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第10話 『彼女の、不可逆なインフレーション』「収束 ―委ねるということ」
それから数日後。
役者たちは、少しずつ「自分」を取り戻し始めていた。
ほとんど全員が。
ただ、一人だけ――Eを演じる女は、まだ時々、自分の胸元を押さえた。そこに、何もないはずのメモの感触が、残っている気がした。
ふと、彼女が指を止めた。
そこには――
誰も置いていないはずの、小さな紙片があった。
白い、無地の紙。
「……あれ?」
彼女は、それを見て、少しだけ笑った。
「……うん。たぶん、これでいい」
その紙には、まだ何も書かれていなかった。
「本当に?」
「......わからない。でも、それでいいの。」
彼女の指先には、何もなかった。
でも、確かに「置いた」感触だけが、残っていた。
その夜、脚本家は、机の前に座っていた。
ペンを握る。
でも、何も書けなかった。
「......もう、いいか。俺が決めることじゃない。」
彼は、原稿用紙を閉じた。
そして――
ペンを置いた。




