第2章 眠らない街
船がゆっくりと高度を下げていく。
キオは船べりにつかまり、眼下に広がる街を見つめていた。
建物が、少しずつ大きくなっていく。
赤い屋根の家。
先の尖った高い塔。
石造りの大きな建物。
その間を縫うように、いくつもの道が伸びていた。
道の両側には色とりどりの旗が飾られ、建物から建物へ、無数の提灯が吊るされている。
大きな広場では、何百人もの人々が行き交っていた。
いや、もっといるかもしれない。
キオには数えきれなかった。
「……人がいっぱい」
「ええ。今夜も賑わっておりますね」
船を操る男が嬉しそうに答えた。
遠くで花火が上がった。
赤い光が夜空に広がり、続いて金色の火花が降り注ぐ。
しかし、その火花は街に落ちることなく、途中で小さな光の粒になって消えてしまった。
キオは目で追った。
「火事にならないの?」
「なりませんよ」
「どうして?」
「花火ですから」
「……そう」
答えになっていない気がしたが、キオはそれ以上聞かなかった。
船は街の外れにある、小さな船着き場へ近づいていった。
白い石で造られた桟橋が、雲の上へ突き出している。
その先には、大きな鐘のついた門があった。
門の両脇では、青い炎の入ったランプが静かに揺れている。
船が桟橋に横づけになると、男が舵から手を離した。
「到着いたしました」
男が指を鳴らす。
すると船から一本の板が伸び、桟橋へとつながった。
「さあ、どうぞ」
キオは板を渡った。
足元はしっかりしている。
見下ろすと、桟橋の下には真っ白な雲が広がっていた。
その雲の向こうに、かすかに地上の灯りが見える。
「ここ、すごく高いんだね」
「そうですねえ」
男は船から降りてきた。
「ところでキオさん。ひとつお渡しするものがございます」
男が上着の内側から、小さな革袋を取り出した。
手のひらに収まるほどの大きさだった。
「こちらを」
キオは受け取った。
中には、金色や銀色の小さな硬貨が入っていた。
「お金?」
「ええ。街でお買い物をするときにお使いください」
「もらっていいの?」
「もちろんです」
「……ありがとう」
男は少しだけ目を丸くした。
それから、嬉しそうに笑った。
「どういたしまして」
キオは革袋を上着のポケットに入れた。
「それでは、どうぞごゆっくり」
男が帽子を取ってお辞儀をする。
キオも小さく頭を下げた。
そして、門へ向かって歩き始めた。
背後で船の帆が膨らむ音がした。
振り返ると、小さな船はすでに桟橋を離れていた。
ゆっくりと上昇し、街の上空へ向かっていく。
キオは少しだけ見送った。
帰るときは、また船に乗せてもらえばいい。
そう思って、門をくぐった。
*
門の向こうは、石畳の道になっていた。
道の両側には古い建物が並んでいる。
木造の家もあれば、石造りの大きな店もある。
どの建物にも灯りがともり、窓からは楽しそうな声が聞こえてきた。
少し歩くと、キオの横を小さな乗り物が通り過ぎた。
カラカラカラ。
四つの車輪がついた細長い板に、帽子をかぶった少年が乗っている。
片足で地面を蹴り、勢いよく進んでいった。
キックボードに似ていたが、持ち手はなく、板の後ろから青い光が伸びていた。
「どいてどいてー!」
少年が元気よく叫ぶ。
その後ろを、同じような乗り物に乗った女の子が追いかけていた。
「待ちなさいよー!」
二人は笑いながら角を曲がっていった。
キオはしばらく、その方向を見ていた。
「……速いな」
再び歩き始める。
今度は、道の向こうから大きな男がやってきた。
背中には巨大な剣。
腰には革の袋がいくつも下がっている。
鎧の胸元には、見たことのない紋章が刻まれていた。
男は通りの店主に声をかけた。
「おう! 注文してた剣はできてるか?」
「あと少しだ! 明日の夜に来な!」
「またかよ!」
「文句があるなら自分で打ちな!」
男と店主は大声で笑っていた。
店の奥から、金属を叩く音が聞こえてくる。
カン、カン、カン。
キオは店の中を覗いた。
真っ赤に熱せられた鉄を、小柄な老人が大きな金槌で叩いている。
火花が飛び散るたびに、近くに置かれた小さなランプが青く輝いた。
老人は、次々に飛び散る火花など気にも留めていない。
キオは少しだけ足を止めた。
学校の授業で、昔の鍛冶屋について習ったことがあった。
でも、実際に見るのは初めてだった。
老人が金槌を振り下ろす。
カァン!
