。
夜の円卓。
ウェントスが開口一番に「今日は楽しかった?」と聞いた。
「楽しいの定義を再確認したい」
「もう!!」
ウェントスが勢いよく身を乗り出した。
「毎回それ言う! 楽しいかどうかって聞いてるだけじゃん!」
「楽しいの定義が確定しないと、今日の経験に適用できるかどうかが判断できない。再確認は合理的だ」
「合理的合理的ってそればっかり」
ウェントスが椅子の上で仁王立ちになった。小柄な体格でそれをやると少し滑稽だったが、ゼノはそれを指摘しなかった。
「じゃあ逆に聞く。今日、嫌なことがあった?」
「特にない」
「じゃあ普通より良かった?」
「......普通の定義も確認が必要だが」
「もういい! 普通より悪くなかったならそれでいい!」
「普通より悪くはなかった、という評価は出せる」
「それが今日のゼノにとっての楽しかった、でいい!」
ウェントスが頬を膨らませた。しかしその目は笑っていた。
ゼノは今日の観察を整理した。
レオンの悔しさが燃料に変わる過程。セレンの水魔法と美しいという概念。ライナスがゼノを選ぶ合理的な理由。エリナの「何かを失うものがなければ怖くない」という言葉に対する反応。
最後のが一番頭に残っていた。
エリナが何も言えなくなった理由が分からなかった。ゼノの答えが何かに触れたのだとしたら、それは何なのか。
「ウェントス」
「何」
「失うものがあるということと、怖いということは、繋がっているのか」
ウェントスの表情が変わった。膨れていたのが収まって、少し真剣な顔になった。
「......繋がってるよ。怖いって感覚は、大事なものがある人間の方が大きいから」
「俺に怖い感覚がないのは、失うものがないからか」
「......今は、そうかもしれない。でも、これからは違うかもしれないよ」
「どういう意味だ」
「ゼノが大事なものを持つようになったら、怖いって感覚も来るかもしれない、っていう意味」
大事なもの、という概念。それが何かを、まだゼノは持っていないのか。あるいは持っていて、気づいていないのか。
「......保留だ」
「うん。保留でいいよ」
ウェントスが足をぶらぶらさせ始めた。
今日もデータが増えたが、答えは増えていなかった。
最後まで読んでくれて、ありがとうございます!
次の更新をお楽しみに!
ではまた。




