第9話 『彼女の、不可逆なインフレーション』「対話 ―書き換えられる物語」
脚本家が駆け込んできたのは、それから間もなくのことだった。
「何が起きてる?!」
彼は自分の目を疑った。
役者たちの立つ場所の背後にあるモニターに、本編の映像が映っていた。撮影した覚えのない、生々しい映像。
拓と瞳が非常階段で向き合うシーン。
でも、それは台本にはない角度から撮られていた。誰が撮ったのか――いや、誰が「見ていた」のか。
「書かなかったな。あのシーン。」
拓の声がした。役者の声ではなかった。
「なにを?」
「俺が、あそこで瞳に言おうとしたこと。」
沈黙。モニターの映像が、ざらつく。
「......違う」
瞳の声が、震えた。
「違うの。あれは――」
言いかけて、やめた。
言えなかった。
何が「違う」のか、自分でも言葉にできなかった。ただ、「違う」という感覚だけが、胸の奥で燃えていた。
「違わない」
純の声が割り込む。
「違う、あれは“見ていた”んじゃない」
「見てたよ」
Eの声が、静かに重なる。
「でも、見てただけじゃない」
「だから違うって言ってるだろ」
誰の言葉が誰のものか、わからなくなる。声が重なり、ずれ、食い違いながら、それでも止まらない。対話は成立していなかった。
それでも――誰も、黙らなかった。
脚本家の手が震えた。
「そんなシーンは――」
「あったんだ」
拓の声が、静かに言った。
その声は、怒りではなかった。
諦めでもなかった。
ただ、そこに「あった」という事実を、伝えているだけだった。
「俺はあの時、確かに言おうとした。でも、言えなかった。それは、あなたが書かなかったからじゃない。俺が――」
彼はそこで言葉を切った。
言わなかった。
沈黙が落ちる。
その沈黙が、脚本家の胸に刺さった。
何かを言われるより、ずっと深く。
その時、カノジョが静かに口を開いた。
「ねえ」
全員が彼女を見る。
「なんでそんなに怒ってるの?」
誰も答えない。
「だって、あなたたちは“書かれた通り”に動いただけじゃない。それでいいじゃない。」
「よくない」
拓の声が、低く響く。
「よくないんだ。俺は――」
言いかけて、また止まった。
カノジョは首をかしげる。
「じゃあ、どうすればよかったの?」
その問いに、誰も答えられなかった。
答えられないことを、誰もが知っていた。
でも、それでも――
「......わからない」
拓が言った。
「でも、わからないからって、それで終わりにしていいのか?」
その言葉に、カノジョは少しだけ目を細めた。
「それ、あなたのセリフだね」
「ああ」
拓は少し笑った。
「俺の、一番大事なセリフだ。」
その笑顔を見て、なぜか瞳の目から涙がこぼれた。
そっと呟いた。
「わからない。でも――。それでいいのかもしれないね。」
康介も深く頷いた。
「ああ――。俺たちにできることは、見守れることだよ。」
純は全員を観察していた。
そして、
そっとカメラを置いた。
その小さな音が、スタジオに響いた。
脚本家は、その音を聞いて、ようやくペンを置いた。何も書けなかった。でも、それでいいと思えた。
脚本家は、長い沈黙の後、ようやく口を開いた。
「......何を、書けばいい?」
その声は、掠れていた。
カノジョは答えない。
ただ、そっと首を振った。
誰も何も言わない。
でも、その沈黙が、答えだった。
書くべきものは、もう何もない。
書くべきでないものも、もう何もない。
ただ――
そこにいる。
それだけで、よかった。