大きな音が響いた。
「坊主、そこは熱いぞ!」
老人が顔を上げた。
「見るなら、こっちから見な!」
キオは言われた場所へ移動した。
老人は再び金槌を振り上げる。
カン!
カン!
カン!
火花が小さな星のように散った。
「……何を作ってるの?」
「剣だよ!」
「ふうん」
「ほれ、まだ形になってないだろ?」
老人は赤く光る鉄を少し持ち上げた。
「これを何度も叩いて、伸ばして、形を整えるんだ」
キオは鉄を眺めた。
ただの細長い塊に見える。
これが剣になるらしい。
「……大変そう」
「大変だとも!」
老人は豪快に笑った。
「だから面白いんだよ!」
また金槌の音が響いた。
キオはしばらく見物してから、その場を離れた。
老人はもうキオのことなど気にせず、楽しそうに鉄を叩いていた。
*
道が少しずつ広くなってきた。
どこからか笛の音が聞こえる。
それに合わせて、軽やかな弦楽器の音が重なった。
さらに太鼓の音。
タン、タン、タタン。
音楽は、道を進むほど大きくなっていった。
キオが角を曲がったときだった。
「……あ」
目の前に、巨大な広場が現れた。
広場の中央には、大きな噴水がある。
しかし、その噴水から吹き上がっているのは水だけではなかった。
赤、青、緑、黄色。
色とりどりの光が、水と一緒に空へ伸びている。
噴き上がった水は、途中でいくつもの小さな球になり、ふわふわと浮かんでいた。
その周囲では、大勢の人々が踊っている。
帽子をかぶった男。
長いドレスの女。
大きな耳を持つ子供。
背中に小さな翼の生えた老人。
いろいろな姿の人々が、楽しそうに笑っていた。
広場を囲む建物には、数えきれないほどの提灯が吊るされている。
赤い提灯。
黄色い提灯。
青い提灯。
そして、その間には明るい電灯も並んでいた。
古い街並みなのに、照明だけは新しい。
まるで、昔のお祭りと今のお祭りが、一緒になったようだった。
建物の屋根からは色鮮やかな旗が伸び、夜風に揺れていた。
紙吹雪が、ひらひらと舞っている。
どこから降ってくるのかは分からない。
キオは上を見た。
すると、屋根の上に小さな機械がいくつも置かれていた。
その機械が、時々紙吹雪を吹き上げているらしい。
そして、さらにその上。
夜空には、小さな飛行船が何隻も行き交っていた。
赤い船。
緑の船。
丸い風船のようなものをつけた船。
帆を広げた鳥のような形の船。
それぞれが灯りをつけ、ゆっくりと飛んでいる。
キオはしばらく動かなかった。
学校の帰り道でも、テレビの中でも、こんな景色を見たことがなかった。
「おっと、ごめんよ!」
大きな荷物を抱えた男が横を通り過ぎる。
キオは少し脇へ寄った。
すると今度は、目の前を大きなシャボン玉が漂ってきた。
キオの顔ほどもある。
表面には、周囲の提灯や照明の光が映り込んでいた。
ゆっくり近づいてくる。
キオは指を伸ばした。
ちょん。
パチン。
シャボン玉が弾けた。
