卵 3個
「……おい。借りたタオルだが、どこに置いておけばいい?」
突然後ろからかかった声に、私は急いで流していた水を止めた。声をかけられるまでシャワーが流れる小さな音が止んでいだことに気がつかなかった。
まだ少し湿ったままの羽を軽くタオルで拭きながら、雨で濡れたままの下ろした前髪の隙間からこちらを射抜く紅は相変わらず心臓に悪い。
思わずその色気にやられたのか、準備していたはずの返答が咄嗟に出てこなかった。
「あ〜……。そこの、カゴに入れておいてください」
「……わかった」
たったこれだけの会話で生まれた明らかな沈黙に、私は頭を抱えたくなった。気を紛らわすように無心で食器を洗っている間も無常にも降り続けていた雨は、まだ災難を齎すらしい。
できることなら今すぐ2人きりという状況を終えたかったが、こんな大しけの雨の中また牛舎で雨宿りしていろ、だなんていうほど私も鬼じゃない。
あの後結局、シロさんは大人しく私の後ろについて来てくれた。もともと雨に降られたようで家で暖を取るついでにシャワーで羽を洗ってくださいと勧めたところ、凄い勢いで遠慮されてしまった。
でも、うちの飼い葉は特別なものだから、一刻も早く落とさないとその羽に草が生えてきてしまう。
そんな訳のわからない言い訳を鵜呑みにして従ってくれたのだから、案外純粋な人なのかもしれない。うん、きっとそう。そう、思いたい。
「あの、まだ雨止みそうにないので少し休んでいってください」
「いや、すぐに出て行く」
「駄目です。居てください」
もう、面倒くさいな、と喉まででかかった声をなんとか堪える。できることならそうしてもらいたいが、それこそ本当に風邪を引かれたら寝覚めが悪い。ここを出て行った後のことは、知ったこっちゃないが。
どうぞと椅子を引いた私の勢いに押されたのか、またシロさんは言われた通り席についてくれた。やはりシロさんはクールそうに見えて、意外と優しい。
また訪れるであろう沈黙に怯え、次の一手を考えていると何故か意外にも会話のキャッチボールを始めてくれたのはシロさんの方からだった。
「……君の家は、酪農を生業としているのか」
「はい、そうなんです。一家で細々と経営してますけど、こう見えて皇帝陛下への献上品として巷では有名みたいですよ」
「ほう……、皇帝へ、か……」
お、珍しく食いついた。
あまり抑揚を感じ取れないシロさんの声が、少し色づいた事を感じる。ほんの少し同じ時間を過ごすだけなのに、それが妙に嬉しくなってしまってなんだか心が落ち着かない。
きっと人肌が恋しい夜なのだと無理矢理自分を納得させ、私は冷蔵庫へ手を伸ばした。ホットミルクでも作って、体を温めてもらおう。
「よかったら一杯どうですか? ホットミルクを、あ……」
「……どうした?」
──作戦、変更。
急に黙り込んだ私を、背後から心配そうに様子を伺うシロさんは、やっぱり優しいのだと思う。
だから振り向いた瞬間の私の緩んだ顔を見たら怒られてしまうかもしれない。けど、ワクワクせずにはいられなかったのだ。
「あの、シロさん。お腹、空いてたりしませんか?」
「……はぁ?」
ほらやっぱり。こんな短時間でまた出会った、シロさんの三度目の呆れた声。
だけど一回目や二回目みたいに変に緊張したりなんてしなかった。だって彼が苦くて甘い、カラメルみないな優しい人だってことに、もう気づいてしまったから。
「で、結局空いてるんですか? 空いてないんですか?」
「は……!? 何故君はいつも話が唐突なんだ……!」
「どっち、なんですか?」
「そ、れは……、空いて……、おい。それよりさっきのシロさんとはなんだ」
しまった。
勢いに押されて後一歩、というところまで行けたと思っていたのに、突如急ブレーキがかかった。心の中で呼んでいた名前を無意識に口に出してしまったらしい。
話を逸らされてしまいそうな気配を感じ、私は焦って開けっ放しの冷蔵庫の中からトレーごとプリンを彼の目の前へ下殴り置いた。
「まぁまぁ。はい、どうぞ!」
「……一体、これはなんだ」
「プリンです。プディング」
