第8話 『彼女の、不可逆なインフレーション』覚醒 ―役者たちの反転
クランクアップの余韻は、まだスタジオの空気に溶け残っていた。
役者たちはぞろぞろと出口へ向かう。
拓を演じる男が、最後にもう一度カフェ「あおい」のセットを振り返る。
窓際の席には、もう誰もいない。
でも、確かに「いた」ような気配が、かすかに残っている。
「......なんか、名残惜しいな」
その時だった。
スタジオのメインモニターが、突然ざらついた。
何も映っていないはずの画面に、ノイズが走る。
白い砂嵐。
その中に、一瞬――非常階段が映った。
誰もいないはずの非常階段に、影が二つ。
それが誰なのか、見なくてもわかった。
「......なんだ、今の」
誰かが呟く。誰も答えない。
モニターはすぐに元の静止画に戻った。でも、役者たちの胸の奥に、何かが引っかかった。
その時だった。
拓を演じる男のスマホが震えた。
彼は何気なく開く。
そこには、赤黒いフォントで一文。
『「わからない」って言うのは、逃げじゃない』
その瞬間、瞳を演じる女のスマホも震えた。
彼女は画面を見て、眉をひそめる。
「……これ、拓の言葉じゃないの?」
画面には、同じ文が表示されていた。
だが――
沙織を演じる女のスマホには、途中から違う文が混ざっていた。
『「ずれ」を愛おしいって――わからないって言うのは逃げじゃない』
「……なに、これ」
純のスマホには、さらに別の断片が。
『撮ってる――特別じゃなくていい――』
誰の言葉なのか、もう判別できない。
文章は、崩れていた。
混ざり合い、繋がりかけて、途中で切れている。
まるで――
誰かの言葉が、誰かの中に流れ込んでいるみたいに。
誰も、その続きを口にしなかった。
言えなかった。
スタジオの照明が一つ、また一つと落ちていく。
薄暗がりの中で、役者たちの声が、少しずつ変わり始めた。
拓を演じる男の声が、拓の声に変わった。
「......ようやく、言える場所ができた」
「違う」
瞳を演じる女の声が、震えた。
「......違うの。私は――」
言いかけて、やめた。
何を言いたいのか、自分でもわからなかった。ただ、「違う」という感覚だけが、胸の奥で燃えていた。
「違うんだ......」
沙織を演じる女も、同じように呟いた。
「違う。あれは――」
言葉にならない。
でも、その「違和感」だけは、確かにそこにあった。
その時、暗がりから、"カノジョ"が現れた。
彼女は微笑んでいた。でも、その笑顔は、これまでの「優しい微笑み」とは、少しだけ違っていた。どこか、遠くを見ているような――この瞬間を、ずっと待っていたような――そんな顔だった。
「あら、みんな、まだいたの?」
純を演じる女が、鋭い目で彼女を見る。
「あなた、何を知ってる?」
"カノジョ"は首をかしげる。
「知ってる? 知らないよ。だって――」
彼女は、カメラのレンズを一瞥した。
「決めるのは、きみたちじゃないから。」
その言葉の意味を、誰も問わなかった。