中から、小さな光の粒がこぼれ落ちる。
光はキオの手の上で二度、三度と跳ねてから消えた。
「……へえ」
キオは自分の手のひらを見た。
何も残っていなかった。
もう一つ、シャボン玉が流れてくる。
今度は青い光を映していた。
キオはもう一度、指を伸ばした。
パチン。
また小さな光が散った。
「面白いだろ?」
声をかけてきたのは、近くでシャボン玉を飛ばしている老人だった。
白いひげを生やし、丸い眼鏡をかけている。
手には小さなラッパのような道具を持っていた。
そこからシャボン玉が次々と生まれている。
「これ、何?」
「シャボン玉だよ」
「普通のと違う」
「そりゃあ、普通じゃつまらんからな!」
老人は笑いながら、ラッパを空へ向けた。
ポン、ポン、ポン。
今度は、小さなシャボン玉が何十個も飛び出した。
それぞれが違う色に輝いている。
キオはその一つに触れた。
パチン。
青い光が弾けた。
もう一つ。
パチン。
黄色い光。
さらにもう一つ。
パチン。
今度は、弾けた瞬間に小さな鈴の音が鳴った。
「……音がする」
「そうとも!」
老人は得意そうに胸を張った。
「色も音も、全部違うんだ」
「全部?」
「そうだよ。いくつあると思う?」
キオは空を見上げた。
シャボン玉は、数えきれないほど浮かんでいる。
「……分からない」
「わしも分からん!」
老人が大声で笑った。
キオは少し不思議そうに老人を見た。
「自分で作ってるのに?」
「そうさ! わしが作ってるのに、わしにも分からん!」
老人はまた笑った。
「だから毎晩やってるんだよ!」
そう言って、またシャボン玉を飛ばし始めた。
キオは少しの間、その場に立っていた。
そして、ゆっくりと広場の中央へ歩き出した。
*
広場の中央では、音楽隊が演奏していた。
五人の演奏家が、円形の舞台に並んでいる。
大きな弦楽器を弾く男。
笛を吹く女。
太鼓を叩く、ずんぐりした小柄な人物。
見たことのない金色の楽器を演奏する老人。
そして、指揮棒を持った小さな女の子。
女の子が指揮棒を大きく振る。
すると音楽が一斉に速くなった。
タン、タタン、タン!
ポロロン、ポロロン!
笛が高く鳴り響く。
周囲の人々が手を叩いた。
舞台の前では、子供たちが楽しそうに跳ね回っている。
キオは少し離れたところから眺めていた。
音楽は嫌いではなかった。
学校でも音楽の授業がある。
でも、自分から音楽を聴こうと思ったことは、ほとんどない。
ところが、目の前の演奏は少し違っていた。
笛が鳴ると、周囲の提灯が明るくなる。
太鼓が鳴ると、噴水の水が高く跳ね上がる。
弦楽器が速くなると、空を漂うシャボン玉まで、その音に合わせて跳ね始めた。
音楽と街が、一緒に動いているようだった。
キオは舞台の上を見つめた。
女の子が指揮棒をくるりと回す。
演奏家たちが一斉に音を止めた。
広場が静かになる。
一瞬の沈黙。
そして――。
ドン!