「これが、プディングだと……?」
酷く困惑した声に、弾かれたように顔を上げる。そうだ、そうだった。この世界でこのプリンは当たり前じゃない。いくらなんでも甘え過ぎたと自分を叱りつけ、踵を返そうとしたその時だった。
「すみません、調子に乗り……」
「…………待て」
自然ときつく握り込んでしまっていたらしい。冷蔵庫へ行きかけたその手をぐっと包み込むようにして引き留めたシロさんの手は、まるで人じゃないように冷たい。
──あぁ、そうか。こういう小さな違いが魔族が人族に恐れられる由縁か。
そう、場違いにも程があることを考えてしまう。この世界の習わし通り、すぐに怯えたふりをして、振り払うことが正解なのだろうか。
いや、むしろ出会った最初の瞬間から、間違いだったのかもしれない。
だけど、そうはできなかった。人とか、魔族とか、私にとってそんな違いはどうでもよくて。
恐怖の象徴であるのその血に染まったような瞳が、私だけを真っ直ぐ見つめてくれるその瞳が、ひどく心地よかった。
「食べないとは……、一言も言っていないだろ……」
「………………ははっ!」
普通、変な食事を出した私を問い詰めたり、気味悪がったりするんじゃないの?
面倒くさそうに、それでいて不器用に投げかけられる暖かい、そんな一言。お陰でさっきまでの弱気な私がどこかへ飛んでいってしまって、久しぶりに心から笑いが込み上げてきた。
とことんシロさんは私の想像の域を飛び越えてくれるらしい。ならお言葉に甘えて、最後まで付き合ってもらおうじゃないか。
「何故笑う……!」
「ふふっ、だってシロさんが可笑しなこと言うから」
「それはこっちのセリフだと……! ちょっと待て、だからその変な呼び名は一体なんなんだ!?」
「そんなことより、はい。食べてくれるんですよね?」
スプーンを差し出し、少し緊張しながらも期待に満ちた目線を送る。するとシロさんは、まだ何かを言いたそうにしたが、渋々といった形で受け取ってくれた。
「これ、実はデザートなんです」
「デゼールか」
「はい。だから一口だけでもお願いできませんか?」
「……わかったよ」
その返事を合図として、ついでに自分の分も、と欲張ったプリンを片手に、そそくさと席についた。
家族四人暮らしにしては小さめの正方形の机で申し訳ないが、角を挟む形で膝を突き合わせる。
家族以外の人に初めて披露する自分のスイーツ。勢いで来てしまったが、前世を通しても正真正銘初めての経験。
今更感じたことのない緊張感に襲われて、私は早速手を伸ばしてくれたシロさんをじっと見つめてしまう。
「どう、ですか?」
「……っ!」
恐る恐るそう聞くと返ってきたのは、声にならない声。そんなに不味かったのかとゾッとして私も急いで口に運ぶ。
一口では確信できず、二口、三口、とぱくぱく口に運ぶも、感じるのはあの慣れ親しんだとろける甘さだけ。
この世界の味覚とスイーツには、それほどまで差異があるのかと衝撃を受けた。
そして、ただただショックだった。この世界にも私の居場所はないとはっきり突きつけられたようで、辛かった。
「これは、一体どういうことだ」
「すみません。口直しにすぐコーヒーでも入れ……」
「違う。こんな特別な料理を、一体どこで手に入れたと聞いているんだ……!」
──この人、今なんて。
あまりの急展開に目を白黒させている私を横目に、一口ずつ丁寧にプリンを口に運ぶシロさん。
その見惚れるほど美しい所作に目を奪われて、私はようやく落ち着きを取り戻した。
「既製品ではなくて、私の手作りです。ここの畜産物を使った」
「本気か? 君は、プロの料理人なのか?」
「……いえ。ただの趣味です」
変な間を置いてしまってからそう言うと、ピクリと眉を動かしたシロさん。何だか気を遣わせてしまった気がする。
だけど、たった2文字。プロという言葉に、ふと食べ進めていた手が止まる。
「なにを考えているのかは知らないが、この才能を放っておくとは。随分勿体無いことをしているな」
「……何も知らないのに、無責任なことを言わないでください」