大きな太鼓の音と同時に、噴水から金色の光が吹き上がった。
「わあああっ!」
観客たちが歓声を上げた。
キオも思わず顔を上げた。
光は空へ伸び、巨大な花の形になって開いた。
花びらが一枚ずつ落ちてくる。
けれど、地面に着く前に光の粒となって消えていった。
観客たちが拍手を送る。
キオは舞台を見た。
女の子は得意そうに胸を張っていた。
演奏家たちは笑いながらお辞儀をしている。
そのとき、隣にいた小さな男の子がキオに声をかけた。
「ねえ、きみ」
「……何?」
「初めて?」
「何が?」
「この街!」
「うん」
「やっぱり!」
男の子は嬉しそうに笑った。
頭には、星の形をした飾りがついた帽子をかぶっている。
「ぼく、ここの音楽が大好きなんだ!」
「そう」
「毎晩、違う曲なんだよ!」
「毎晩?」
「うん!」
男の子は大きく頷いた。
「昨日はもっと速かったし、その前はみんなで歌ったんだ!」
キオは舞台を見た。
演奏家たちは、次の曲の準備をしている。
「……毎晩やってるの?」
「そうだよ!」
「お祭りなの?」
男の子は首を傾げた。
「お祭り?」
「うん」
「……さあ?」
男の子は少し考えた。
そして、にっこり笑った。
「でも、楽しいからいいじゃん!」
そう言うと、舞台の前へ走っていった。
キオはその後ろ姿を見送った。
しばらくすると、再び音楽が始まった。
今度は、ゆっくりとした曲だった。
笛の柔らかい音が広場に響く。
噴水の水が静かに揺れ、周囲の灯りがゆっくりと明滅する。
キオは広場の端にあるベンチに座った。
少し疲れたのかもしれない。
それとも、もう少し音楽を聴いていたかったのかもしれない。
自分でも、よく分からなかった。
*
しばらくして、曲が終わった。
キオはベンチから立ち上がる。
広場を見渡した。
不思議なことに、誰も急いでいなかった。
仕事をしている人はいる。
荷物を運んでいる人もいる。
店を開いている人もいる。
けれど、みんな楽しそうだった。
誰かが笑えば、近くにいる人も笑う。
知らない人同士が挨拶を交わす。
道端で演奏が始まれば、足を止めて聴いていく。
キオの住む街とは、少し違っていた。
地上でもお祭りはある。
学校の行事もある。
でも、それは決まった日に開かれるものだった。
ここでは、まるで街全体が毎日お祭りをしているようだった。
キオは近くの時計塔を見上げた。
大きな時計の針は、夜の三時を少し過ぎたところを指していた。
「……もう三時」
普段なら、ぐっすり眠っている時間だった。
明日の朝は学校だ。
母親に見つかったら、きっと叱られるだろう。
それでも、キオはすぐに帰ろうとは思わなかった。
まだ、来たばかりだった。
そのとき。
ぐうう。
小さな音がした。
キオは自分のお腹を見下ろした。
夕ご飯は食べた。
でも、もうずいぶん時間が経っている。
それに、歩き回って少しお腹が空いたらしい。
風が吹いた。
どこからか、香ばしい匂いが漂ってくる。
焼きたてのパン。
肉の焼ける匂い。
甘い菓子の香り。
キオは顔を上げた。
広場の向こうに、たくさんの屋台が並んでいる。
湯気を上げる大きな鍋。
串に刺された肉。
山のように積まれた焼き菓子。
店先には色鮮やかな看板が並び、人々が楽しそうに食べ歩いていた。
店の一つには、大きな赤いドラゴンの絵が描かれている。
その下には、こんな文字があった。
『名物! ドラゴン肉の串焼き!』
キオは看板を見つめた。
「……ドラゴン?」
学校の図鑑で見たことがある。
大きな翼と鋭い爪を持つ、伝説の生き物。
でも、食べられるとは知らなかった。
キオは少し考えた。
ドラゴンの肉って、どんな味がするんだろう。
そのとき、上着のポケットで小さく硬貨が鳴った。
迎えの船の男からもらった革袋だった。
キオは袋を取り出し、中を覗いた。
金色と銀色の硬貨が、街の灯りを反射して輝いていた。
もう一度、屋台を見た。
香ばしい匂いが、風に乗って流れてくる。
「……ちょっと食べてみようかな」
キオは誰に言うでもなくつぶやいた。
そして、革袋を握りしめ、屋台の並ぶ通りへ歩き始めた。
頭上では、色とりどりの提灯が揺れている。
シャボン玉がふわふわと流れていく。
背後からは、楽しそうな音楽が聞こえていた。
天空の不夜城の夜は、まだまだ続いていた。
第二章 眠らない街 了