はっとして目を逸らした。思わず語気が強くなってしまい、すぐに後悔する。これではただの八つ当たりだ。
だけど、勿体無い。
その一言が重く私にのしかかった。どうして、私が悪いみたいに責められなければならないんだろう。
いつも人は無責任に、他者を憐れむ。私だって好きでこんな体で生きているわけじゃない。
こんな田舎じゃなかったら、体力がいる酪農家の生まれじゃなかったら、こんな体じゃなかったら。
得意な料理で生計を立てて、誰かの重荷になることもなかったのだろうか。
誰かの慰めはそんなたらればを加速するだけ加速させる。そして、結局そんな未来は現れるわけもなく、自分1人でその傷と向き合う日々を過ごす羽目になるのだ。
呆れられるだろうか。それとも怒鳴られるだろうか。そう身構えていたのに、シロさんは先ほどと変わらなぬ淡々とした口調で言葉を続けた。
「何もしないうちに諦めるのは楽だ。
だが、何かを諦めるときは、できうる全てを試した上で諦めるべきではないか?」
「それは正論です。
でも、それは何かに挑戦できる恵まれた環境があった人だから言えることじゃないですか。
最初から挑戦する権利すらもらえずに、終わる人だっているんです」
「……ふっ」
もう2度と会わない人だからだろうか。前世からずっと飲み込んできた感情が止まることなく溢れ出す。いっそ、屁理屈を言うなと怒鳴られた方がマシだった。
だけどシロさんは馬鹿にするわけでもなく、心底この会話を楽しんでいるように笑った。突然の笑みに意図が全く読めなくて、私は不貞腐れながら問い詰めた。
「なんですか」
「いや、それも一理ある」
「だったら、どうして」
「だが、君の言い方ではまるでもう、全て終わったことがあるようだと思っただけだ」
虚をつかれたようだった。
そうだ、私は一度なんの望みも叶えることができず、全て終わった。なら、今はどうなんだろう。
何も言い返せないでいるのを他所にシロさんは、すでに空になったプリンの容器を弄びながら諭すように言葉を続けた。
「君の過去は知らないが、現に君が秀でた料理の腕を持っているのは事実だ。
一朝一夕で身についたものではないだろう。
そうやって手にしたものを、一つずつ駆使して勝負し続けるのが、生きると言うことではないのか?」
そう、私はしたかったことをして、自由に生きてみたかった。前世のことなんか忘れて。
それなのに、今も私を縛るのは、自分でどうすることもできない体の不調ばかり。それはまるで前世からずっと同じ茨に絡みつかれているようで、動く気力さえ湧いてこなかった。
けれどこんな当たり前のことを今日出会ったばかりの人に思い出させられるとは思わなかった。
「……わたしはまだ、生きてる」
「なにを当たり前のことを。
まぁどうしても早死にしたいと言うなら止めはしないが、その胆力があれば大抵のことはどうにかなるだろうな」
この俺様に楯突くくらいだ、と隠された本音が見えるようで心底は鼻につく。
なにも知らないくせに。私が生死を彷徨うほど病弱だってこと、それにそれがどれだけ苦しいことかも。
それでも、家族じゃない、今日出会ったばかりの知り合いですらないこの人が、本物の宝石のように美しいルビーの瞳を輝かしながら私のスイーツを食べてくれた。
この事実だけで、ずっと絡みついていた痛みが和らぐような気がした。
「煽てた責任、取ってもらいますからね」
「どんな責任だ?」
「もし、私が自分の店を持てたら、常連さんになってもらう責任です」
「それは願ったり叶ったりだな」
「何十年先になっても絶対ですからね!」
悔しい。それなのに何故か泣いてしまいそうだ。こんなにも未来に希望を持てたのは、言葉通りこれまでの人生で初めてかもしれない。
気を紛らわすために急いで立ち上がり、シロさんの背にある冷蔵庫へ向かう。その時ふと、窓から月明かりが溢れていることに気づいた。あの嵐が嘘みたいだ。
「雨、止みましたね」
「あぁ、そうみたいだな」
あれほど鬱陶しかった雨に、まだ止まないで欲しいと願ってしまうのは、なぜだろうか。




